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「ああ、この笑顔だ」亡き妻が夢に現れて…読む人それぞれが「私の物語」と嗚咽する再生と希望の物語 #2 骨を彩る

十年前に妻を失うも、最近心揺れる女性に出会った津村。しかし罪悪感で喪失からの一歩を踏み出せずにいた。そんな中、遺された手帳に「だれもわかってくれない」という妻の言葉を見つける。彼女はどんな気持ちで死んでいったのか……。

わからない、取り戻せない、どうしようもない。心に「ない」を抱える人々を痛いほど繊細に描いた、彩瀬まるさんの『骨を彩る』。全国の書店員さんが涙した本作から、第一話「指のたより」をご覧ください。

*  *  *

「おい、この家、普段はからっぽだろう。こもるにしても、食料とかあるのか」

「ふふん。こんなこともあろうかと」

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やけに得意げな声に誘われ、津村は妻に続いて居間を出た。年季の入った台所には料理好きだった義母の鍋やフライパンが見知らぬ昆虫の抜け殻のように積み上げられている。腰を屈めて調味料の並んだ食料棚をあさっていた妻は、しばらくして大量のチキンラーメンを取り出した。ほかにも魚の缶詰や梅干しなど、まとまりのない保存食を次々とテーブルへのせていく。

「あとね。ビールも箱買いしてあるから、だいじょうぶ。雪が解けるまで、一週間ぐらい飲んだくれていようよ」

妻の顔が、若かった。亡くなったときだって若かったけれど、出会ったばかりの二十歳前後の顔をしていた。黄金色の光があふれるような笑顔だった。

朝子、と呼びかけようとして、津村は舌を止めた。

チキンラーメンの包みを持つ妻の右手には、三本しか指がなかった。

俺を恨んでいるのか、と言おうとしても、口が動かない。こんなににこやかに微笑む妻は、もしかしたら自分が三本指であることに気づいていないのかも知れない。なら、知らせない方がよいのではないか。そんな、突拍子のない思考が舌をにぶらせる。仕方なしに津村は三本指の妻を手伝って湯を沸かし、葱を刻み、卵を落としたチキンラーメンを二つ用意した。こたつへ運び、満ち足りた気分でビールをあおる。

雪に閉ざされた家は静かで、こたつは温かく、妻は笑っている。がらんどうの家にめぼしいものはなにもない。隙間だらけで、それでもずいぶん幸せだった。

目を覚ました津村は、しばらく呆然と天井を見つめた。妙な夢だ。十メートルを越える積雪って、なんだ。それに妻が亡くなったとき、まだ彼女の両親は存命だった。いつものことだけれど、夢は相変わらずわけがわからない。

ただ、背景がいくらでたらめでも、あれは確かに結婚したばかりの頃、自分と妻を包んでいた空気だ。見るものすべてが美しく、世界に対してなんの怖れも抱いていなかった。そんな輝かしい瞬間が、津村の人生に確かにあった。

寝台から腕を伸ばして通勤鞄をたぐり寄せる。革製の定期入れの、普段は使わない奥のポケットから古びた写真を引き出した。見るのは久しぶりだ。小春の一歳の誕生日に桜の下で撮った家族写真。若い妻は小花の散ったワンピースを着て、星のアップリケが付いたロンパース姿の小春を抱いている。

ああ、この笑顔だ、と薄甘い夢の余韻を嚙みしめる。


コハクチョウが水しぶきをあげて冬の湖を切り裂いていく。湖の端に届くかというところで、純白の羽を開いて飛び立った。羽の眩さと青空とのコントラストに惹かれ、ベンチに腰かけた津村は携帯のカメラを起動させた。そばに座る光恵も、デジタルカメラのシャッターを切っている。二人の間に置かれたタッパーには、まだいくつかのおにぎりとお新香が残されていた。おにぎりは、舞茸と里芋の炊きこみご飯だった。

「味が、いつも売ってるのと違うね」

「店の惣菜は、すべて父が味を決めているの。けど、家の食卓は母の味で、私もそれで育ったから、つい店の味つけよりも薄味にしちゃうんです」

食事を終えた後も二人並んで、水筒に詰めた温かいほうじ茶をすすりながら銀色の湖に群れる水鳥を眺めた。あれは、ホシハジロ、マガモ、と光恵はときおり岸に近づいてきた鳥を指差す。丸くなってうたたねしている一羽が、他の鳥の泳ぐ流れに押されて杭にぶつかり、どちらからともなく笑った。

「鳥の中にも、いろいろいるんだ。いつも周りを見て、カラスが来たら真っ先に飛び立つやつ。そいつが飛んだらつられて飛ぶやつ。危険がないと知ったら真っ先に寝るやつ」

「私、あの眠ってる鳥でした。いつもぼーっとしてて、友達の方がずっとしっかりしてた」

はにかみまじりに語る光恵の目元を見ながら、津村はへえ、と相づちを打った。光恵のまぶたがはらはらと淡く光っている。薄いピンク色のアイシャドウを付けているのだろう。同時に、津村は亡くなった妻のまぶたにはもっと色の濃い、金色や紫色のアイシャドウが塗られていたことを思い出した。

かつての妻は、真っ先に飛び立つ鳥だった。妊娠するまで化粧品メーカーの広報をしていた彼女は快活でフットワークが軽く、休日にはママ友達と一緒に子連れでも過ごしやすい場所を探し、積極的に出かけていた。彼女の存在はいつもみずみずしく、もいだばかりの果物のような爽やかさで家を満たし続けた。

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休憩を終え、光恵はハンドバッグから一冊の文庫本を取り出した。

「最近は、こんなものを作ってみたんです」

本には紺色の千代紙で作ったブックカバーが掛けられていた。背表紙の部分だけ、まるで夜を照らす街灯の光のように黄色い紙が貼り足されている。光恵はこういった紙細工がずいぶん好きなようだ。メモ帳やペンケースにも花のかたちに切り抜いた紙片を貼り付けているのを見た。ちょっとお菓子がおいしくなるの、とチョコレートの箱を千代紙で覆って、楽しそうに食べていたこともある。女性らしい遊びだとも言えるのだろうが、千代紙を貼られた品々が放つねっとりとした空気の甘さが、津村は少し苦手だった。

「きれいだね、色のセンスも良い」

感心したように言って、文庫本を光恵の手に返す。彼女はにこにこと微笑むことをやめない。

千代紙貼りは、二年ほど前から始めた趣味だという。二年前、彼女は夫と離婚した。その時期の符合が、なおさら彼女の趣味を息苦しいものに見せているのかも知れない。

光恵は素敵な女性だ。ひかえめで、気遣いにあふれ、よく笑い、声も低くて気持ちが良い。週に一度は近所のテニススクールに通って汗を流しているとかで、体つきもほどよく均整がとれている。昭和のレトロな日本映画を借りて観るのも好きらしく、その趣味に関しては映画好きの津村と大いに話が弾んだ。きっと彼女と結婚すれば、休日には一緒になつかしい映画を観て、当時の時代背景や人物の描かれ方について語り合い、楽しい時間を過ごすことが出来るのだろう。

そこまで思っていても、津村が光恵との交際にアクセルを踏みきれない理由が、この、千代紙だった。押し寄せる色彩の群れからは、うっすらと病の匂いがした。

カラスの鳴き声をきっかけに、水鳥たちが一斉に湖面を蹴った。しぶきを上げながら羽を動かし、ゆっくりと空を旋回する。鳥たちの舞踏会を眺め、それじゃあ店番に戻ります、と光恵はベンチを立った。

別れ際、光恵は「よければ小春ちゃんに」と明るい桜色の千代紙で作った文庫本カバーを差しだした。津村は礼を言ってそれを受け取る。小春は前に津村を通じて受け取った千代紙の小箱を「なんか年寄り臭い」と鼻で笑い、けれど何か思うところでもあるのか、イヤリングや指輪などを入れて律儀に使っている。数ヶ月前に津村と光恵が親しく駅前を歩いているところを見て以来、娘は父親の恋にたいそう協力的だった。「老後のパパの世話、私一人じゃどうしていいかわかんないし」とさばけた口調で言って、どこか面白がるように肩をすくめる。男手一つで周囲を見回しながら育てた娘は、ずいぶんと大人びた性格に育った。津村は娘から学校や自分の成長に関する悩みをほとんど聞いた覚えがない。

小柄な後ろ姿を見送りながら、津村はふと、光恵が店番の時にいつも履いているスニーカーではなく、ヒールの付いたライトベージュのパンプスを履いていることに気づいた。

数日後、また妻の夢を見た。妻はソファに座って育児雑誌を読んでいた。ネクタイをほどいている津村に、「ねえ、蒸した人参をぐちゃぐちゃに潰してミルクと砂糖を混ぜたものって食べたいと思う?」と聞いてくる。津村が首を振ると肩をすくめ、「そうよねえ」と笑った。夢の中で、妻はいつも幸せそうに笑う。揺れのない、安定した幸福感を漂わせている。雑誌を押さえる右手の指は、二本だった。どうやってページを押さえているのだろう、と思う間もなく目覚ましが鳴った。


十二月半ばの週末に、津村は家の大掃除を始めた。風呂場のカビを取り、拭き清めたフローリングにワックスを掛け、網戸を水洗いする。娘の部屋は自分で掃除する取り決めになっているので、それ以外の部屋へ順々に掃除機をかけていく。

居間に安置している妻の位牌や写真立ても、きれいに拭いて並べ直した。リンや香炉を清め、最後に線香に火をつけて手を合わせる。

写真立ての妻は花のように微笑んでいる。これは確か、小春のお食い初めの時の記念写真を引きのばしたものだ。夢で出会う妻は、だいたい定期入れに忍ばせた家族写真の若く輝かしい笑顔か、もしくはこの遺影と同じ満ち足りた優しげな表情を浮かべている。発病する前の穏やかな日々。彼女の人生でもっとも幸福な時期だったことだろう。

短い人生だったけれど、きっと妻は精いっぱいに生き、悔いなく逝ったのだ。家族三人、幸せな時間がたくさんあった。彼女の遺伝子を受け継いだ小春は今日も元気に部活へ精を出している。それでいいじゃないか。それ以上の何を望むというのだ。

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骨を彩る 彩瀬まる

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