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お願いだから目を覚ましてください…驚愕の結末が話題のサスペンス長編 #3 それを愛とは呼ばず

妻を失ったうえに会社を追われ、故郷を離れた五十四歳の亮介。十年所属した芸能事務所をクビになった、二十九歳の紗希。行き場を失った二人が東京の老舗キャバレーで出会ったのは運命だったのか。再会した北海道で、孤独に引き寄せられるように事件が起こる……。驚愕の結末が話題を呼んだ、直木賞作家・桜木紫乃さんの傑作サスペンス長編『それを愛とは呼ばず』。二人の運命が動き出す、物語のはじまりをご紹介します。

*  *  *

「今、専務ともちょっと話していたんですが、できるだけ早くに緊急役員会を開きましょう。当面のことや、今後のこと、いろいろ話し合っておかないと。呼び出しはわたしがかけます」

「役員会の前に、この三人で話し合う必要があると思いますよ」

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慎吾はこちらに背を向けたままだ。片倉は「それもそうだが」と語尾を濁す。肩書きは副社長でも、このふたりにとって亮介の仕事は社長秘書のようなものだろう。長らくそれをよしとしてやってきた。

女社長とその息子が経営の実権を握っており、亮介をはじめ片倉、各セクションの代表はみなひと並び。縁戚と縁故採用で成り立っている会社にとって、親族間の揉めごとは経営に直結する。グループ内の仲間割れやつまはじきなどは、こじらせれば他人のそれより始末が悪い。

章子が亮介を副社長に据えたのは、他人の視点で会社全体を眺める必要性があると考えたからだった。女社長が目覚めなければ、会社の実権は息子の慎吾に移ってゆく。

慎吾はゆっくりと振り向き、値踏みをするような目で亮介を見下ろした。

「明日にでも、ゆっくり話しましょうや」

片倉が横から口を挟む。

「慎吾君、まずはみんなに事実を報告して、それぞれの意見を聞いた上で慎重に進めよう」

「片倉さんは、代理が俺じゃあ不足だと言うの」

「いや、そうじゃない。もしもの話だけど、アキちゃんの意識が回復しなかった場合のことも考えておかないと」

「それは、どういう意味ですか」

亮介と慎吾にほぼ同時に詰め寄られた片倉は、一瞬ひるんだ表情を見せたがすぐに居住まいを正した。

「これから会社を、どうやって運営していくかってことだよ。アキちゃんの真似なんぞ、誰にもできることじゃない。慎吾君、きみにだってそのくらいわかるだろう」

到着したエレベーターの箱に乗り込んだあと、三人とも黙り込んだ。ロビーでは、それぞれが別のタクシーを呼んだ。三人の住まいは街なかの半径二キロのうちにあるが、同じタクシーに乗ろうと言い出す人間は誰もいなかった。

亮介はマンションにたどり着き、明かりを点けないままリビングのソファーにくずおれた。防音設備の整った部屋には、どんな音もなかった。自分ひとりしかいない。ガーゼだらけの姿でベッドに横たわっていたのが本当に章子だったのかどうかもあやふやになってゆく。ソファーに仰向けになる。フットライトが部屋全体を濁った青色に染めていた。

翌日の役員会は、当面は各セクションとも気を抜かず今までどおり業務を全うするという意思確認で終わった。

半月のあいだ、亮介は決裁事項確認の合間をみて、毎日病院へ通った。自発呼吸はあるが、意識が戻る気配はない。医師は脳の損傷が原因と言うが、今後意識回復の見込みがあるのかないのかを口にすることはなかった。

朝食をしっかり摂る章子の習慣どおり、亮介も毎朝同じメニューを作り続け、ひとりで食べた。食欲のあるなしを考えることは拒否し、不在を確認することを避けるような毎日を送っている。極力、感情を動かさぬよう努めた。

大きな決断や現場のガス抜き、社長主催の会食がなくても、今のところ現場に大きな混乱は見られない。慎吾を差し置いて亮介が現場に口を出すこともためらわれた。

その日午後五時を回ったところで、慎吾から会社で待っているという連絡が入った。

「ちょっと副社長とお話ししたいことがありまして。仕事の途中ですみませんが、こっちに来てもらえませんか」

「わかりました。これから向かいます」

事故後に慎吾から連絡がきたのは初めてだった。亮介は限られた面会時間のほとんどを病室で過ごしているが、病院で慎吾に会うことはなかった。片倉も、三人が三人ともそれぞれお互いに示し合わせたようなすれ違いが続いている。揉めごとが起きないのはいいが、すべての問題を先送りにしているような居心地の悪さがあった。

本社ビルの一階は歯科医院とコンビニ、二階が事務所、三階から上はマンションになっている。土地も建物も「いざわコーポレーション」の持ち物だ。事務フロアと社長室、会議室の三つに仕切り、出入りする人数のわりにゆったりとしていた。このビルの買い取りも、章子が決めた。

「ここ、更地のときから欲しかったのよ」と言って喜んでいた章子を思いだす。慎吾が会社を飛び出したころのことだ。

「息子のわがままをお許しください」と、出てゆくときも戻ってきた際も、章子は亮介に頭を下げた。下げる頭は下げる。戦うときは一歩も退かない。それが会社の内外を問わない女社長の人気にも繋がっていた。

亮介がドアを開くと、応接室の奥にある一人掛けの椅子に深々と腰掛けたまま、慎吾が片手をひらひらさせた。呼び名こそ「副社長」とおだて半分だが、彼が亮介に対して持っている反感はこんな場面になるとより色濃くなる。頭を下げるのは亮介のほうだった。

「お待たせしました、すみません」

「着いてすぐに電話したんですけど、お茶一杯飲むくらいしか待たなかったですよ」

「なにかありましたか」

「少し晴れ間が見えるようになって、会いたいなと思ったもんだから」

肘掛けに両肘をのせて腹のあたりで忙しなく指を動かしている。ゆったりとした口ぶりや余裕のある笑みとは裏腹な、落ち着きのない仕草だ。事務の女の子がふたり分のお茶を運んできた。彼女は茶碗を置いたあと、亮介に章子の容態を訊ねた。

「ICUから個室に移りました。心配かけてすみませんね」

それ以上言うべきではない。彼女が応接室を出ていったところで、慎吾が口を開いた。

「うちの社員はみんな、母とあなたのファンですよ。お気づきでしたか」

お茶をひとくち飲んだ。窓の外は、慎吾が言うとおり少しずつ晴れ間が多くなっている。夜の色も鮮やかだ。

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慎吾の上体が背もたれから離れ、こちらに近づいてくる。下から亮介を覗き込んだ。礼儀も作法もなかった。

「母の意識が回復する見込み、あちこちの意見を総合すると一割もないそうです」

「あちこち、と言いますと」

「知り合いや、医者や、その他いろいろですよ」

「主治医も、そう言いましたか」

慎吾は亮介の質問に答えなかった。「アッシュ」の動きについて、話せる場面でもなさそうだ。章子の意識が戻らぬうちは、専務の動きで売り上げを伸ばしている店についてあれこれと言うわけにもいかない。

「副社長、お仕事のほう、大変じゃないですか」

「できることを精いっぱいという感じですが」

「会社や、息子の俺に遠慮なんか要らないんですよ」

一瞬なにを言われているのかわからず、目で問うた。テーブルの角を挟んで、妙な間があいた。慎吾がちいさく息を吐いてもう一度「俺なんぞに、遠慮は要らないんです」とつぶやいた。

「『いざわ』は十年かけておふたりが大きくしてこられた会社です。今後母の意識が戻る可能性が低いとなれば、副社長おひとりではさぞ荷が重いことだろうと思いましてね。俺なりに、役員たちとも話し合いながらいろいろと考えたんです。正直申し上げますと、苦渋の選択というやつですよ」

口の中が乾いて、舌が上手く上顎から離れない。慎吾はいったいなにを言いたいのか。軽はずみに言葉を返すことはできない。亮介は黙って慎吾の次の言葉を待った。窓の外では原色の明かりが点滅している。「ですからね」と、慎吾が続けた。

「ここから先は、母の見舞いに専念していただいて、経営に関しては役員たちに等分の責任を持ってもらって、全体で維持してゆくのが会社のためだろうと。そういうことなんですよ。もちろん俺も片倉も精いっぱいのことをしますよ。母とあなたのご努力に恥じないような『いざわ』にするために」

慎吾の声が低くなった。彼は帳簿のデータに五十万円のほころびを見つけたと続けた。ほころび、と亮介は口の中で繰り返す。その五十万円のことはよく覚えている。冬場の利益が出なかったブティックに、名目上「融資」というかたちを取った「穴埋め金」だ。章子と話し合って、店長を替えることを条件に援助した。今後の売り上げから少しずつ長期で返済してもらう予定だった。「いざわ」で働く者たちのためにも、失うことができない店舗だった。もっときめ細かくサポートしていれば良かったという教訓にもなったできごとだ。

章子のポケットマネーで埋められない穴ではなかったが、ほかの店との兼ね合いもあるので、副社長の権限で決済してある。そんなことは慎吾も役員たちも了解済みではなかったか。

慎吾は窓の外を眺めたあと、「まぁ、そういうことなんですよ」と言ってゆっくりと席を立った。まさかこのようなかたちで会社を追われるとは。亮介は呆然としながら義理の息子を見上げた。必要以上に優しげで隠やかな眼差しが亮介を見下ろしている。

「マンションは母個人の持ち物なので、夫であるあなたが今後も住まわれるのはまったく構いません。別れるというのなら止めませんけどね」

会社の株は七割が章子名義、残りの三割は亮介と慎吾と顧問弁護士の片倉が等分して持っている。いつの間にか彼に「副社長」と呼ばれなくなっていた。慎吾の態度は長い時間をかけて用意されていたものだろう。母親になにごとか起こったときは役員を丸ごと抱き込んで亮介を追い出す、という流れは最初からあったのだ。みごとと言うほかなかった。亮介は椅子から腰を上げ、深々と頭を下げた。

翌日亮介は病院のロビーで片倉を見かけたが、声をかけなかった。役員名簿に名を連ねている者の繋がりに触れたくない。自分の行動はすべて会社に筒抜けになっているだろう。「アッシュ」でケンジにした質問のひとつひとつが慎吾の耳に入っていることを思った。売り上げを左右する人物が、慎吾の友人という事実は大きい。母親が把握しきれない交友関係の、それはほんの一角。「いざわコーポレーション」が今後慎吾の手でどのような展開を迎えようとも、もう亮介にはなんの権限もなくなった。亮介は眠っている妻の頬に触れた。思いのほか温かい。亮介は自分の手の中にあるものをひとつひとつ数えてみた。

かたちあるものは、マンションと、当面食うには困らない程度の預金、衣類。章子――と連ねてみて、打ち消した。章子は伊澤慎吾の母だった。亮介に「伊澤」の名字を与えたまま眠っている。

揺り起こしたい衝動を抑え、頬から手を離した。


伊澤章子の夫として新潟で新しい仕事を見つけるのは難しかった。ただ、慎吾の仕打ちに対して離婚という決着のつけ方はしたくない。

自分の存在に再び価値が生まれるのは、章子の意識が戻ったときだろう。こうして眠り続けている限り、亮介は章子の夢が暗いものでないよう心の中で祈ることしかできない。マンションと病院を往復しながら、毎日をぼんやりと過ごしているわけにはいかなくなった。自分が食べてゆくぶんくらいは働かねばならない。退職金代わりとして現金化された株は、今までの生活とマンションを維持しようと思うと二年でなくなる。確実に目減りしてゆく蓄えに頼るわけにはいかない。ひとまず考えねばならないのは、仕事だろう。五十半ばの職探しがどれだけ厳しいかを想像する。昨日まで副社長だった現実が大きな足かせとなる。

章子の耳元に顔を寄せて、祈るような気持ちで声をかけた。

――章子さん、お願いですから目を覚ましてください。

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