ヘーゲル的な人倫こそが実は社会を変えていく #4 言語が消滅する前に
いまもっとも注目される哲学者といえば、國分功一郎さんと千葉雅也さん、この二人をおいて他にいないでしょう。『言語が消滅する前に』は、そんな二人がコロナ禍で加速した世界の根本変化について語り合った対話集。情動、ポピュリズム、安全至上主義、エビデンス主義、グローバル資本主義、弱体化する言葉……。いま世界で起きていることが見えてくる本書から、一部を抜粋します。
* * *
革命的な力を持っている「人倫」
國分 最近、イギリスではハード・レフトのジェレミー・コービン率いる労働党が選挙で大躍進しました。どうして勝ったのかというのをジジェクが分析していて、それが面白かったんです。
六〇年代には左派のほうが乱暴で、右派が上品だった。いまは完全に入れ替わっていて、右派のほうが下品になっている。
他方、左派のほうはというと、ツイッター・カルチャーに支配されつつあって、言葉の一部を取り上げて脊髄反射的にポリティカリー・コレクト(PC)を基準にして攻撃を加えるばかりで、少しも議論を組み立てられない。
コービンが受け入れられたのはこのどうしようもない対立の中に入らず、ディーセンシーを保ちながら選挙戦を戦ったからだというんです。
ジジェクはそこで、ヘーゲルの言う「人倫」に言及するんですね。人倫とは、はっきりと言うべきことや口に出してはいけないことを規定している暗黙のルールやマナーのことです。実はこういうものこそが社会において革命的な力を持つ、と。
コービンは穏やかに見えるかもしれないが、人倫を体現する彼のような人物こそ、実は革命的な起爆力を持っている。これはすごく面白いなと思いました(Slavoj Zizek, ‘The secret to Corbyn’s success was rejecting PC culture as much as he rejected rabble-rousing populism’, Independent, Monday 12 June)。
ああいったディーセントな左派のあり方というのは、いまの政治のあり方としてパンチ力がないような感じがする。でも実はそうではない。人倫に依拠しているということが実は革命的な力を持ちうるし、人々に訴えかけるのだという一つの時代診断ですね。
日本の分析みたいな感じがする。問題は共通しているのだなと思いました。これはコミュニケーション過剰社会における一つの処方箋になるのではないか。
千葉 右派がそのように過剰に下品になっている状況であれば、左派も同じく下品に対抗するしかないという開き直りもあるようですが、短期的にそうせざるをえない場合があるにしても、長期的には人倫なんだと思います、右にしても左にしてもです。
礼の概念に新しい息を吹き込む
國分 今日は貴族的なものの話などをしましたが、ある意味では僕らはヘーゲル的な人倫みたいなもののことを言っていたのかもしれない。そういうものが持っている力を再評価するというのが課題なのかという気がしています。
僕は徳や貴族的なものという言い方しかしなかったのですが、ヘーゲル的な人倫こそが実は社会を変えていくと言ってもいいのかもしれない。
いまの右派のポピュリズム的言説、「ネトウヨ」的言説というのは、人倫に対するガキの反抗のようなものです。それに対し、左派もPC的な言葉狩りのようなことばかりしている。
そのどちらにも与しない人倫を大切にする主張のほうが、最終的に社会に対してインパクトを持つ。これは今日ずっと議論してきた貴族的なものの話にもつながると思います。
千葉 僕が好む言い方では、礼ですね。礼の概念に新しい息を吹き込む。過去から「礼はこうだった」というのに従わせるのではなく、可塑的なものとしての礼です。礼の発生ですね。礼の発生プロセスのただなかを生きること。それはいかに可能かという問いです。
國分 新たな人倫の発明であり、礼の発明であり……。
千葉 あるいは、貴族的なものの発明でもあるということです。
國分 しかもそれは社会を変革する力になる。
千葉 そうですね。
國分 これをごく普通の保守主義だというふうに回収されないように訴えるにはどうしたらいいでしょうね。
千葉 今回のような議論ならば、回収されないと思いますよ。
◇ ◇ ◇