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子どもは親を選べないからさ…慟哭の真実が明らかになる感動ミステリ #5 罪の境界

「約束は守った……伝えてほしい……」。それが、無差別通り魔事件の被害者となった、飯山晃弘の最期の言葉だった。みずからも重症を負った明香里だったが、身代わりとなって死んでしまった飯山の言葉を伝えるために、彼の人生をたどり始める。この言葉は誰に向けたものだったのか? 約束とは何なのか?

薬丸岳さんの最新刊『罪の境界』は、決して交わるはずのなかった人生が交錯したとき、慟哭の真実が明らかになる感動ミステリ。謎が謎を呼ぶ、本作の冒頭をご覧ください。

*  *  *

「さすがにおかしいと思って精神科に行ったら、うつ病って診断された。けっきょく介護の仕事も続けられなくなって、グループホームも二年ほどで辞めた。新しい仕事を探そうっていう意欲も湧かなくて……しばらくは少しばかりの蓄えと失業保険で何とかしてたけど、そのうち家賃も払えなくなって部屋を追い出されて、ネットカフェで生活するようになった」

「生活保護を受けようとは思わなかったの?」
 
その状況であれば、申請すれば受けられるのではないか。
 
「それだけは絶対に嫌だった」ルミが嫌悪感を滲ませた表情で首を横に振る。
 
「どうして?」
 
「もちろん生活保護が本当に必要な人はいると思うし、そういう人は利用すればいいと思うけど、ずっとクズの父親を見てたから。自分はあんなふうにはなりたくないし、人からそう見られたくもないって。意地だね」自分に言い聞かせるようにルミが答えた。
 
「ネットカフェで生活していたときはどんな仕事をしてたの?」
 
「だるい身体に鞭を打って日雇い派遣の仕事をしてたけど、そのうち身体も気持ちもついていかなくなって……最初の頃は毎日働いていたのが、二日に一回になって、それが三日に一回、しまいには一週間に一回働くのもつらいって……その日暮らしていくお金にも困ってたときにネットカフェで知り合った女の子から教えてもらって、体調がマシなときには出会いカフェに行くようになった」
 
出会いカフェとは男女の出会いを仲介する特殊な飲食店で、女性は無料で出入りして飲食できる。そこに来る男が女と交渉して外に連れ出すシステムだ。自由な恋愛の場を謳っているが売買春の温床になっている。
 
「そこで男の人からお小遣いをもらってた?」
 
ルミが苦笑しながら頷く。
 
「いくらぐらいもらえるものなの?」
 
「食事だけだと五千円。ソフトだと一万で、本番だと二万円もらってたかな」
 
「へえ、そうなんだ」
 
何人もの女から話を聞いてだいたいの相場は知っていたが、とりあえず相槌を打った。
 
「最初はもちろん抵抗があったけど……それでも一、二時間我慢するだけで、工場やグループホームで働いた二日分以上のお金が手に入るからね。やめられなくなっちゃった。気づいたらそれが本職になってた」
 
「今も、うつ病の症状に苦しめられたりする?」
 
「本当にひどかった頃に比べたらかなり落ち着いたかな」
 
「それはよかった。じゃあ、今の生活に不満や不安は特にない?」
 
「不満や不安がないわけじゃないけど……わたしの人生、こんなもんだろうなって諦めてるから」虚ろな眼差しをこちらに向けながらルミが言った。
 
「まだ二十四歳なのに?」
 
「生まれ持ったもので人生の大半が決まっちゃうんだよ」
 
ルミが呟いた言葉に、省吾は心の中で同意した。
 
「子供は親を選べないからさ。どういう親のもとに生まれてきたかってことで、その子供の人生の大半は決まっちゃう。ろくに働きもしない酒浸りでクズな父親と、そんな亭主と子供を捨てて浮気相手と蒸発しちゃうような薄情な母親のもとに生まれてしまったっていう時点で、わたしは人生を諦めなきゃならない」
 
黙ったままルミを見つめていると、彼女が寂しそうに笑った。
 
「溝口さんが何を考えてるかわかるような気がする」
 
「何?」
 
「そんなの、わたしの努力不足だって思ってるんでしょう」
 
「いや」
 
省吾が首を横に振ると、意外そうな表情でルミが小首をかしげる。
 
「おれもそう思うよ。どういう親のもとに生まれてきたかってことで、その子供の人生の大半が決まるって」
 
「ありがとう。本心かどうかはわからないけど……わたしの話を否定しないでくれて嬉しい」
 
本心だ。自分もクズな親のもとに生まれてしまったから。話を聞いているかぎりでは、彼女の親よりもさらにクズだった。
 
「以前、ちょっと気の合ったお客さんとこんな感じの話になったことがあったんだ。だけどその人には全然わかってもらえなかった」
 
「きみの努力不足だって?」
 
「そう……高校を中退したのを嘆くなら、働きながらでも高卒の資格を取ることはできただろうって。それに親の経済力がなくても、奨学金をもらって大学に行くことはできるし、そうすればわたしのなりたかった教師になることだって可能だっただろうって。わたしの言っていることはすべて言い訳なんじゃないかって……」
 
たしかにそうやって人生を切り拓いていける人間も中にはいるだろう。だが、そんなに簡単なことではない。

貧困家庭には子供の学費にかけるお金の余裕はない。
 
中には経済的に余裕がなくても、子供の将来を考えて何とかしようとする親もいるだろうが、そんなのはわずかではないだろうか。たいがいは日々を生きていくだけで精一杯で、子供の教育などは二の次になる。
 
経済的に余裕のある家庭の子供との学力の差は、必然的に小さな頃から生まれてしまう。勉強についていけない子供は学ぶことに興味を持てなくなり、その差はさらに広がっていく。そのような状況で学校を辞めざるを得なかった人たちの果たしてどれぐらいが、働きながら高卒の資格を得るために勉強に打ち込もうとするだろうか。
 
それに奨学金にしたって甘いものではない。学業成績のいい者が受けられる第一種は無利子だが、そうではない者が受ける第二種は有利子で、学生ローンと変わらない。
 
実際、大学を卒業して就職したものの、数百万円にものぼる借金を給料の中から返済していくことができず、やむにやまれず風俗の仕事を始めたという女性の話を何十回となく聞いた。
 
「まあ、わたしなんて……まだマシなのかもしれないね」
 
ルミの言葉を聞いて、どういう意味かと省吾は目で問いかけた。
 
「ここで働き始めてからネットカフェで生活しなくてもよくなったし、一応食べていくこともできてるし……それにこうやって雑誌で紹介してくれるってことは店からも期待されてるってことでしょう?」
 
同意を求めるような眼差しに、「そうだね」と省吾は微笑み返した。
 
十五人の風俗嬢が在籍している中でルミの人気は八番目だという。彼女よりも上位の風俗嬢は雑誌に顔を出したくないということでお鉢が回ってきたに過ぎないが、それは口にしないでおく。
 
省吾はちらっと腕時計を見た。もうすぐ約束の時間だ。
 
「今日はありがとう。楽しかったよ。記事になったら雑誌を持ってくるから」
 
「ねえ、わたしもうすぐ上がりなんだけど、この後飲みに行かない?」
 
ルミがそう言いながら、省吾の手にふたたび触れてくる。
 
「そうしたいんだけど、これから出版社の人間と打ち合わせが入っててさ」
 
「じゃあ、今度飲みに誘ってよ」
 
ルミにせがまれて、「いいよ」と省吾は頷いた。
 
社交辞令と思われないようにメールアドレスを交換してから省吾は個室を出た。受付にいる従業員に挨拶して、地上への薄暗い階段を上っていく。
 
三畳にも満たない風俗店の狭い個室から外に出て少しばかりの解放感を味わったが、すぐに夜の歌舞伎町の人いきれに包まれて息苦しさを覚える。
 
ギラギラとしたネオンが輝く路地裏を進み、待ち合わせ場所の居酒屋に向かう。
 
暖簾をくぐって店に入ると、奥のテーブル席で編集者の木下がすでに飲んでいた。
 
「どうも」
 
こちらに気づいて陽気そうに手を上げる木下のもとに近づいていく。
 
「どうだった、今日の娘は?」
 
木下に訊かれ、「悪くないんじゃないかな」と返しながら向かいに座る。
 
打ち合わせといってもたいした話をするわけではない。たまに仕事が終わった木下に誘われ、ライターとの打ち合わせという名目のタダ酒を飲む口実に使われているだけだ。
 
店員がやって来て注文を訊く。「好きなもん頼んで」と木下に言われ、生ビールと数品のつまみを頼む。
 
生ビールといっても提供しているのは発泡酒で、三百円以上のつまみは置いていない激安店だ。
 
木下は自分との打ち合わせにいつもこの店を利用していた。出版社の金で飲ませてもらっているので文句は言えないが、数ヵ月前に他のライターと一緒に高級そうな和食屋に入っていく木下を見かけてから、複雑な心境に駆られ続けている。
 
生ビールが運ばれてきてとりあえずジョッキを合わせると、いつものお約束で木下が手を差し出してきた。
 
省吾は取り出したスマホを操作して写真を表示させると木下に渡した。
 
記事に載せるために取材した風俗嬢を収めた写真だ。本来であれば取材をするライターとは別にカメラマンが同行するものなのだろうが、そこまでの費用はないとのことで自分がカメラマンも兼務している。しかも使っているのはスマホのカメラだ。
 
取材で撮ってきた風俗嬢の写真をつまみにして飲むのがこの男の楽しみだった。
 
「この娘、けっこうよくない?」木下が嬉々とした表情で言ってスマホの画面を省吾に向ける。
 
先ほど取材したばかりの風俗嬢のルミの写真だ。
 
「なかなか素直ないい娘だったよ」
 
「いくつなの?」
 
「二十歳」
 
「それにしてはちょっと老けて見えるな」
 
「苦労してるからだろう」
 
本当は二十四歳だが、オフレコで聞いた話は仕事仲間であっても明かさない主義だ。
 
「で、いくら?」さらに木下が訊く。
 
「三十五分で七千円って言ってたかな」省吾は答えてジョッキに口をつけた。
 
ルミと交わした会話がまだ鮮明に残っているせいか、胃のあたりに苦いものが広がる。
 
だいたい店に半分近く取られるから、男をひとり相手にして彼女が手にする稼ぎは三千五百円ぐらいだろう。二十歳の頃に出会いカフェを通じて客を取っていたときから、あきらかに単価が下がっているということだ。
 
十年後、彼女はどんな人生を送っているだろうかと、ふと想像した。
 
そもそも生きているだろうか。

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罪の境界


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