見出し画像

豹変したお母さん…カースト制の凄まじい現実 #3 ガンジス河でバタフライ

エッセイストにして旅人、たかのてるこさんの出世作として有名な『ガンジス河でバタフライ』。ハチャメチャな行動力と、みずみずしい感性が反響を呼び、長澤まさみさん主演、宮藤官九郎さん脚本でテレビドラマにもなりました。コロナの影響で、海外旅行に行けない今だからこそ、改めて読んでみたい本書。てるこさんと一緒に、インドの旅気分を味わってみませんか?

*  *  *

これがインドの現実だ

朝、目を覚ますと、ベッドにお母さんの姿がなかった。ラヴィーはまだ隣でスヤスヤと眠っている。お母さんは朝食の支度でもしているんだろうと思い、私は部屋を抜け出して台所の方へと向かった。

画像2

私が思ったとおり、お母さんは台所に立っていた。彼女のすぐそばには、しゃがんで食器を洗っているお手伝いさんらしき女の人もいる。私が声をかけようとした、そのときだった。お母さんがいきなりものすごい剣幕で、その女の人を激しく怒り始めたのだ

お母さんは食器の近くに置いてあった銀色のスプーンを拾い上げ、彼女を責め立てている。その、あまりに厳しい顔つきを見て、私は声をかけることができなくなり、その場に立ちすくんでしまった。

次の瞬間、お母さんは持っていたスプーンを、その女の人に向かって思いきり投げつけたのだ。女の人を直撃したスプーンが、音を立てて床に転がり落ちる。頭をこん棒で殴られたようなショックで、一瞬、頭の中が真っ白になった。温和で優しいお母さんがこんなにキレるなんて、いったい何が起こったんだ!?

女の人はおずおずとスプーンを拾い上げると、黙ってそれを洗いだした。彼女の褪せた色のサリーからは、棒切れのようにか細い腕がのぞいていた。痩せているせいか、その女の人は若いのか年寄りなのか、よく分からなかった。

どうやらお母さんは、彼女が洗ったスプーンに汚れが残っていたことに腹を立てていたようなのだ。しかし、スプーンが汚れていたからといって、普通、そのスプーンをお手伝いさんに投げつけるようなことまでするだろうか。私はお母さんの違う人格を見てしまったような気がして、ただただ恐ろしかった

お母さんは私に気がつくと、にこやかに微笑んで声をかけてきた。

「おはよう、てるこ。昨夜はよく眠れて?」

「えっ、ええ、ハイ」

お母さんがあまりにも平然としていたので、私はかえって動揺してしまった。彼女の態度には、後ろめたさのかけらもなかったからだ。お母さんはすっかりいつものお母さんに戻っていて、何事もなかったように朝食の準備を始めている。

この世に神様はいないのか?

頭が混乱してきて、私はしばらく放心状態に陥った。もしかして、夢でも見ていたんだろうかとさえ思う。でも、そんなはずはない、私はこの目で確かに、お母さんの鬼のように恐ろしい形相を見たのだ。あのお母さんと、今優しく微笑んでくれたお母さんが、同じ人だとはとても信じられなかった。

画像1

カーストによる身分差別だ。そうとしか考えられない。きっとあの女の人は、カーストにも入っていないとされている不可触民だったのだ。

前に私は「汚れ物を洗う」という仕事が不可触民の人たちに任されていると聞いたことがあった。この家が、特に上流階級というわけではない。彼らは私と同じ二等車に乗っていたくらいだから、ごく普通の中流家庭だろうと思う。お母さんの振る舞いは、単に「身分の低い者」に対する習慣なのに違いなかった。

私は、ごく普通の家庭の中にまで根深く浸透しているカースト制の凄まじい現実を、まざまざと見せつけられたような気がした。たぶん私は、街で毎日のように見かける乞食に関しては、ある程度、見慣れて麻痺してしまっていたんだろう。でも、こんなふうに平和な光景の中では、カーストによる差別のギャップがあまりにも激しすぎた。

私はほとほと、自分の無力さが嫌になってしまった。インドには、目をつぶってしまいたくなるような現実があまりにも多すぎる。でもそれを知ったところで、私にはどうすることもできないのだ。現実を知れば知るほど、虚しさが募るばかりだ。

街で物乞いされれば、私は今までと同じように彼らから逃げようとするだろう。どれだけ胸を痛めたところで、私なんてただの偽善者ではないか。全財産をはたいたところで、彼らを救うことなど私にはできないのだ。

この世には、やっぱり神様なんていないんだろうか。いや待てよ、この国には神様がたくさんいるではないか! この家の中も、街の中も、インド中に神様があふれ返っているというのに、なんでこんなことになるんだ? 神様はいったい何を見てるんだ? 神様っていったいなんなんだ!? やるせない思いが込み上げてきて、私の胸ははちきれそうになってしまった。

◇  ◇  ◇

連載一覧はこちら↓

ガンジス河でバタフライ たかのてるこ

画像3

紙書籍はこちら

電子書籍はこちら

みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!