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七世紀末、迫りくる外敵に立ち向かう女王がいた…壮大なスケールで「日本誕生」を描いた歴史エンターテインメント #1 日輪の賦

7世紀終わり。国は強大化する唐と新羅の脅威にさらされていた。危機に立ち向かうべく、女王・讃良(さらら)は強力な中央集権国家づくりに邁進する。しかし権益に固執する王族・豪族たちは、それに反発。やがて恐ろしい謀略が動き始める……。

昨年、『星落ちて、なお』で直木賞を受賞し、一躍注目を集めた澤田瞳子さん。『日輪の賦』は、壮大なスケールで「日本誕生」を描いた歴史エンターテインメント。その冒頭部分を、ご紹介します。

*  *  *

第一章

色のあせた山吹が、葉叢(はむら)の陰で花弁を散らしている。爛漫(らんまん)の春の去った野山はまばゆいばかりの嫩葉(わかば)を輝かせ、山路は緑の紗で包んだような柔らかさに満ちていた。

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里から離れた官道は人気(ひとけ)もなく、時折遠くで鳥が啼くばかり。爽やかな風が一足ごとに頬を撫で、まさに旅にはうってつけの季節であった。

しかし若さに任せて旅路を急いだのが悪かったのか、それとも昨晩かじった乾肉が傷んでいたのか。阿古志連廣手(あこしのむらじひろて)の早朝からの腹痛は、竹内峠に向かう急峻(きゅうしゅん)な道を進むにつれ、ひどくなる一方であった。

梢にわずかに残った桜の紅色に眼を留める余裕など、ある道理がない。疼(うず)く下腹を片手で押さえ、にじんでくる脂汗をこっそり袖でふき取るのが精一杯であった。

紀伊国牟婁評(むろのこおり)から新益京(あらましのみやこ)(藤原京)までは、徒歩で約六日の距離。それを二十一歳の若さに任せ、四日でたどり着こうとの計画がそもそも無理だったのかもしれない。実際、供をしてきた奴(やっこ)の狗隈(いぬくま)など、出発のその日から、慌ただしい路程に口を尖らせ通しであった。

「急がなくたって、京は逃げやしませんぜ。それよりせっかくの旅なんですから、道中、楽しもうじゃありませんか。京で大舎人(おおとねり)として働き出されたら、そうそう旅もできねえでしょうし」

大舎人とは、宮城の雑務に従事する下級職員である。官吏を志す者はまず大舎人となり、数年がかりで能力を査定されてから、各々に相応しい官職を与えられる。いわば大舎人は役人の誰もが通る、出世の登竜門であった。

廣手は牟婁の評督(こおりのかみ)・阿古志連河瀬麻呂(かわせまろ)の次男である。阿古志連家はかつては牟婁一帯を支配した国造(くにのみやつこ)の末裔。京から隔たった鄙の地だけに、その権力たるや中央から派遣される国宰(くにのみこともち)(後の国司)の比ではない。

荷はさして多くないが、食い扶持だけはたっぷり携えている。初めて目にする他国の山々、町々の風俗。泊まりごとに異なる山海の味をゆっくり楽しんでもよかろうとの狗隈の言い様はもっともだが、若盛りの廣手からすれば、京への憧れはそれらの誘惑をはるかに上回っている。旅をむさぼろうとする奴婢根性が、ひどくいじましく感じられた。

「狗隈、そんなに気に入ったなら、この地で売り飛ばしてやってもいいぞ。なあに、心配しなくていい。おまえの代わりなんて、京に行けば大勢いるだろうしな」

「ひええ、そればかりはご勘弁。ちょっとねだりごとをしただけじゃねえですか。本気に取られちゃ困りますぜ」

この時代、人々の身分は一般公民たる良民と、家人・官奴婢・私奴婢といった賤民に大別されていた。中でも官が所有する官奴婢、私人の所有になる私奴婢は、金銭で売買される牛馬同然の存在。彼らを人間扱いする者など滅多におらず、廣手の軽口もごく当たり前のものであった。

「だったらつべこべ言うな。明日は丹比道(たじひみち)を通って、いよいよ京入りだ。今夜はさっさと寝ておけ」

昨夜そう叱り付けたばかりなだけに、腹痛程度で弱音は吐けない。痛む鳩尾(みぞおち)を押さえながら、廣手は歯を食いしばった。

丹比道は、河内(かわち)・摂津と京を結ぶ街道。難波津(なにわづ)の南を起点とし、河内平野を南北に縦断する難波大道と交差した後は、葛城(かつらぎ)の山脈を縦断する山路となる。

草深い山中にもかかわらず、幅三間(約五メートル)の道は白石敷き。左右に溝が穿(うが)たれ、美しく整備されている。しかしそれをはずれ、獣道にも似た隘路(あいろ)に踏み込んだのは、

「こっちの坂は急だが、峠に向かって真っすぐ登っているようでさあ。人が歩いた跡もある。多分、これは近道ですぜ」

との狗隈の言葉ゆえであった。

普段であれば、知らぬ土地で脇道を選ぶ浅慮などしない。予想外の腹痛が、廣手の判断を狂わせていた。

「とはいえ踏み入ったはいいけど、ひどい細道ですなあ。猿や鹿ならともかく、猪にでも遭ったら困りものですぜ」

なるほど人の足跡こそあるものの、藪が深く、おそろしく急な坂道である。二人の姿に驚いたのだろう。山鳥が灌木(かんぼく)の根方から飛び立ち、斜(なぞえ)の向こうに消えた。

そうこうする間にも差し込みはますます強まり、ぎりぎりと腹をえぐってくる。だがここで弱音を吐けば、狗隈に後々までなんと侮られるかしれぬ。とにかく早く峠を越え、京に入るのが一番であった。

宮城には外薬官(とのくすりのつかさ)という、官人専門の診療所があると聞く。所定の出頭手続きを終えたら、真っ先にそこを訪ねよう。

(こんなとき兄者(あにじゃ)がいてくれれば――)

肩も胸も自分よりずっと厚く、武芸に優れていた異母兄の姿が脳裏をよぎり、その時ばかりはわずかに腹の痛みが薄らいだ。

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「そういや八束(やつか)さまが牟婁を発たれたのは、ありゃあ四年前の秋でしたっけ。こんな夏近い季節より秋のほうが、旅は楽でしたでしょうな」

廣手の胸の呟きが届いたわけでもあるまいが、先に立って藪漕ぎをしていた狗隈が、振り返りもせず声を張り上げた。

「あの時は誰がお供したんでしたっけ」

「いや、京に上られる国宰さまご一行に加えていただいたんだ。多分、誰も連れて行かなかったと思うぞ」

「ああ、言われてみればそうでした。けど考えてみれば早いもんだ。八束さまが京で亡くなられて、もう二年なんですねえ」

感慨深いのは、廣手も同様であった。

異母兄の八束はいまの廣手同様、大舎人となるべく上京。だが翌年、宮城内の作事場で不慮の事故に遭い、帰らぬ人となったのである。

兄の死によって、評督の職は廣手が継ぐことが確実となった。それを擲(なげう)ってまで彼が大舎人を志したのは、八束が暮らした京を、一目、見たいとの思いからであった。

何しろ大王(おおきみ)がおわす京は、この倭国の中心。仕丁(つかえのよぼろ)として上京した評の者によれば、筆舌に尽くしがたいほどきらびやかな街という。

かつて、官人として宮城に仕える機会は、畿内豪族の血縁にしか開かれていなかった。それが遠国の評督の子弟にまで拡大されたのは、今から二十年前。ただいま京におわす讃良大王(さららのおおきみ)(持統(じとう)天皇)のご夫君、故・大海人大王(おおあまのおおきみ)(天武(てんむ)天皇)の裁量によるものであった。

こんな好機をみすみす逃すすべはあるまい。幸いにも父の河瀬麻呂は、息子の願いにあっさり了承を与えた。

何しろ廣手は、大海人大王の治世四年の生まれ。蘇我(そが)氏を滅亡させた乙巳(いつし)の変(大化の改新)はもちろん、隣国百済(くだら)の危難を救わんがため唐(とう)・新羅(しらぎ)の大軍に立ち向かった白村江(はくすきのえ)の敗戦、更には天下を二分した壬申(じんしん)の歳の戦いすら知らない。

壬申の大乱は、葛城大王(かつらぎのおおきみ)(天智(てんじ)天皇)亡き後の覇権を巡り、葛城の王太弟であった大海人が、兄の遺児・大友(おおとも)と激しい戦いを繰り広げた内乱であった。その戦に勝利した後、大海人が断行した国政改革のめまぐるしさ、神とも崇(あが)められた行動力……そして亡夫の遺志を継いだ讃良大王の施策を学び、将来のために見聞を広めるには、京に出るのが一番と、河瀬麻呂は考えた様子であった。

「廣手、この数十年で、世の中は恐ろしいほどに変貌しておる。何しろ大海人さまは壬申の大乱で天下を掌握なさると、名だたる豪族が戦の巻き添えで没落したのをよいことに、部曲(かきべ)(地方豪族の私有民)を廃止するやら、封戸(ふこ)の管理権を取り上げるやら、各氏族の力を次々と削ぎ落とされた。おかげで今や地方豪族たる我らの力など、昔日に比すればまこと微々たるものじゃ」

廣手が牟婁を出る前夜、河瀬麻呂は息子に一振りの大刀(たち)を与え、世の動向をくどくどと説いた。

把頭(つかがしら)に虎の頭を象嵌(ぞうかん)した銀装(しろがねつくり)の大刀は、阿古志連家に代々伝わる重宝。そして四年前、八束が腰に佩(お)びて京に発った品でもあった。

あの日、秋の日差しを全身に受けた兄の腰で、この大刀は波打つ芒(すすき)の原にも劣らぬ清冽(せいれつ)な光を放っていた。その彼が京の東に埋葬され、大刀とわずかな身の回りの品だけがひっそりと牟婁に戻ろうとは、あのとき誰が想像しただろう。

大海人の大改革は、地方行政のみに止(とど)まらない。廟堂(びょうどう)では前代の左右大臣制を廃止し、后(おおきさき)の讃良を右腕に、彼女の所生(しょせい)になる草壁王子(くさかべのみこ)、讃良の姉・大田王女(おおたのひめひこ)が産んだ大津王子(おおつのみこ)などの息子を相次いで相談役に任命。大王直属の審議機関たる納言(ものもうすつかさ)が、法官(のりのつかさ)・理官(おさむるつかさ)・大蔵(おおくら)・兵政官(つわもののつかさ)・刑官(うたえのつかさ)・民官(かきのつかさ)の六官を動かす、かつてない集権執務体制を完成させた。

だがそれらは決して、大海人一人の意図ではない。これより前、百済・高句麗(こうくり)・新羅の半島三国の対立が激化し、国際緊張が高まった折、諸外国に比肩しうる新たな国家――大唐のそれに倣った、大王を中心とする強力な支配体制を創設せんと立ちあがったのは、彼の兄である葛城であった。

蘇我宗家を葬った乙巳の変は、葛城の改革の第一歩。直後、彼は「凡(およ)そ天下に私地私民は存在せず、すべての土地・人民は大王の統(す)べるところ」と宣言し、いわゆる公地公民制を施行。諸国に国宰を派遣することで地方豪族の勢力を弱め、京の大王に全権力を集めんと試みた。いわば大海人は兄の遺志を継いで、中央集権体制を推進したわけである。

諸豪族を土地と人民から切り離し、大王、ひいては国家の忠実な官僚とする。同時に中央の執務体制を官吏主導に改める、大唐の官制に倣った改革。この約五十年、壬申の乱という内乱をはさみながらも、葛城・大海人兄弟は同じ志を抱き、国政を進めて来たのであった。

官人が大舎人を経験した上で採用される制度も、この一環。しかも大海人はそればかりか、官人の勤務評定が昇進に直結する徳行才用主義を実施。門地(もんち)を問わぬ、能力に応じた登用を行い、役人たちの綱紀粛正を図った。

無論、古くからの豪族は改革に不服を抱いたが、天下を二分した大乱の勝者、輝ける日輪の如き大海人に逆らえる者などいるわけがない。このため彼らはむしろ進んで大海人に服従し、彼の功績を讃えることに終始した。

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日輪の賦 澤田瞳子

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