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あなたへ #4

森沢明夫さんによる『あなたへ』は夫婦の深い愛情と絆を綴った、心温まる感涙小説です。刑務所の作業技官の倉島は、亡くなった妻から手紙を受け取る。妻の故郷にもう一通手紙があることを知った倉島は、妻の想いを探る旅に出る。

◇  ◇  ◇

東京駅から約一時間半――。

街というよりは、町……いや、むしろ田舎という単語の方がしっくりくるような郊外の駅に降り立った田宮佑司は、ホームの上でひとり深呼吸をした。

一週間ぶりに吸い込んだ地元の夜気には、馥郁ふくいくとした香ばしい土の匂いがたっぷり含まれていて、妙にほっとする。ホームの裏手の草地からは、リンリンと清洒せいしゃな鈴虫の歌が響き渡り、見上げた夏空には天の川が渡っていた。森を切り開いてむき出しになった丘は黒いシルエットになっていて、その上には、まるで刃物のように鋭く光る細い三日月が浮かんでいた。

自動改札を抜け、開発途中の駅前ロータリーに出た。

まだ住民も少ない、規模の小さな町のわりには、このロータリーは広々としていた。周辺には虫食い状にぽつぽつと飲食店の電飾看板が光っているが、それ以外は見事なほどに真っ暗だった。タクシー乗り場に待機している車両も一台だけだ。

いいじゃないか、静かで。

やっぱり人間は、こういうところで暮らさないとな。

星空の下、のんびりと歩きながら、田宮はひとりごちる。

間もなく三十六歳の誕生日を迎える田宮が、この閑寂かんじゃくとした土地に二階建ての小さな一軒家を建ててから、ほぼ一年が経った。支払いは二十五年ローン。六十歳で定年退職を迎えるのと同時に、きれいさっぱり返済が終わる計算だ。

本音を言えば、一戸建ては田宮の収入からするとなかなか厳しい買い物だった。だが、それでも田宮は清水の舞台から飛び降りた。都内の貿易会社に勤めていた妻の美和が過労で倒れたことに、背中を強く押されたのだ。

独身の頃からずっと総合職として働き詰めだった美和は、最近の若い女性としては珍しく、結婚後には専業主婦になることを熱望していた。過去に二度も胃潰瘍いかいようをわずらっていたから、相当にきつい職場だったのだろう。いずれは子供を産んで、子育てをしっかりと経験したいという想いもあるようだった。

とにかく、本人が専業主婦を望むのならば、少しでも気分よく安らげる、庭付きの一戸建てをプレゼントしてやりたい――そう田宮は思ったのだ。ついでに言えば、田宮の知らない男たちがうようよといる会社から美和を引き離したいという思惑も少なからずあった。

美和は仕事が忙しくなると、しばしば会社に泊まっていた。結婚して六年、もはや新婚というわけでもないが、それでも三十路みそじを迎えたばかりの妻が外泊することには抵抗があったし、一抹の不安を抱かずにはいられなかったのだ。手前味噌てまえみそになるから外では決して口にしないが、美和は誰が見ても「清楚せいそな美人」のカテゴリーに分類されるはずの「いい女」なのだ。

そんなわけで、れた弱みも手伝って、田宮は多少の無理を覚悟しながらも、この地につい住処すみかを構えることにしたのだった。

新居への引っ越しを終えると、さっそく田宮と美和それぞれの両親を招き、ささやかなパーティーを催した。両親たちは終始笑顔で、引っ越し祝いもたんまりと弾んでくれた。

「子供部屋が二つってことは、そういう家族計画なのかしら?」

美和の母親に悪戯っぽい顔でかれたが、まさにそのとおりで、それが美和の思い描く未来像だった。だから、これからは子作りに励んで、来年か再来年あたりには一人目を出産し、その三年後には二人目。下の子供が幼稚園に入る頃には、一匹のラブラドール犬を飼っている――そんな、日本中のどこにでも転がっていそうな、ささやかな夢を美和は抱いていたのだ。そして、その夢は同時に田宮自身の夢でもあった。美和の幸せそうな顔を見ることこそが、田宮の人生における至福でもあったからだ。

実際に住んでみると、新居はとても快適な生活空間だった。歩いて十分で着く駅には準急も停まるし、車で近くの大型ショッピングモールに行けば買い物に不自由することもない。流行はやりのアウトレットも車で五分だ。そして何より、空気と水が美味く、風景はのびやかで、閑静な環境にあることが素晴らしかった。都心からは少々遠いが、ひと月の半分は出張で、地方を転々としている田宮にとっては、それもさほど苦にはならない。

田宮の仕事は、北海道の駅弁「イカめし」の実演販売だ。全国の百貨店や大型スーパーなどで開催される「北海道展」などの催事場にブースを出店し、お客の目の前で「イカめし」を作りながら出来立てを売るのである。

もともと「イカめし」は「駅弁」だが、実際に駅で売れている弁当の数は、社内の総売上げの一割にも満たないのが現状で、残りの九割は田宮などの「イカめし職人」が全国の催事場で実演販売したものだ。

本社は北海道の函館にあり、田宮が所属するのは有楽町にある東京支社。担当地域は主に関東から西の売り場で、人数が足りないときは助っ人として東北や北海道にまで駆り出されることもある。職人は、ひと月の間にだいたい四~五カ所の催事場を巡り、一日平均で二千個ほどの「イカめし」を売り上げる。たくさん売り上げれば、その分「売上げ手当」が付くのだが、性格が明るくて軽快なトーク術にけた田宮は主婦層の客に受けがいいせいか、四十人ほどいる職人のなかでも常にトップクラスの成績を上げ続けていた。売上げの多い日は五千個もの弁当を売り上げ、収入も他の職人たちとくらべて、倍近くになる月もあるほどだった。社長からも支社長からも重宝がられ、「イカめしを全国に売るトップセールスマン」として、北海道の地方テレビ局で紹介されたことすらある。

田宮は仕事にプライドを抱いていた。そして、その仕事で美和を幸せな専業主婦として養っているという自負もあった。だから、この地に引っ越してきてからは、自然と胸を張って大股おおまたで田舎道を闊歩かっぽしていたのだった。

天の川を眺めつつ駅前ロータリーを歩いているとき、ふと数日前に開店したばかりの洋菓子店が目についた。田宮はその店で美和の大好きなロールケーキを買うと、まだ若いハナミズキが植えられた並木道をのんびりと歩きだした。歩道が広く、静かでまっすぐな、いい道だ。秋に紅葉するこの樹々たちも、自分たち家族の生活とともに生長していくことだろう。

郊外のニュータウンには夢がある。とりわけ早期から入居した住民には、これからどんな街へと発展していくのかを想像して、わくわくする権利が与えられている――田宮はいつもそんなことを思っては、ひとり静かな幸福感を味わっていた。

並木道を歩く田宮の右肩には、黒い旅行鞄のショルダーベルトが食い込んでいた。「イカめしの前田食品」のロゴがドーンと入ったこの鞄には、売り場で使う調理服や、ブースにかける暖簾のれんのぼり、帽子や売上帳などが入っているほか、私服の着替えや歯ブラシ、ひげ剃り、バンドエイドや常備薬などの旅行グッズが一緒くたに詰め込まれている。

本音を言えば、かなりデザイン・センスの悪い鞄なのだが、これを持った四十人ほどの職人たちが全国を行脚すれば、それだけで無料のいい宣伝になると社長の訓示があったため、職人たちはみな渋々ながら使っているのだ。劇画タッチのイカの絵のまわりを、稲穂が丸く囲んでいるという、「イカめし」そのままのロゴマークが白抜きの判子みたいに描かれていて、それがやたらと田舎臭くて恥ずかしいのだが、そもそも素朴な田舎の味を売りにしているのだから、これもまた仕方がないような気もしている。

田宮は、ひとけのない静かな並木道をのんびりと歩きながら、もう一度、深呼吸をした。やっぱり、いい空気だ。今日は、少々無理をしてでも帰ってきてよかったと、素直に思う。

本当なら田宮は今夜、催事場の近くの静岡駅前のホテルに泊まり、明日の昼過ぎに帰宅する予定だったのだ。しかし、たまたま今日はブースの後片付けが早く終わったのと、疲労感もさほどなかったのとで、予約していたホテルをキャンセルして新幹線に飛び乗り、帰路についたのである。

思いがけない夫の帰宅に、三日間ひとりぼっちだった美和は驚いて目を丸くすることだろう。そして、すぐに、好物のロールケーキを見て、その目をにっこり細めるはずだ。美和が笑うと、目と口がちょうど頭上に浮かぶ三日月のようなカタチになる。何度見ても飽きない妻の笑顔を想像して、田宮はふっと自分も微笑んでしまった。


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