見出し画像

悪魔のクスリ「ヒート」の正体…アウトロー麻薬取締官が挑むノンストップミステリ #3 ヒートアップ

麻薬取締官・七尾究一郎は、製薬会社が極秘に開発した特殊薬物「ヒート」によって起こった抗争の捜査を進めていた。そんな折、殺人事件に使われた鉄パイプから、七尾の指紋が検出される。一体、誰が七尾をはめたのか……? 『さよならドビュッシー』などで知られる人気ミステリ作家、中山七里さんの『ヒートアップ』は、最後のどんでん返しまで目が離せないノンストップアクションミステリ。前作『魔女は甦る』とあわせてじっくり読みたい本書より、一部をご紹介します。

*  *  *

「病院に担ぎ込まれた少年は脳挫傷と内臓破裂で今も意識不明のままベッドの上です。この少年に限りません。まさかと思い警視庁に照会したら抗争絡みの死傷者は既に数件出ていました。放置しておけばヒートを介した抗争は続き、こうした犠牲者も確実に増えていくでしょう。それに、もう一つ気になる噂があります」

画像2

「まだあるんですか」

「そのヒートを暴力団が狙っている、というまことしやかな話です」

脳裏を不安がよぎった。

少年たちの行いも粗暴だが、本職のヤクザとは決定的な違いがある。すなわち銃刀類を所持しているかどうかだ。もしもヒートをキめた暴力団員同士が武器を手に戦闘を開始すれば、その死傷者の数は比較にならない。

「たかが子供たちの抗争でこれだけ手を焼いているのに、この上ヤクザが絡むとなると……そうなれば、とても関東信越地区の人員では対処できません。いや、そもそも麻取の仕事ではなくなってしまう」

篠田は心持ち頭を垂れ、机の上で祈るように両手を組んだ。

見覚えのあるポーズだった。作戦立案、予算交渉、人心掌握に根回しと万事にそつのない篠田が、それでも万策尽きた時に見せる仕草だった。そして部内に聞く限り、この姿を目撃したのは自分だけらしいので、どうやら篠田は自分を頼みの綱としているらしい。

と、すれば、またぞろこの上司から無理難題を持ちかけられるのだろうが、それが不思議に心地よいのは篠田の掌握術に自分もからめ捕られている証拠か。

「で、課長。わたしがヒートの捜査を再開するとして何かプランはありますか?」

「任せますよ」

篠田は阿吽の呼吸でそう答えた。

「現状、売人と目される仙道寛人の行方も分からず、購入者が毎回異なる不特定多数のため、ガサ入れはおろか張り込みの目処すら立ちません」

「ないない尽くしのまま部下に丸投げするおつもりですか?」

「もちろん情報官室には警視庁と連携を取りつつ、仙道寛人の行方を追跡させてます。しかし、わたしは我が一課のエースが彼らよりも早く情報を掴んで来ると睨んでいるんですけどね」

「買い被り過ぎです」

「それは過小評価です」

「言葉では敵いませんね……課長は人を動かすのが本当にお上手だ」

「だからこそ管理職をやっています」

苦笑いを残して部屋を退出しようとした時だった。

「ああ、もう一つ」と、背中に声を掛けられた。

「今回、例の得意技は封印してください」

「え?」

「ヒートは依存性も耐性もゼロに等しい、というのがウリのようですが、一部使用者の中には依存性どころか未だに体内にその成分を残し、廃人同様になった子供もいるそうですから」

2

篠田からの穏やかな指令を伝えると、鰍沢は露骨に顔をしかめた。

「渋谷のガキ相手となると、あれだけの人数だから内偵も厄介だな」

「それから、あの手法は使わんようにと釘を刺されたよ。ヒートは体内に蓄積する可能性もあるからって」

「今回じゃなくたって、俺は一度だって賛成してないからな。お前のあれは禁じ手だ。他の麻取に伝授できるもんじゃなし、鶴の恩返しみたいに、文字通り身を削って滅私奉公するようなもんだ」

「相変わらずアナクロな表現するねえ。せめて課長みたいに得意技とか言って欲しいものだけど」

捜査一課は篠田課長を含めて八人構成だが、これだけの人員で関東信越地区全域の事案を担当している。政令で定められた麻薬取締官の定員は二百四十名。事務所総勢四十六名という数は割合を考慮すれば妥当だが、やはり人員不足の感は否めない。少数精鋭といえば聞こえはいいが、実態は適材の少なさにある。

その中でも七尾は有能で、しかも稀有な人材だった。

「じゃあ、まず確実なネタ元から潰していきましょうか。渋谷署には、もう何人かヒートを使った子供が補導されてるんだったね」

協議の結果、渋谷署には七尾と熊ヶ根が赴くことになった。相手は少年といえども暴力と恐喝に馴染んだヤクザ予備軍だ。熊ヶ根のような偉丈夫を前にすれば歪んだ唇も少しは滑らかに動くだろう。

渋谷署に到着するとすぐ生活安全課に通された。現れたのは鳥越将十五歳。一昨日、対立するチームの溜まり場に乱入し、その場に居合わせた少年三人と無関係者一人を半死半生の目に遭わせたのだという。

将はピアスだらけの顔にまだ幼さを残しており、傷害で捕まったというのに屈託のない様子だった。晒された腕には乱闘の過程で無数の傷が刻まれていたが注射の痕は一つきりしかない。

「へえ。麻薬取り締まりってポリだけじゃないんだ」

二人が身分を明かすと、将は興味深げに観察し始めた。

「えらく余裕あるじゃないか」

熊ヶ根が低い声で反応を確かめるが、将は一向に悪びれない。

「だあってよー。俺、何もしてねーから」

「何も? 都合四人に重軽傷負わせてるんだぞ」

「知らねーって。気がついたら手足血まみれでトラ箱の中にいたんだ。身に覚えのないことで反省なんかできるかっつーの」

「そうか」

熊ヶ根はそう言うと、歯を見せながら将に顔を近づけた。

画像1

「な、何だよ。気っ色悪りーな」

「どうやらよく記憶喪失になるみたいだな。だったら、これから何をされてもどうせ忘れちまうんだろうなあ」

熊ヶ根の指毛だらけの手が机上に置いてあった空き缶を握り締める。そして、ぐいと力を加えると缶は紙コップのようにひしゃげた。

潰された缶の下部には〈スチール缶〉の表示がある。将は目を剥いてそれを見た。

「あのさ、普段は二人ともヤクザ者しか相手にしてなくて、君みたいな子供の扱い方知らないんだ。特にこのお兄さんは、タバコ吸ってる未成年者を見かけただけで殴りかかる道徳心の持ち主だから。あまりツッパらない方がいいよ」

その言葉を受けて熊ヶ根が唇の端を吊り上げると、将はさっと顔色を変えた。

「じゃあ最初に聞くけど、記憶失う前に何かクスリ打ったよね。ここから否認しちゃ駄目だよ。尿検査の結果はもう出てるんだから」

「……ああ」

「仲間内でヒートと呼ばれているクスリだね」

「ああ」

「打った時、どんな感じがした?」

あの喫茶店のコーヒーはどんな味がした? ――とでも訊ねるような口調だったが、答える側はそれで抵抗感を薄めたようだった。

「うーん……。まずさー、浮く感じっての? 身体からどんどん重さが消えてくんだよ」

「それから?」

「見ているものとか聞こえてるものが、いちいちはっきりしてくるんだ。対面のダチが着ている服の毛羽立ちとか心臓の音とか。何かさ、目も耳も鼻も研ぎ澄まされて野生動物になった、みたいな。その次に身体中にエネルギーが溜まっていく。目盛り付きの容器に水が入ってくような感じかな」

「まるでスーパーマンの気分?」

「ああ、そうそう。それ」

「相手のいる場所に乱入したことは憶えているかい」

「それがさー。あいつらの顔が血だらけになってくのは見えるんだけど、自分が何したかってなるとじぇんじぇん分かんねーんだよ。夢見てるみたいでさ。武器を持たされた憶えねーから、きっと素手だったと思うけど、殴ったら当然こっちの拳も痛いはずなのに触った感触すらねーの。で、ふうっと意識が遠のいたと思ったら、ここにいた」

将が丸腰で現場に現れたのは、被害に遭った少年たちの証言通りだ。それゆえに少年たちも油断していたのだが、彼らの姿を認めるなり、将は獣のように雄叫びを上げて襲いかかったらしい。

まず、わらわらと横から出た制止の手を弾き飛ばすと相手方のヘッドに飛びかかり、その顔面にいきなり頭突きを喰らわせた。大量の鼻血と衝撃でヘッドはすぐに戦意を喪失したのだが、将はその後頭部を片手で軽々と掴み上げコンクリートの壁に鼻骨の折れた顔を何度も何度も叩きつけた。

このままでは死んでしまうと判断した配下の二人が止めに入ったが、将は一人の目に親指を突っ込んで眼球を潰し、もう一人の耳を噛み千切った。そして二人がのたうち回っている中、噛み千切った耳朶を咥えたまま再びヘッドの頭を壁に叩きつけ始めた。

その様は完全に理性を失くした異常者であり、さすがの悪童たちも恐れおののいて逃げ出したらしい。

「あいつらが血だらけになっていく途中で止めようとは思わなかったのかね」

「だっからー。止めようとか、そういう気持ちが起きねーんだってば。まるでテレビや映画観てるみたいに向こう側の出来事なのさ。目には映るんだけど、頭の前の方でもっとやれもっとやれ、ここで止めたら逆にこっちが殺られるぞーって何かが叫んでるんだ」

将はまるで他人事のように淡々と話し続ける。この自覚の欠如こそがまさにヒートの特徴だった。戦闘においては理性のない方が勝つ。その最中には恐怖も苦痛もなく、終わった後には後悔すらもない。戦闘員に一片の罪悪感も残さないという美点もある。そうした意味で、ヒートは局地戦用の向精神薬としてはこの上なく理想的なものだった。

「そのヒートだけど、君はヘッドからもらったのか」

「そーだよ。ッキショウ! それだけは本当腹立つんだよなー。あの野郎、俺にはスピードだとか言って騙しやがったんだぜ」

「どうやってヘッドが入手したか、その経路を知らないか」

「買ったんじゃねーの? あいつから」

「あいつって誰だい」

「グラサン掛けた売人。ヒート専門でさ、俺たちみたいなチームの溜まり場を見つけてはセールスするんだってよ。詳しいこと、俺らは知らねーよ。けどヘッドなら知ってるかもね」

恐らくそれが仙道寛人だろう。彼からヒートを買い受けた少年たちの証言とも一致する。

「お前は本当に知らないのか」

改めて熊ヶ根が凄んでみせると、将は震えるように首を振った。

「知ってたら言うって! 俺だって今度のことじゃ被害者なんだからよー」

本当の被害者は今頃ベッドの上で唸っている少年たちなのだが、そのことにすら思い至らない自覚のなさに七尾たちは嘆息する。

◇  ◇  ◇

連載はこちら↓
ヒートアップ

画像3

紙書籍はこちら

電子書籍はこちらから