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もう意識は戻らないかも…驚愕の結末が話題のサスペンス長編 #2 それを愛とは呼ばず

妻を失ったうえに会社を追われ、故郷を離れた五十四歳の亮介。十年所属した芸能事務所をクビになった、二十九歳の紗希。行き場を失った二人が東京の老舗キャバレーで出会ったのは運命だったのか。再会した北海道で、孤独に引き寄せられるように事件が起こる……。驚愕の結末が話題を呼んだ、直木賞作家・桜木紫乃さんの傑作サスペンス長編『それを愛とは呼ばず』。二人の運命が動き出す、物語のはじまりをご紹介します。

*  *  *

急に売り上げを伸ばす店は要注意だった。固定客を摑んで離さない腕はあるが、客の財布が寒くなった時点で次の獲物を待たなくてはいけない。店の品格ということを考えると、マネージャーの野心は諸刃だ。

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気になる店が一店あった。副社長の亮介がふらりと清掃中に現れて様子を訊ねるほうが、相手も本音を言いやすい。現場上がりという立場は彼らの静かな野心の焚きつけであり、よりどころでもある。亮介の立ち位置は、現場との意思疎通においてつよい武器だった。

午後四時半、亮介が「アッシュ」の店内に入ってゆくと、マネージャーのケンジをはじめボックス席にいた従業員たちが一斉に立ち上がった。若い男たちが、同じ角度で腰を折る。「アッシュ」は二十歳から二十五歳までの若手を揃えた店だった。若手ばかりだが、挨拶は崩れていないようだ。ケンジがポケットから取り出したクリップで金色の前髪を留める。亮介の前へやってくると「おはようございます」と頭を下げ、姿勢よく「気をつけ」をした。

「ミーティング中、悪かったね。近くまで来たので寄ってみたんだよ」

「ありがとうございます。ミーティングは終わりました。副社長にお越しいただけて、光栄です。現場の士気が上がります」

ホストたちの半数が店の中央に向かって頭を下げたあと、更衣室に入ってゆく。残った半数がソファーやテーブルの天板の裏側、壁や床の点検をしている。動きに無駄はないし、汚れは思わぬところにあるものだという教えも忘れていない。亮介がやってきたので慌てているという気配もなかった。

急激な売り上げの上昇はケンジの手腕によるものだけではないだろう。歴代のマネージャーのなかで、彼が飛び抜けて賢いわけでも商才に長けているわけでもない。これは亮介の勘だ。だからこそ様子を見にやってくる必要があった。売り上げの急上昇にも下降にも、かならず理由がある。上昇した理由を慎重に考えなければ、下降を始めたときに現場が混乱する。

亮介はきびきびと動く青年たちを見ながら、カウンターの端に腰を下ろした。煙草は吸わないし、社員の前では酒もやらない。章子と同じだ。現場の管理はできるだけ専務の慎吾に任せるようにしていた。当然「アッシュ」も慎吾の指示で売り上げを伸ばしている。

亮介の前にお茶が出てきた。香りのいい玄米茶だ。礼を言って手元に引き寄せた。

「売り上げ、いい感じで伸びていますね」

「ありがとうございます」

ケンジは表情を変えずに応えた。亮介はお茶をふたくち飲んだあと、ボトルデータを見せてくれるよう頼んだ。仕入れと売り上げの収支は上がってくるが、店まで来ないと客の顔は見えない。

ケンジはカウンターの裏側からA4サイズのノートパソコンを持ち上げ、ボトルデータの画面を開いて亮介の前に置いた。気軽に入店できる明朗会計の店が入店者数を大きく変えずに売り上げを伸ばすには、ひと晩で十万単位の金を落としてゆく固定客がいると見ていい。

パソコンの画面に「ヤマザキ」という名前が散っていた。一週間に多いときで三度、少なくとも一度は来店している。

「ねぇ、このヤマザキさんって、どんな人なの」

ケンジの頬が持ち上がり、嬉しそうな気配が伝わってくる。亮介も笑みで応えた。

「専務の、古いお友達と伺っています」

売り上げの上がった月と、ヤマザキが「アッシュ」に通い始めた時期は重なっていた。帳簿や報告に改ざんはなさそうだ。問題は慎吾の古い友人ということだった。

「女性なんだよね」

「いいえ、男性のお客様です。いつもおひとりかおふたり、女性のお客様をご同伴されています。ヤマザキ様のお連れ様でその後もご来店していただいている方は、今のところ半数です」

「そうなの、なるほどねぇ」

亮介はのんびり語尾を伸ばした。「アッシュ」を任せて一年、ケンジが身の丈以上の野心を持っているという印象はなかった。亮介は朝に章子が言っていた言葉を思いだした。

『地元に残る若い子を育てていきたい』

着替えを終えた子たちと交代するため、店内に一礼した青年たちが更衣室へ入ってゆく。章子がこの青年たちの髪を黒く戻して短く切り、郊外型の大型複合書店の店内に立たせているところを想像する。市内に住む親や親戚たちも来店するだろう。彼らに伝えた礼儀や所作を、うんと明るい店内で活かせるならば、と亮介も思う。夜は眠り、朝から働く。夜の街で生き残っていけない若い子たちの受け皿として、章子のプランがとてもいいものに思えてきた。彼女が新たなビジネスに「母親」の視点を持っていることが、なぜか嬉しかった。

「ヤマザキさんは、最初からひとりで入店されたのかな」

「いいえ、専務が店舗巡回の際にご一緒だったのが初回と記憶しております。その際は、片倉先生もご一緒でした」

「ふたりにも、お礼言っておかなきゃね。ありがとう」

片倉肇は章子の遠縁にあたり「いざわコーポレーション」の顧問弁護士を務めている。高校時代に素行の荒れた慎吾が無事に大学を卒業するまで、実の父親のように面倒をみていたと聞いている。章子との関係もあったと聞いているが、亮介と出会う前のことだ。たとえ関係があったにせよ、自分はそのようなことを盾に章子を責めることはない。

同じ家で暮らし、眠る。伊澤章子が無防備な時間を許している男は自分ひとりだという自負、それが亮介の寄る辺でもある。

腕の時計を見た。そろそろマンションに戻って着替えをしなくては「ゴルツィネ」での待ち合わせ時刻に間に合わない。ケンジに礼を言い、青年たちに見送られながら「アッシュ」を出た。

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街を覆う重い雲の蓋は墨を混ぜたように色を濃くしていた。歩いて戻ったのでは時間に余裕がなくなりそうだ。副社長らしからぬラフさが店舗巡回時のスタイルだった。タートルのセーターにキルティングのコートとコットンパンツは亮介の冬の定番だが、「ゴルツィネ」はドレスコードがある。今夜は章子の好きなダークブルーのスーツを着て出かけるつもりだった。亮介は近づいてくる空車に向かって手を挙げた。

マンションの駐車場に章子の車はなかった。洗濯機の横に置いた脱衣かごにはフィットネスジム用のウェアが入っている。一度帰宅して着替えたようだ。亮介は急いで着替えを済ませた。エレベーターの中で章子の携帯電話にメールを送る。

『これから「ゴルツィネ」に向かいます。六時にはお店にいます』

章子からの返信はなかった。約束の店は小路を入った場所にある。古い蔵の内部を改装した店先にはなんの装飾もない。予約時間が近づくと、店の前にタキシード姿のマネージャーが立つ。彼が看板だ。章子はまだ来ていないという。店の前で章子の携帯に連絡を入れた。ただいま運転中です、という機械アナウンスが流れた。

六時半を回っても、章子は「ゴルツィネ」に現れなかった。時計の針を眺めながら亮介は、「アッシュ」に気を取られて章子をエスコートしなかった迂闊さを思った。今まで彼女が約束の時間に遅れることはなかった。なにか起きた。自分の間抜けぶりを悔い始めたところで、章子からの着信が表示された。店の外に飛び出し電話を取る。

「章子さん、どうしました」

一拍間があいて、耳に入ってきたのは慎吾の声だった。

「副社長、今どちらですか」

「古町のほうにいます。専務、なぜこの電話を」

「母が事故に遭いました。今、搬送先の病院からかけています」

すぐに病院に向かうと応える。病院名を告げると、慎吾は唐突に通話を切った。「ゴルツィネ」のマネージャーが表通りからタクシーを誘導してきた。亮介は促されるまま、後部座席に乗り込む。満足な礼も言えぬまま、乗務員に行き先を告げた。


手術患者の関係者は「待合室」で待つようにとのことだった。

弁護士の片倉と慎吾がときどき廊下に出てなにかを話している。ふたりとも亮介にはほとんど声をかけない。九時くらいまでは事故を知っているのはこの三人だけだったが、報道が流れてからは慎吾の携帯も自分の携帯も鳴りっぱなしだ。

警察官からの説明では、章子の脇見運転が原因ではないかという。車はカーブでもないのに、ひどくふくらんで車線からはみ出し、対向車線を走ってくるトラックのバンパーにはじかれて路外に横転した。トラックの運転手と、後続車両の証言は同じだった。亮介は章子が手術室から戻るのをじっと待った。

手術が終わったのは、午前零時を過ぎて間もなくのことだった。命はとりとめた、という執刀医師の説明に、まず片倉が大きく息を吐いた。医師が「命は」と前置きしたことに暗い予感が漂っている。内臓の傷が今すぐ生命に影響することはないという。ただ、と医師は続けた。亮介は身動きせず次の言葉を待っていた。

「頭部をつよく打っています。脳の損傷がいちばん激しい。今後どのような症状が現れるのか、予測のつかないところです」

「今後と言いますと?」

「まずいちばん先に、意識が戻るか戻らないか、ということです」

「戻らない場合があるということですか」

「そうです」

手術は成功、しかし意識が戻るか戻らないかはまだわからない。説明を受けたあと、亮介と慎吾のふたりが集中治療室ICUへの入室を許された。

顔はガーゼと酸素マスクに覆われていた。これが章子と言われればそのようにも見える。周囲から低く響く人工呼吸器の音や電子音。なにから先に考えればいいのか整理もできない亮介の脳裏に、針の先ほどの納得が降りてくる。あぁ――亮介は大きく息を吐いた。

現場は海岸線の直線道路。章子は「ゴルツィネ」で話す予定だった三千坪の土地を見に行ったのだ。

「なにが『あぁ』なんですか」

副社長、と続けられて改めて慎吾の顔を見上げた。冷ややかな視線がこちらに向けられている。十四歳しか年の違わない義理の息子の態度には、いつもなにかしら亮介を小馬鹿にした気配があった。

慎吾は袂を分かつかたちで出店したレストランを潰したあと、もう一度実家の仕事を手伝いたいと言い出した。章子は笑って息子の申し出を受け「いい勉強だったじゃない」と言ったが、慎吾の意地と決意はそれ以後、亮介を徹底的に無視することで屈辱とのバランスを取っているようだった。

慎吾は亮介に向かってもう一度、なにが「あぁ」なのかと問うてきた。

「いや、なんでも」

慎吾はふんと鼻を鳴らして、再び母親のベッドへ視線を移した。退室を促され、廊下に出た。片倉がこちらに向かって歩いてくる。視線が亮介と慎吾を往復し、慎吾のほうで止まる。

「どうだった、アキちゃんは」

「まだ寝てる」

「目を覚ましてくれればいいんだけどな」

慎吾はそれには応えず、廊下を歩き始めた。亮介は看護師から面会時間について書かれたメモを受け取り、慎吾と片倉に追いつかぬよう気をつけながら歩いた。エレベーターの前で三人が立ち止まる。片倉が振り向いた。

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