有頂天家族 #4
言うなれば自分のやったことを対岸の火事だと思っていたのだが、対岸へ火をつけたのは自分だ。四条通を駆け抜けながらわくわくした。
武者震いを鎮めるために、「朱硝子」にもぐりこむことに決めた。「朱硝子」は寺町三条の地下にある店で、我々の眷属がしきりに出入りする。昼は喫茶店であり、夜は酒場にもなる。
寺町通はすでに大方の店舗がシャッターを下ろして、行き来する人もまばらであった。大声で喋る酔っぱらいの声がひっそりとした空気を震わせていた。
べたべたと謎めいたビラが貼ってある狭い階段を下りていくと、地の底から怪しい音楽が湧き上がってきて、地獄巡りへでも出かけるような気がする。それはあながち私の妄想でもない。「朱硝子」はひどく広くて、その果てがどうなっているのか、誰も知らない。これまでに幾度か大集会が開かれたが、幾らでも客は入るので、満席になったことはないという。奥へもぐりこめばもぐりこむほど店は狭くなり、ついには紅いビロード張りの椅子と木の卓子が連なるだけの暗い廊下のようなものになって、ところどころにぼんやりとストーブが燃えている。そこはいつでも冬であり、冥途へ通じているという話だ。
すでに夜となり、「朱硝子」はもう昼の顔をしまいこんで、酒場になっていた。カウンターに私が近づくと、店主は怪訝な顔をしてこちらを見た。
「俺だよ俺だよ」そう言って私は鼻をひくひくさせた。
「なんだ、おまえか」
店主は嫌そうな顔をする。「またそんな格好をして遊んでる」
「どんな格好をしてもいいじゃないか」
「そう迂闊にころころ姿を変えるべきもんじゃない」と、店主は泥鰌のような髭をひねり、真面目な顔をした。「少なくともここへ来るにふさわしい格好をしな。紛らわしい」
私は説教を受け流し偽電気ブランをもらって啜った。
そうやって頬杖をつきながら音楽に耳を澄まし、弁天は先生の恋文を読んだろうかと考えた。よぼよぼの老人が渾身の力をこめて書いた恋文を読んだところで、弁天がいそいそと逢い引きに出かけるわけがない。あの恋文の気色悪さは、想う人を逢い引き場所からむしろ渾身の力をこめて追い払うたぐいの気色悪さだ。たぐいまれなる経験を累々と積み重ねて幾星霜、本来ならばそれぐらいのことは先生にも呑みこめているはずなのにこの体たらく。いと恥ずかしくも哀れなり。
そうやってぼんやりしていると、「私は赤割りを」と言う声がした。そのとたん、うなじを氷のように冷たい掌で掴まれて、私はウワッと首をすくめた。
傍らに座ったのは弁天であった。
○
赤割りというものは焼酎を赤玉ポートワインで割ったものである。弁天がこくこくと白い喉を鳴らして桃色の杯を干しているうちに、「朱硝子」の中は潮が引くように静かになった。こっそり目をやってみると、先ほどまで悠々とくつろいでいた我が眷属たちは姿を消している。店主だけは持ち場を離れるわけにもゆかず、カウンターの隅へ引き篭もって、手足を飴で固められたようにぎくしゃくしながら仕事に精を出すふりをする。臆病者め。小魚たちが怪魚から逃げ惑うさまを思わせるようなあたりの反応についても、弁天はまったく意に介する風もない。日常茶飯事だからである。
彼女は矢が宙を飛ぶ姿を指で描いた。
「さっきのあれは何です。私、びっくりしたわ」
「先生から恋文を届けるように言われてきたのです。川向こうからでは遠いですし、矢文で一つ、やらせてもらいました」
「ひょっとして私に喧嘩をお売り?」
「愛憎表現と呼ぶべきものです」
「売られた喧嘩は買うのが好き」
「買ってはいけません」
「大切な扇が台無し。金曜倶楽部も大騒ぎ。私、気分が悪いと言って出てきたの」
「本当に貴女へ当てたければ、当てておりますよ、ははは」
「でしょうね、おほほ。こう、目玉にぶっすりとね」
そう言って弁天はくだんの飾り扇をカウンターに置いて、大きく裂けた真ん中を細く長い指でなぞっている。弁天の一本一本の爪には何か私には分からぬ文様が描かれており、彼女が指を動かすたびに赤黒く光って、まるで生き物のように形を変えてゆくのが不気味であった。
「扇のことは申し訳ありません。よろしければ私が」
「いいの。これは私が持っています」
弁天はひしと扇を押さえた。
「恋文、読みましたか」私は訊ねた。
「ええ。先生はまた駄々をおこねになってる?」
「こねにこねて、かちかちになっております」
「でしょうね」
弁天はくすくす笑った。「もうずいぶんと帰っていませんから」
「せめて週に一度ぐらい帰るようにしてはいかがです」
「あなたに口出しされたくはないわ」
「こちらも首を突っこむつもりはない。夫婦喧嘩は犬も喰わない」
「狸のくせに」
「狸であったらだめですか」
「だって私は人間だもの」
そう言って弁天はなんだかつまらなそうな顔をした。たしか昔にもこういうやり取りをしたと思った。
「あなたが喧嘩を売ってくれたら、私喜んで買うのに」
「とんでもない」
「そうしたら捕まえて忘年会の鍋にしてやるわ」
「またそんな無茶を」
私はひやひやしながら冷静さを保ち、にわかに恐るべき雲行きになってきたその場を切り抜けるべく、手を挙げて店主を呼んだ。しかし店主の姿はなく、人を馬鹿にしたように大きな信楽焼の狸がカウンターの中で直立不動の体でいる。どうやら店主は恐怖のあまり信楽焼の狸に化けることを選んだらしい。私はやむを得ずカウンターの中へ入り、偽電気ブランを注いだ。そして弁天のために赤割りをもう一つ作った。
彼女はカウンター越しに手を伸ばして、私の胸を突っついた。「ところで、なぜ今日はそんなに可愛らしい格好をしているの? 女の子が夜遅くにこんなところにいてはいけません」
「なかなか可愛くできてるでしょう」
「そうね」
「先生の日常に潤いを与えようと、若い乙女に化けまして」
「うるわしい師弟愛ですこと」
「それなのにひどく叱られました」
「ねえ。あんなワガママじじい、放っておけばよろしいのです」
「そんなわけにはいきません」
弁天は赤割りを舐めながら、じいっと私を見つめている。「魔王杉のことを気にしているのでしょう」
「貴女は気にしておらんのですね」
「何を気にするというの」
「これだからな。人間ってやつは、これだから敵わん。天狗よりもよっぽどタチが悪い」
「ごめんなさいまし。でもあなたは先生の気持ちがちっとも分かってないのね」
弁天はにっこり笑い、赤割りを干して立ち上がった。
「南座ですよ」
私は出ていこうとする弁天に言い募った。「先生はあそこにいますよ」
彼女が急に般若のような恐ろしい顔をして、カウンター越しに私の胸ぐらを掴んだ。「会うか会わないか、そんなのはあなたの知ったことではないでしょう」と彼女は言った。真っ白な顔がますます白くなって、眼のまわりだけが黒くなった。凍りつくように冷たい息が彼女の口から溢れ出た。
「出すぎたことを申しました」
そう言ったばかりの私の唇へ、弁天はぶちゅっと音高く接吻した。とても冷たくて、唇が凍りつくかと思われた。唇を引き剥がして「うぎゃ」と呻く私を尻目に、弁天は「朱硝子」を出ていった。
「大丈夫かね」
信楽焼の狸が声をかけてきた。「おまえ、よく命が続いとるなあ」
「これが生き甲斐でござる」
「本当に鍋にされて喰われちまうぞ」
起きあがって唇に触れると、桃色の氷のかけらがぱらぱらと剥がれ落ちた。掌に載せると、瞬く間に溶けた。舐めると赤玉ポートワインの味がした。
「とりあえず酒でも飲め。いや、呆れたもんだよ」店主が言った。
「奢ってくれるかい?」
「奢るとも」
○
弁天に初めて出逢った日のことを思い出した。
その頃、弁天はまだ弁天ではなかった。
私は長い階段をつたって屋上へ出た。烏丸通に面した洛天会ビルの屋上は広々としていて、そこへうららかな春の陽が射している。吸いこまれるような青空で、ぼやぼやと柔らかく薄い雲が浮かんでいる。小ぢんまりとした稲荷社や薄汚れた貯水タンクの脇を抜けていくと、屋上の真ん中にふいに大きな桜の古木が現れた。まるで菓子のように美しい花弁をいっぱいつけている。四条烏丸のビル街を風が渡ってくるたびに、桜吹雪が屋上から烏丸通の上へ吹き流れた。地上を歩く人間たちは桜が降ってくる空を見上げて、不思議に思ったことだろう。
その日、私は父に頼まれて、赤玉先生へ酒を届けに出かけたのである。父だけは赤玉先生とざっくばらんな付き合いをしていたので、先生がこっそりしつらえた屋上花見の席に酒を届けるという悪戯を思いついたのであろう。
桜から少し離れたところへ苔がいっぱい生えていて、大きな傘が立ててあった。先生と弁天が柔らかい苔の上へ仲良く座って、桜を眺めていた。先生は堂々たる和服姿で、立派な天狗の証たる棍棒みたいに大きな葉巻をしきりにふかしていた。私が赤玉ポートワインを抱えてえっちらおっちら近づいていくと、先生は葉巻の煙の向こうで険しい顔をさらに険しくした。私は叱られるかと思ってひやひやしたが、どうやらその鬼瓦のような顔は照れ隠しであったらしい。
「なにゆえ参った」
先生が重々しく言った。「それは何だ」
私は瓶を床に据え、膝をついた。
「罷り越しましたるは下鴨総一郎の三男、矢三郎でございます。如意ヶ嶽薬師坊様へ、献上の品でございます」
「御苦労」
先生がそれきりまた桜へ目をやって威張った姿勢を崩さないでいると、弁天が笑って立ち上がった。ぴっぴっと可愛らしい仕草で洋服の裾を伸ばした。その頃の弁天はそういった普通の姿をして、道行く人と何ら変わらなかった。わけの分からぬ皺くちゃの怪人に攫われてきたというのに、そのことをじつに当たり前に受け容れているようにそのときは見えた。
「御苦労様でございます」
弁天は低頭してから、私から受けとった赤玉ポートワインを胸に抱いた。
「その格好はなに?」彼女は私を見て笑った。
自分がいったいどんな格好をしていたのか、とんと思い出せない。どれだけまわりから説教されても言うことを聞かずにくるくると姿を変えていたからである。はて。
「あなたも一緒にワインを飲む?」
「けっこうです」
「あなたもやっぱり人間ではないの?」
「さてどうでしょうね。貴女は?」
「私はただの鈴木聡美です」
「よせよせ、からかうな。そいつは曲者だぞ」
先生が弁天へ声をかける。「たちの悪いやつだ」
「面白そうだわ」
「面白いものか。何でもできる器用者だが、己を矯めるということを知らんやつでな、どうせロクな者にはなるまい」
「ずいぶんお気に入りのようです」
「馬鹿を言う」
弁天は微笑み、私を連れて桜の下へ行った。「あなたも御覧」
桜の花弁が弁天と私のまわりをふわふわと流れていくのが夢のようであった。
「ねえ、すごいわねえ。こんなに立派な桜は見たことがありません。ほら、花に埋もれてしまって梢が見えないでしょう」
私は何とも口にせずに、ぽかんと桜を眺めている。
「おい。教えた通りにやってごらん」
先生がふいに、聞いたこともないような優しい声で言ったので驚いた。
「あら。私、まだできません」
「やってごらん」
弁天は首を逸らして眩しそうに桜を見上げ、しばらく緊張したように息を詰めていたが、やがて軽く地面を蹴った。私の目の前で弁天がふわふわと浮かび上がった。降りしきる花弁の中をすり抜けて、大きく伸びた枝へ手をかけ、そこからさらに弾みをつけて、上へ上へと軽やかに飛んでゆく。私はあっけにとられて見つめていた。いつの間にか赤玉先生が傍らにやって来て、満足そうに見上げていた。
「できました」
降りしきる桜の間から、弁天が顔をのぞかせて笑った。
先生は重々しく頷いた。
「天空を自在に飛行する、それが天狗というものだ」
◇ ◇ ◇