それぞれのある冬の日…新しい人生へ踏み出す6人を描く恋愛小説 #1 隣人の愛を知れ
不倫と仕事に一生懸命なパラリーガル、初恋の相手と同棲を続けるスタイリスト、夫の朝帰りに悩む主婦。自分で選んだはずの関係に、彼女らはどう決着をつけるのか……? ルミネの広告コピーから生まれたベストセラー小説、『試着室で思い出したら、本気の恋だと思う。』。7年ぶり、待望の2作目となる『隣人の愛を知れ』は、素直になる勇気を得て、新しい人生へと踏み出す6人を描いた恋愛小説です。その冒頭を特別にお届けします。
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序章 冬至あたり
恋してないと弱くなる。恋ばかりだと脆くなる。
12月22日(木) ひかり
吸い込まれるような青だ。
すっかり葉を落とした樹木が、空を広く見せてくれる。冬の東京の空は、夏の沖縄の海にも負けていない青。福吉ひかりはボアのブーツを引きずるようにして、赤坂御所の脇の鮫河橋坂を上がっていく。
この坂を上り切った地点が、空か海であればどれほど良いだろう。
ひかりが吸い込まれそうなのは、青い空でも海でもなく、コンクリートだ。
気を抜いた瞬間に、後頭部から倒れてしまいそうな有様だった。人間は、頭がいちばん重い。そんなことを自分のからだで実証する羽目になるとは。
朝まで待っても、夫の直人は帰宅しなかった。4ヶ月ぐらい前から、そういうことが度々ある。結婚3年目になって、まさかの事態だ。不動産会社の営業が直人の仕事で、土日に出勤することも増え、行き先を告げない不審な出張もある。
「終電に間に合わなくて事務所で寝た」
近頃はそんな言い訳もなくなって、昨夜も堂々とした無断外泊だった。無邪気なルール違反に日々が蝕まれていく。
この澄み切った青だけが、いま、自分の心に触れる美しいものであるような気がする。着膨れているのに、からだはちっとも温まらない。今日は風もないのに、空気を裂くような雑音が耳の奥で鳴り響く。ひかりは白い息を吐いて、空を仰いだ。
「危ないっ! ストップ!」
女性の大声が聞こえたときには、ひかりの目の前にぐわんと空が広がっていた。
東京の真ん中でも道路に寝転がれば、こんなに空が見えるのか。
「大丈夫ですか?」
坂道を下りてくる幼児用の自転車がぶつかったのだ。小さな子どもの泣き声が聞こえ、母親であろう女性が、ひかりの顔を覗き込んでいた。大した衝撃はなかったが、尻もちをついて、そのままひっくり返ってしまったのだ。
思ったそばから、まさかコンクリートに吸い込まれるとは。起き上がろうとしても、からだがすぐには動かない。
「……大丈夫ですよ」
ひかりは空を見たまま答える。雲ひとつない日本晴れ。
あーもう、すべてがめんどうくさい。
ここが天国のビーチだったらいいのに。わたしが寝転んでいるのは、太陽に温められた白い砂浜。足もとにやさしく寄せる波。あそこの名前はなんだっけ?
宮古の下地島の北端。小さな飛行場の横に、潮が引くと白いビーチがあらわれる。たしか変な名前だった。世界の終わりみたいな……。あぁ、ワンセブン。
そうだ。17ENDビーチ。
「救急車呼びましょうか?」
気がつけば、母親の横に警官の顔もある。坂の途中の派出所から、騒ぎの様子に駆けつけたのだろう。ひかりはからだの重心をゆっくりと戻して、どうにか立ち上がることができた。
「大丈夫です。ほら、どこも怪我していませんから」
不安げな母親の後ろに隠れて、子どもがべそをかいている。
その顔に表れているのは怯えだった。自転車がぶつかってびっくりしたから。ママに怒られたから。子どものそういう表情ではない。
「ボクは大丈夫? 自転車、ピカピカでカッコいいね」
ひかりが安心させようとしても、まるでオバケでも見るような目で怯えている。
「連絡先とか、要らないです」
繰り返し謝る母親の声も、警官の声も、ひかりは振り払うようにして、坂道の先を睨みつけた。
この先に、17ENDビーチはない。天国もない。
息を大きく吐いて歩き出すと、肺いっぱいに入れ替わった冷たい空気で、ひかりは胸が痛くなった。
今夜はゆず湯にしよう。
冬至が一年でいちばん早く日が暮れる。子どもの頃にそう教えられた記憶があった。だけど実際は11月末から12月頭の方が、太陽は早い時間に沈んでしまうのだ。地動説のように絶対だと信じてきたルールは、間違っていた。だとしたら、豆のようにちっぽけな自分の人生で、信じられるルールなんてあるだろうか。「ゆず湯」に入ったところで、きっと「融通のきく人生」になんてならない。
ダウンコートのポケットの中で、ひかりはかじかんだ手をギュッと握り締める。
「どうだっていいや」
冬至の今朝の太陽は7時には昇ったが、直人は帰ってこなかった。明るくなっても、夜が明けた気分にはならなかった。雪山でも耐えられる自慢のボアブーツを履いていても、つま先の感覚がない。それでも、心の凍てつきよりは幾分かマシだ。
毎日欠かさず、この坂を上っていく。
上り切らないと自分の幸せは戻ってこない。根拠のない願掛けを、それでもひかりはどこかで信じていた。
第一章 クリスマスあたり
わたしを含め、すべての人に幸福を。
12月25日(日) 莉里
大根のお味噌汁は甘い。お砂糖を使うわけじゃないのに。
くちびるを尖らせてふうふうとやりながら、立花莉里はお椀にそっとくちびるをつけた。
ほうれん草のおひたしには鰹節をかける。
胡麻和えにする場合は、白胡麻でも黒胡麻でもいい。
家でも、小学校の給食でも、莉里が知らなかったことだ。
「商店街の八百屋さん、子ども食堂をやっているみたいだから、ママの帰りが遅い日は行ってみたら?」
優奈ちゃんのママに勧められて、莉里は毎晩のようにごはんをここに食べに来るようになった。お店の奥にある畳の部屋が食堂になっていて、おじちゃんとおばちゃんが作る晩ごはん目当てに、毎晩決まった顔が並んでいる。椅子じゃないのが最初は食べづらいと思ったが、すぐに慣れた。保育園児ぐらいで、ママと一緒に来ている子もいたし、4年生の莉里より年上の子もいた。兄弟3人で来ていたり、ひとりだったり、みんなバラバラだ。そういえば6年生のお姉ちゃんは、最近あんまり顔を見てない。
「莉里ちゃんは、昨日はなに食べた?」
子ども食堂のおばちゃんが、莉里のお皿におかわりのほうれん草をボウルから取り分けるついでに、隣の座布団に腰をおろした。
「サラダチキンとチキンナゲットだよ。ママがクリスマスはチキンでしょ、って」
おばちゃんはちょっと申し訳なさそうに、
「じゃあチキンの照り焼きじゃ、今晩もまたチキンになっちゃったね」
と、莉里のまだ半分残っているお皿を見た。
「全然平気だよ。おいしいし」
子ども食堂に来てから、莉里は初めての食材にたくさん出会った。食感が苦手じゃなければ、どんな野菜もお魚もへっちゃらだった。ほうれん草のクタッとしたバター炒めを残してしまってから、おばちゃんは莉里の分だけさっと湯がいて氷水にさらし、おひたしや胡麻よごしにしてくれるようになったのだ。
「このほうれん草の隣の、なあに?」
知らない食材があると、莉里は必ず質問をする。
「カリフラワーっていう野菜だよ。莉里ちゃんの好きなブロッコリーの白いのみたいだよね」
「へー。でもなんか、食感ってゆーか、歯触りは違うよね」
莉里は、チキンの照り焼きの残ったソースをちょんとつけてから、カリフラワーを口へ運んだ。
「莉里ちゃん、難しい言葉を知ってるのね」
莉里はちょっと照れくさそうにして、ピンクのリュックからノートを取り出す。シャーペンで「カリフラワー」と書いて、イラストも添えた。白いブロッコリーみたいだけど、食感は違う。味はあんまりない。子ども食堂で食べたものを、日記をつけるみたいに書き溜めていく。春菊、八つ頭、太刀魚、カブ、合いびき肉……。
食堂で宿題をする子もいるけど、莉里はしない派だった。ママの帰りは22時を過ぎることが多いし、彼氏が遊びに来ている夜は、ほとんど部屋から出てこない。
夜の家は、莉里の王国なのだ。
ごちそうさまを言って帰ろうとしたとき、おばちゃんからビニールの傘を渡された。
「なんで?」
莉里が訝しがると、
「今夜は降るって、天気予報でいってたから」
夏よりも幾分くたびれてきたクロックスでは、たしかに靴下が濡れると思った。おばちゃんに手を振ると、莉里の手をぎゅっと摑んで、いつものようにぶんぶんと一緒に振る。さようならの儀式。
「ごちそうさまでした。明日もまた来ます」
今日のおばちゃんのさよならは、なんだか元気がなかった。
莉里が振り返ると、おばちゃんはぼんやりと莉里を見送っていた。
◇ ◇ ◇