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最後の男としてそばにいて…驚愕の結末が話題のサスペンス長編 #1 それを愛とは呼ばず

妻を失ったうえに会社を追われ、故郷を離れた五十四歳の亮介。十年所属した芸能事務所をクビになった、二十九歳の紗希。行き場を失った二人が東京の老舗キャバレーで出会ったのは運命だったのか。再会した北海道で、孤独に引き寄せられるように事件が起こる……。驚愕の結末が話題を呼んだ、直木賞作家・桜木紫乃さんの傑作サスペンス長編『それを愛とは呼ばず』。二人の運命が動き出す、物語のはじまりをご紹介します。

*  *  *

1 新潟・亮介

晴れ間を見せたあとの曇り空はひときわ低い。

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三月に入ってから一週間が経った。ところどころ青い空を見たのは昨日だけだ。厚い雲に蓋をされたままひと冬を過ごすと、春が来そうで来ないこの時期は人との会話も少なくなりがちだった。

伊澤亮介は遅い朝食を終えた食卓の後片付けを済ませ、妻の章子が広げっぱなしにしていた新潟日報を畳んだ。手洗いから戻った章子が、食卓の上に放ったままの老眼鏡をケースに仕舞う。今日六十四歳の誕生日を迎えた章子に「今夜は外食にしますよ」と声をかけた。

「亮ちゃんと、また十歳離れちゃうのねぇ」

先月五十四になった亮介と、期間わずかの九つ違いを喜んでいたような口ぶりだ。結婚してからの十年、毎年同じ会話を繰り返している。年の違いを始終話題にできるほど達観しているのか、自分が口に出していれば陰口も薄いと判断してのことか。

亮介は勤めていたホテルが火災に遭い職をなくしたあと、故郷の新潟へと戻ってきた。東京にはそれまでの収入を維持できるような職場も見つけられなかったし、少しは物価も安いと思ってのことだった。大学を卒業してからずっとホテルマンとして働いてきた経歴が、当時新潟で駅前ホテルの買収に成功した女社長の目にとまった。しかしすぐに支配人の職にありつけると思った亮介を待っていたのは「ホストクラブの店長」という仕事だった。

「うちの若い子たちに、本当の礼儀作法を教えてやってほしいのよ。ホストとしてものになる子は、女で失敗さえしなけりゃたいがいのことはこなせるの。身の丈に合わない欲を搔かない、夜の世界に内臓まで染まらない、仕事熱心な子を見つけてほしいんです」

後継者ができたあとはホテルのほうへ移ってもらうから、と章子は言った。そして採用されて一年経ったころ「あなたのこと、好きになりました」と打ち明けられた。

――好きとは、どういう意味でしょうか。

――言葉どおりです。男性として、好き。いけませんか。

――うまい言葉は浮かびませんが、光栄です。

章子の経営能力に、男女の別なく惚れていたことは確かだ。気持ちを打ち明けられて、戸惑いがなかったといえば嘘になる。十歳年上の女性経営者。雇い主だ。章子はその場で、亮介の心を見透かすように笑って言った。

――正直、結婚したい。伊澤章子の最後の男として、そばにいてほしいと思ってる。

――わたしは、四十過ぎまで結婚しそびれた男です。

――断ったからといって、あなたが明日から仕事を失うなんてことはないから安心して。ただ、顔を合わせたときにちょっと切なくなる。それは仕方ないわ。さんざん年を取ってからの恋だし。

恋、という言葉が亮介の心を鷲摑みにしたのだった。十歳の年齢差が吹き飛ぶほどに、新鮮な響きがあった。恋ならば、仕方ないではないか。摑まれた心は急速に章子へと傾いていった。事実婚でも構わないと思っていても、それを言えばどこかで章子を傷つけてしまいそうだった。

「会社のために伊澤の姓を名乗ってほしい」というプロポーズは、彼女らしい気持ちの伝え方だ。責任、という言葉の好きなひとだった。

配置換えを待たずに一緒に暮らし始めた。「いざわコーポレーション」に雇われてから二年で入籍し、亮介は副社長の座に就いた。火事太りという陰口も、ホスト上がりという噂話も、ふたりの元に届く前にほどよく薄まった。事業が伸びているときというのはそんなものだ。

「今夜の食事、専務にも声をかけましょうか」

「あの子はいいわ。今日はふたりで食事をしましょう。あなたたちが揃うと、わたしなりにけっこう気を遣うの」

専務の伊澤慎吾は章子のひとり息子だ。章子が亮介と籍を入れた際に一度会社を離れたが、自力で興したレストランを畳んだのを機に、五年前に詫びを入れた。古町にある髪結いの家に生まれた章子は、幼いころから体ひとつで稼ぐ女たちを見て育ったという。女手ひとつで子供を育てることが、章子で四代続いていた。

章子がいたずらっぽく目を細め、テラス窓の前に立った。

佐渡島を望む海側にあるマンションは、このあたりでは一番背の高い建物だ。老齢の夫婦ふたりで暮らすには百二十平米は少々厄介な広さだが、「いざわコーポレーション」の女社長の住まいとしては、納得のセキュリティを備えている。リビングから見る景色は今日も曇天だ。夏場は空と海に映える島影も、この時期はないのと同じだった。

章子は両肩をぐるりと回しながら、降るのか降らないのかはっきりしろと空に文句を言っている。役員会議で見せる獅子のような気配はなりを潜め、無邪気な横顔だ。

「じゃあ夕方の六時に、『ゴルツィネ』で待ち合わせましょう。僕はそれまで古町のほうを見ておきます」

あそこのシャンパンはおいしいのよ、と章子が喜んでいる。亮介が「しっかり冷やしてもらっていますよ」と応えると、手を叩いて喜んだ。

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新潟の女傑と呼ばれた伊澤章子が夜の世界でのし上がってこられたのも、ほとんど酒を飲まないでやってきたせいだろう。亮介と結婚してから少し飲むようになったワインも、白の甘いものばかりだ。食事の際はシャンパンが好きだった。

グラス一杯で顔が赤くなることを恥ずかしがる姿は、少女のようだ。酒に頼った商売をする部下を冷静に切り捨てられることも、彼女が女傑と呼ばれる理由だった。

亮ちゃん、と章子が窓辺で手招きをする。亮介は葉書大のバスケットに小袋入りの菓子を入れて、窓辺へと近づいた。手に持ったチョコレートおかきの小袋を章子に差し出す。

「ありがとう。最近はどこでもこの手のお菓子を出してるのね」

小袋を開け、ひとかじりした章子が窓に向かって左側を指さした。亮介は妻が指さした方角に目を凝らす。窓辺にカカオのにおいが漂っている。

「亮ちゃん、あっちのほう、どうかな」

「あっちのほうって、どこですか」

「海のほう。『カーブドッチ』に行く途中の、建物が途切れたあたりからちょっと行ったところに、三千坪の土地が売りに出されてるの」

「またなにか始めたくなったんですか」

「あたり」章子が声を高くする。

「本屋って、どうかしら。本だけじゃなくて、音楽と映画と食事と文房具を並列にして、駐車場もいっぱい取って、ここから先は海っていう場所に夜中まで煌々と明かりをつけておくの。夫婦喧嘩をしても、ふらりとお酒を飲みに出られなかった下戸の受け皿。パチンコと酒しか憂さ晴らしがないんじゃ、街がどんどんちいさくなる。ゲームセンターと飲み屋以外の娯楽、それも真夜中まで開放されたお店を、思い切り手を伸ばしたところに建てるの。郊外よ。漁り火みたいに人が寄ってくる外観がいいな。

女って、どんなに気持ちが荒れても自分のためになにかひとつ買い物をすると、そこでなにかがリセットされるの。夜中に気晴らしに酒を飲むこともできない人が、ちょっと甘いものをつまんで買ったばかりの文庫本を広げて、気づいたら二時間くらい経ってて、欲しかったペンや携帯のストラップを買って家に帰る。財布から出ていくのは二千円弱。普段自分のためにお金を使えない女の人の二千円は大きいのよ。男の人だって、今はそんなに持ってるわけじゃない。一気に使えるお金には、あとがないの。今は女がお金を使わないと、経済が回らない時代だもの」

章子が広げてゆく商売はいつもどこかで連動している。飲食店を母体にすれば、どうしたって身を飾る場所が必要になるといって美容院を開き、何軒かのブティックも抱えている。夜の勤めが長くなると体力を消耗するからと、フィットネスジムも開いている。人件費、維持費、経年の修繕費で赤字が出なければよしとする、福利厚生面の充実だ。どの店や施設も「いざわコーポレーション」の系列会社に勤めてさえいれば、アルバイトでも割引が利くようになっている。

土地に合った商売がある、と章子は言う。「社員の便利は街の活性化」という考えは亮介もうなずくところだ。どうしてそんなことを思いついたのかと問うた。

「亮ちゃん、わたしね、百円商売の敵になりたい。傾いたビルを札びらで叩くような会社とは違う。うちで働く若い子に、もっと本を読んでもらいたいの。夜の仕事でいくらお金を得ても、年を取ったら使いものにならないんじゃ困るのよ。好きな本をぼろぼろにするまで読んで、三度買い直すくらいの子がいれば、わたしも安心」

活字と音楽、食事と文具が連動すれば、そこにはなにか新しいものが生まれる気がするという。

「ここから先は、地代を払う代わりに郊外型の娯楽と文化施設を相手にして、地元に残る若い子を育てていきたいのだけど、亮ちゃんはどう思う」

「章子さんがいけると思ったのなら、僕は全力で応援しますよ。明日にでも明るい時間帯に、その土地を見に行きましょうか」

三千坪あるという土地の値段はいったいいくらだろうと思いながら、亮介は妻の頭の中に広がる夢に自分の居場所を重ねる。口に出したからには、章子はどんなことがあっても実現に向けて動くだろう。自分は全力でそのサポートをする。いくつか整理しなくてはいけない店舗もあるだろうが、その見極めが亮介に任されているおおきな仕事のひとつだった。章子は、続きは「ゴルツィネ」で話すと言ってクローゼットへ向かった。

「じゃあ、とりあえず今夜はおいしい食事ね」

昼食はフィットネスジムに併設する「健康食堂」で摂るという。二日に一度通うジムも、章子の場合は仕事の延長だ。

亮介は窓の向こうに広がる、街を覆う雲を見上げた。重い蓋のようだといつも思う。大手資本が郊外の土地を買い叩いて新たな商業街を作っている今、聞けば地方都市はどこも同じ景色だという。章子が腰を据えて県外の資本と戦うというのなら、それは「いざわコーポレーション」だけではなく、この街にとって大きな意味のあることなのだろう。

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それを愛とは呼ばず

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