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#2 まいまいつぶろ 村木嵐最新刊【冒頭特別公開】5/24発売

発売前より全国の書店員さんから感動の声が続々と届き、話題沸騰中の村木嵐さんの最新刊は異色の将軍、第九代将軍・徳川家重を描いた『まいまいつぶろ』
将軍のあだ名であった「まいまいつぶろ」とは「カタツムリ」のこと。
その悲しき理由に迫る落涙必至の書き下ろし、いよいよ発売です!
発売を記念して、冒頭をnoteで特別公開いたします。

*  *  *

忠相をここまで引き立ててくれた吉宗はまだ四十一という若さで、上米、足高、参勤の緩和と、矢継ぎ早に旧来の政を改めてきた。振り出しは少禄の旗本に生まれた忠相にとって、吉宗はかけがえのない主君なのだ。まだこれから手足となって働きたい矢先に、顔も見たことのない遠縁の少年に連座して失脚するなど、冗談ではない。

正直、一切関わりたくない。忠相のような町奉行ごときに、江戸城の奥のことなど想像のつくはずがない。滝乃井にどんな顔をされようと、御免なものは御免だ。

「せっかくながら、滝乃井殿のお言葉に従うわけにはまいりませぬ。それがしはその者に会えば、きつく登城を止めるかもしれませぬ」

いや、きっとそうする。十六やそこらで小賢しい。浅はかな立身など夢想して、家名断絶が関の山だ。

「いいえ、それはなりませぬ。二つ三つの不足には、妾は目を瞑ります」

だから滝乃井が堪えて済むという話ではない。大奥の女中が刺し違えるのは勝手だが、忠相にはこの先やりたいことが山とある。

だがふと閃いた。逆にこれほど滝乃井が熱望しているなら、止められるのは忠相だけかもしれない。ならば、会ってみるのも悪くはない。

「やれやれ、承知いたしました。大岡兵庫とやら、それがしも何やら会うてみとうなってまいりましたぞ」

「さすがは越前殿。引き受けてくださるか」

忠相は弱々しく笑みを浮かべた。引き受けるもなにも、兵庫が小姓に抜擢されてしまえば、不手際の際は忠相まで責めを負わされかねぬのだ。

滝乃井には悪いが、兵庫のことは諦めてもらう。

ただ確かに忠相は、どんな少年か見てみたいとも思った。

「ああ、安堵いたしましたぞ、越前殿。だいたいが皆、長福丸様を侮りおって。越前殿はご存知あるまいが、口がおききになれぬゆえ廃嫡だ、なぞと申す声もあるのですよ。愚かな。上様の御世継ぎ様は長福丸様に決まっておろうが」

忠相は滝乃井が少し不憫になってきた。本気で長福丸が将軍になれると考えているのは、この滝乃井だけではないのだろうか。

だが生憎と忠相は、滝乃井よりずっと人が悪い。奉行など、善人面の奥の邪曲が見えてこそ務まる御役だ。

己が火の粉を被りたくなければ離れるしかない。それができぬなら、燃え上がらぬうちにさっさと土をかけて埋めてしまう。

とにかく厄介には巻き込まれぬことだ。

城を出るとき、改めてそう思いながら忠相は御城を見上げた。

その日の夕、忠相の役宅に思いもかけぬ賓客が現れた。松平能登守乗賢という三十過ぎの若者だが、家柄にも才智にも恵まれて、すでに若年寄という要職にあった。それがまるで狐にでもつままれたような、困惑しきった顔をして座敷へ入って来た。

いずれは老中にもなろうという能登守は、しばらく陰鬱そうに瞼を閉じていた。出した茶菓には手を伸ばそうともせず、接待は無用と取り付く島もなく言い放った。

だが眼光鋭い目を開いたとき、どことなく怯えがあるようにも見えた。

「御城に突如、長福丸様のお言葉を解する者が現れたのだ。越前の遠縁にあたるというが、聞いているか」

忠相がうなずくと、能登守はまずはためらいつつ湯呑みに手を伸ばした。

「上様のお覚え目出度い越前ゆえ、思い切って出向いて参った。長福丸様の御身の不如意はむろん上様が最も案じておいでだが、我ら幕閣とて心痛は同じ」

中奥の座敷でむせび泣いた滝乃井の声がよみがえってきた。

長福丸は吉宗がまだ将軍になる前、赤坂の紀州藩邸で生まれた。あわや死産というところをどうにか命は取り留めたが、成長しても口がきけるようにならなかった。そのうえ尿を始終漏らすので、座った跡がまいまいのように濡れて臭うとまでいわれていた。

なにより病のせいか生来の性質ゆえか、長福丸はひどい癇癪持ちで、怒り出すと手が付けられなかった。四半刻でも大声で喚き続けるのだが、誰も言葉が分からぬので、当人が疲れて黙るまで放っておくしかない。するといつの間にか、素に戻る。

ただ忠相も初めて会ったときはつい見返したのだが、長福丸はなんとも美しい形の良い目をしている。麻痺で片頰が引き攣れているのに、そんなこともつい忘れてしまうほどである。

だがだからこそ滝乃井のように肩入れする者も現れ、身分のゆえにこれまで厳しく叱る者もなかった。弓も槍術の類も一切しておらず、手にも麻痺があるので仮名ですら書くことができない。

能登守は長いため息を吐いた。

「誰ぞ長福丸様のお言葉をお聞き取りできるとなれば、我らにとってもこれほど嬉しいことはない。乗邑様など、真偽のほどはさておき、ともかくは小姓に召し出してしまえと仰せであった」

乗邑とは先年大坂城代から老中に昇った松平乗邑である。歳はまだ四十にもならないが、その分、忠相も目を瞠るばかりの切れ者である。

大坂では札差たちを相手に辣腕をふるい、年々減るばかりだった幕府の御蔵米をわずかだが増やさせた。それで老中にまで昇り詰めたのだが、今では吉宗自身が誰よりもその手腕に一目置いているといわれていた。

「乗邑様までそのようにお考えならば、もはや小姓お取り立ては決まったも同然でございましょうか」

忠相こそ、ため息が吐きたくなった。考えてみれば、大奥の女中が云々するより先に、幕閣で取り沙汰されていて当然だ。

「だが長福丸様は筆談さえおできにならぬであろう。その者が長福丸様のお言葉じゃと申して勝手な振る舞いをすれば如何いたす」

「ですが長福丸様も、いざとなれば己の言葉ではないと遮ることはなさるのではございませぬか」

もしそれさえもできないなら、将軍になれるはずはない。

忠相も、もう兵庫が御城へ登ることは覚悟するしかなさそうだ。他の老中ならまだしも、乗邑は幕閣の実力者だった。

「それがしは滝乃井様から伺いましたが、たいそうなお喜びでございました。そういえば滝乃井様は、兵庫のことは能登守様にも確かめたと仰せでございましたが」

「いやいや、もとはあちら様よ。御目見得の後から、どうも長福丸様のご様子が妙じゃとお騒ぎでな」

いつも虚空を睨んで鬱陶しそうに過ごしていた長福丸が、何やら浮き浮きとして、座敷に人が来るたびにぱっと振り返って見るのだという。

思い余った滝乃井が、御目見得で愉快なことでもございましたかと尋ねると、長福丸は力強くうなずいた。だがそれ以上はやはり、何があったかと尋ねる術がない。

それで御目見得の場に居合わせた能登守を呼び出して、兵庫のことが明らかになった。

「先達ての長福丸様御目見得の折、たまたま私が奏者番を務めていたのだが」

能登守はわずかに忠相のほうへ身を乗り出してきた。

「長福丸様はあの通り、広間に長く座っておられるのは大のつくお厭であろう。初めから焦れておられるのは分かっていたが」

長福丸の頻尿は生まれつきだから、癖といっては気の毒だが、周りにはどうしても堪え性のない愚者と映った。不動たるべき上段に座す者が厠に立ちたがって身体をもぞもぞ揺するとは、傍で見ているこちらのほうが身悶えしたくなってくる。

だがひるがえって長福丸の身になってみれば、きっと広間に座らされているほどの苦痛もないのだろう。病のせいで小便を垂れてしまうのに、蔑まれつつ皆にそのさまを凝視されているのである。

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