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某|春眠 2|川上弘美

 女の子とセックスをしたい。

 という欲望は、かなり強いものだった。ぼくは、セックスできる相手を、真剣に探すことにした。

「せっかく高校生なんだから、セックスにばっかり興味を持つんじゃなく、哲学的思索にふけったり、世界のなりたちを疑ってみたり、勉学にはげんだり、部活にいそしんだりしたら? そういうことがゆっくりできる時期って、あんがい短いんだよ」

 蔵利彦が、珍しく意見を述べた。いつも黙って日記に読みふけるか、あるいは、唐突に治療方針を告げるかしかしない蔵利彦にしては、珍しい。

「だって、どうせ野田春眠でいられる時間も、限られてて、じきに次の者にならなきゃいけないんでしょ。それだったら、野田春眠がいちばん興味をもっていることを、のびのび追求させてやりたいじゃん」

 ぼくが言い返すと、蔵利彦は肩をすくめた。

「そんなことないよ。もしずっと野田春眠でいたければ、それでもいいんだよ」

「でも、日記が停滞したら、どうするの。そしたら、すぐに次、じゃないの?」

「いやいや、あれは君が丹羽ハルカだったから、だよ。丹羽ハルカって、あの先がもうなさそうだったじゃない。そうそう山あり谷ありな人生なんてないわけだから、日記は普通は停滞する。そのたびにいちいち違う者になってたら、身が持たないし」

 蔵利彦のその言葉に、ぼくは少しばかりむっとした。丹羽ハルカの先がなさそうとは、どういう根拠による判断なのだろう。ほんとうのところ、ぼくはもう少し丹羽ハルカとして生きてみたかったのだ。

「じゃあためしに、毎日停滞しきった日記、書いてみますよ」

「なるほど、そうなったら、やっぱり次の者になれって、言いたくなるかもな」

 蔵利彦は、にやりとした。ふん、とぼくは思う。今のところぼくは野田春眠を終了する気などまったくなかった。高校生活は、ぼくにとって日々活気に満ちているのだ。セックスのできる相手を念入りに探すことは、興味深いことだったし、そのために相手をよく観察するのも、面白かった。

「セックスのできそうな相手だということは、どうやって判断するのかね」

 蔵利彦は、聞く。

「セックスできるかどうか、先生には、わからないんですか?」

 反対に聞き返したら、水沢看護師に、

「質問に質問で答えるのは、ずるいよ」

 と、叱られた。蔵利彦は、水沢看護師の言葉にかまわず、少し考えてから、答えた。

「わかる時と、わからない時があるけれど、わからない確率の方が、ずっと高い」

 ふうん、とぼくはつぶやき、蔵利彦をじっと見た。ぼくのようなわけのわからない難しい患者の治療をしようという者なのに、たかがセックスできる相手についての判断ができないなんて、医者として、だめなんじゃないだろうか。

「そうかもなあ」

 蔵利彦は、つぶやいた。

 セックスできるかどうかを判断するのは、簡単だ。
(セックス、する?)と、頭の中で強く念じてみて、
(する!)

 という反応がくるかどうかを確かめればいいだけだ。

「する、っていう反応は、どのくらいの頻度で来るの?」

 水沢看護師が聞いた。

「ほとんど、来ない」

「ああ、よかった」

「でも、その後、ずっと何回もおりにふれて念じつづければ、半数以上の女たちは、する、っていう反応に変わる」

「ほんと? ただの勘違いなんじゃないの?」

 ひどくうさんくさそうな口調で言い、水沢看護師はぼくをじろじろ見る。

「で、実際に君は、その、する、って反応した女の人たちと、セックスしてるの?」

 蔵利彦が聞いた。

「しない時もあるけど、可能な時には、します」

「日記に、書いてないじゃない」

「いやあ、ぼく、恥ずかしがりなんで」

「このくそガキ」

 と毒づいたのは、水沢看護師。

 そうだ。ぼくは今、セックスが楽しくてならない。野田春眠は、高校に転入してから、五人の女たちとセックスをおこなった。


 女たちは、柔らかい。それは、丹羽ハルカとして生きていた時には、知らなかったことだった。自分自身が柔らかくともたいして気持ちよくはないが、ふれあう相手が柔らかいのは、たいへんに心地よいことである。

 ぼくがセックスをした相手のうちわけは、以下のとおりだ。

 高校の近くに住んでいる三十代の女性。バイトをしているファストフードの店の副店長、二十代。道を歩いていたら声をかけてきた二歳年上の女性。クラスの女子二人。

 このうち、一回だけでは終わらず、継続的にセックスをおこなっているのは、クラスの女子たち二人だ。

「それ、ものすごくまずいよ」

 水沢看護師は言う。

「おまけに、ついこの前男になったばかりのくせして、いやに女に好かれるのが、なんか不条理で腹が立つ」

「ついこの前からだったとしても、今はれっきとしたXY染色体の持ち主だっていう検査結果も出てるし、それに、何もしないで女に好かれてるんじゃなくて、必死に信号を送りつづけ、女性一般の気に障ることは極力せず、清潔を心がけ、誠心誠意会話をおこない、相手の興味の対象にぼくも興味を抱き、してほしいことをしてほしいタイミングでおこなうよう勘を研ぎ澄まし、それでも失敗を繰り返し、その失敗をフィードバックし、新たな手腕を身につけ、毎日努力をかかさず、ようやく数名の女たちとセックスをおこなうことができているのです」

「さいざんすか」

 水沢看護師は、ため息をついた。
 ため息をつかれてもつかれなくても、なんでもいい。ぼく、野田春眠の体は、セックスをおこなうことを欲している。それはたとえて言うなら、目の前に常に「セックス」という極彩色の文字が、びかびかと灯りつづけているような、感じなのである。

「さすが若人だな」

 というのは、蔵利彦の言葉である。ぼくの中の「セックス」の文字は、極彩色じゃなくて、あれだな、なんだか砂っぽい色だなあ。そう続ける。

 そういえば、丹羽ハルカは、どうだったのだろう。ぼくは、思い返してみる。

 丹羽ハルカだった時には、野田春眠の体が感じているような性欲は、そうだ、もっていなかった。けれどそれでは、丹羽ハルカに欲望がまったくなかったのかというと、違うような気がする。かたちにはなっていなかったもの。でも、たしかにそこにわだかまっていたもの。

 そんな、言葉では表現できないような、曖昧だけれど、熱いエネルギーが、丹羽ハルカの体の奥底には、存在していたような気がする。


 病院での日常と、病院外での日常の乖かい離りに、ぼくはときどき驚く。病院でのぼくは、野田春眠とは、少し違う者になるようだ。なんといおうか、病院外では確固としていた「野田春眠」が、病院の中ではゆるやかにほどけ、まだ彫りが浅い、つくりはじめたばかりの彫刻の原型のようなものに戻る、という感じだろうか。

 原型に戻った野田春眠は、丹羽ハルカになる前の、「記憶をもたない不明な存在」に、少し近くなっている。それゆえに、性欲はいくらか減退し、感情の起伏も平坦になり、病院外の野田春眠にくらべると、会話もはずみにくい。

 それでも、丹羽ハルカにくらべれば水沢看護師とも蔵利彦ともよく喋っている。ただでさえぼくのことを「ばか」だの「くそガキ」だのと呼ばわる水沢看護師が、病院外でのさらに活発なぼくを見たら、いったい何と言うことだろう。

 野田春眠でいることを、ぼくはけっこう気に入っている。今週も、同じクラスの二人のどちらかと、できれば二人両方と、セックスをしたいものだと、ぼんやり思いながらぼくは眠りについた。

 けれど、ものごとはそううまくは運ばない。

 というのは、水沢看護師が言った言葉である。ぼくは、べつに「うまく」事を運んでいたつもりもないので、そのような表現は思いつかない。

 継続的にセックスをしている相手のうち、堀内という女子が、もう一人の女子、三枝さえぐさを呼び出し、ひどい喧嘩になった。二人は、体育館の裏で喧嘩をしたのだ。なぜそんな安易な場所で喧嘩をするのだろう。

「昔ながらな呼び出しの場所だなあ。高校生には、居場所が少ないってことだな。不自由で、かわいそうだ」

「かわいそうなのは、その二人の女の子たちで、こいつはかわいそうでもなんでもないわよ。全然、不自由そうじゃないし」

 蔵利彦と水沢看護師は言いあっている。

 喧嘩をした堀内と三枝は、その身体に、数ヶ所の打撲、ねんざ、裂傷を生じ、騒ぎを好奇心まんまんで見物していた同級生らに喧嘩の原因と経過を言いふらされ、その内容は教師にまで伝わった。結果として女子たちは訓告、ぼくは停学処分になった。

「でもなぜ、野田春眠だけが停学になって、女子たちはならないんだろう」

 ぼくは、ぼやいた。

「手当たり次第な男は、痛いめにあうの」

「複数の異性とのセックスが、法律に反するっていうわけでもあるまいし」

「法律の問題じゃないでしょ」

「で、野田春眠は、愛とか恋とかいうものには、興味がないのか? 複数の女たちとセックスをおこなっても、野田春眠の心には、少しのさざなみも立たないのかね?」

 という質問をしたのは、蔵利彦である。停学になったぼくは、久しぶりに病院の部屋でのんびりしているのだ。

 バイトも休み──停学中で蟄居(ちっきょ)していなければならないと、副店長に報告したら、副店長はしばらく黙っていた。蟄居、という言葉がわからなかったらしい。ちなみに、副店長とは、一回セックスした後は、何もしていない。していないにもかかわらず。副店長はこのごろなんだか不機嫌で、少しぼくは困っていたのだ──

 ベッドの上で寝そべっているか、病院の中庭を散歩するかしていると、野田春眠の野田春眠性は急速に薄れていって、どんどん原型がえりしてゆく心地なのが、面白かった。

「興味がないのでもないようですが、愛や恋といった感情よりも、性欲が圧倒的に勝ってしまっているので、それらの感情があらわれる余地がありません。おまけに、性欲を恋情だと思いこんで自分や周囲にある種の言い訳をする、という必要を感じていないようなので、ますます情愛は二の次三の次になっていますね」

 他人ごとのように、ぼくは答えた。いや、こうして病院で原型にかえってみると、野田春眠は、丹羽ハルカなどよりも、ぼくにとってはよほど「他人」である、という感じがするのだ。

 丹羽ハルカのような、性格や執着する対象が希薄な人間のほうに、より同調しやすい、というのは、不思議である。けれど、ある時期以前の記憶をもたない者である自分には、むしろ希薄な人間のほうが近しく感じられるのかもしれない。

「丹羽ハルカって、ぼくにとってはけっこう自然な人間だったんだけど、野田春眠は、そうじゃないような気がする。なら、野田春眠っていう人間の性格や感情は、いったいどこからきているのかな」

 ぼくは、蔵利彦に聞いた。

「それは、大切な問いだなあ。君は、どう思うの?」

 しばらくの間、考えてみた。最初に野田春眠になった時のこと。高校に行ってからのこと。バイトを始めた時のこと。黒田や長良頼子と一緒に過ごしている時のこと。病院に帰ってきてからの、少しだけ、からっぽな感じのこと。

「外界からの刺激で、どんどんその場で、野田春眠は、できあがってきたのかなあ」

 ゆっくりと、ぼくは答えた。正確な答えではなかったが、今のぼくの能力では、これ以上の言葉を思いつかない。

 ふうん、と、蔵利彦は言った。蔵利彦の表情が、少し、不穏だ。

 もしかすると、また失踪することになるのかな。ぼくは思い、どきりとした。今はまだ、野田春眠でいさせてほしかった。

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