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CANCER QUEEN ステージⅡ 第10話 「副作用」



 
    キングが初めての抗がん剤治療で入院してから、今日で6日目になる。日曜日の病棟はまるで生徒のいない学校のように、ひっそりと静まり返っている。いつもの看護師さんたちの賑やかな笑い声も、ほとんど聞こえてこない。

    心配された副作用も、今のところたいした症状は出ていない。強いて言えば、数日前から続いている便秘くらいかしら。キングは今朝、1時間近くもトイレでねばっていたけれど、成果は出なかった。
    そこで彼は看護師さんと相談して、座薬を入れることにした。座薬は彼にとって初めての経験。たいていは、それでよくなるそうだけれど、キングには効き目がなかった。彼の性格と似て、ずいぶんがんこなのね。
    それでしぶしぶ、便を柔らかくする酸化マグネシウム剤を飲むことにした。薬嫌いのキングにしては、めずらしくすばやい決断ね。お腹が張って、よほど苦しかったようだわ。

    ふんばれ、キング! 
   じゃなくて、
    がんばれ、キング! 

    乙女の言葉にしては、ちょっとはしたなかったわね。ごめんなさい。

    翌日、ようやく便秘は解消したようだけれど、キングは朝から体がだるそう。
    朝食後、ドクター・エッグが2回目の血液検査の結果を持ってきた。白血球の値が、前回の8,440から3,790と、基準値の下限の3,300ぎりぎりまで落ちていた。
    いよいよ骨髄抑制が始まったのね。これからは感染症に気をつけないとね!

    入院8日目。キングは昨日から体がだるくて、なにもする気が起きないみたい。今日のような雨の日は、よけいに辛そうだわ。今朝は、頭が鉛のように重たいようだ。食欲も低下している。朝食はがんばってなんとか完食したけれど、ほうれん草のソテーは匂いが鼻について、飲み込むのに苦労していた。 

    翌朝は、いくらか気分がよくなったみたい。食欲も少し回復している。今朝もがんばってなんとか完食した。
    キングは入院してからこれまで、全て完食している。食べることも大事な治療の一つ。おかげさまで、わたしもひもじい思いをしないですんでいるわ。
    食欲がないと聞いて、看護師さんが栄養士を呼んでくれた。すらりと背が高く、目鼻立ちがはっきりした、若くてきれいな栄養士さんね。 
    キングが、ほうれん草のソテーの匂いが気になると言うと、栄養士さんはその場で、ほうれん草を禁食に指定した。さらに、食欲が出るようにと、昼食を麺類に変えたり、毎食、フルーツを追加したりと、いろいろ手配してくれる。

    最近はドクターや看護師だけでなく、管理栄養士や臨床心理士、薬剤師、精神保健福祉士など、複数のメディカルスタッフが連携して治療やケアにあたるチーム医療が普及しているという。サポートしてくれるスタッフが多ければ多いほど、患者は安心よね。病院食でもこんなに配慮してくれるなんて、ほんとうにありがたいわね。

    わたしもこんなスタッフがほしいな。キングはわたしのことを無視しているし、血管のなかを泳いでいても、赤血球や血小板は知らんぷりだし、白血球なんか寄ってこられても迷惑なだけだわ。“CANCER QUEEN”とは名ばかりで、仕えてくれる侍従も護衛もいないのよ。さびしいわ。

    今日で、入院は10日目。
    朝食後、キングがベッドに横になっていると、ドクター・エッグが3回目の血液検査の結果を持ってきた。気になる白血球数が前回よりさらに下がって2,240と、とうとう下限値を下回ってしまった。白血球の一種の好中球も371と、これ以上減ると感染症にかかりやすくなるという目安の500より少ない。
    ドクター・エッグは好中球の減少は特別なことではないので心配はいらないけれど、白血球を増やす薬は必要だと言う。

    もし今ウイルスに攻撃されたら、キングはひとたまりもないわね。例えて言えば、機関銃で攻撃してくる相手に、素手で立ち向かうようなものよ。覚悟していたとはいえ、キングは感染症にこれほど恐怖を感じたことはなかった。

    お昼前に看護師さんが持ってきた薬は、「グラン」という名前だった。ネット情報では、腰痛や頭痛といった副作用があるらしい。今飲んでいる血をさらさらにするワーファリンや、便を柔らかくする酸化マグネシウム、花粉症予防のオロパタジンといっしょに飲んでも大丈夫なのかしら。
    ドクター・エッグもそのことは承知しているはずだから心配ないとは思うけれど、キングの不安は想像に難くないわ。薬どうし仲よくやってね。 

    午前中は血液検査のほかに、心電図とX線、午後からはCTと超音波。今日は1日中検査漬けね。
    午後のCT検査には造影剤を入れるので、昼食は抜き。せっかく今日から昼は麺類に変わったのに、はじめから食べられないなんてタイミングが悪過ぎる。同室の患者さんに運ばれてきた昼食の匂いが、やけに鼻につくわ。今日のメニューはなにかしら。わたしはもう、お腹ぺこぺこ。

    入院11日目。去年11月の検査入院から数えて、通算39日目となる。
    キングはこれまで病気らしい病気をしたことがなかったから、人生で初めて経験する長期入院というわけ。まさかこんな大病になるなんて、夢にも思わなかったでしょうね。

   キングはけっして健康を過信していたわけではない。それどころか、人並み以上に気をつけていた。それでもがんは防げなかった。
    キングはそれをどう考えたらいいのかと、さっきから深刻な顔で思案している。

    これも運命だと達観することはたやすい。たしかにこれ以上どうしようもなかったという点では、運命だと諦めるしかない。それでも心のどこかで、もっとなにかできたのではなかったかと思っている。後悔とまではいかないが、なにかが微妙にずれていたのかもしれない。それは生活習慣だったかもしれないし、知らず知らずのうちに蓄積されたストレスだったのかもしれない。あるいは、個人の努力を超えた、もっと大きな社会や自然環境の影響なのか。
    そう考えると、がんになった原因を突き詰めても仕方がない。結局、がんは現代文明の複合汚染の結果とも言える病気なのだから……。

    キングはいつから『考える人』になったのかしら。 「下手の考え休むに似たり」というじゃない。そうよ、あまり考えすぎてもろくなことはないわ。

 なるようになれ!
 ケ・セラ・セラ!
  Whatever will be, will be!

    キングが毎日ぼんやりと病室の窓から外を眺めているうちに、早くも13日目の朝がきた。
    外は日に日に春の気配に満ちていく。空が霞む一方で、朝日が眩しさを増してくる。飛び交う鳥の動きが速くなり、公園で遊ぶ子供たちの声がますます元気になって、温んだ空気を伝わってくる。一歩も外に出なくても、春の気配はそこかしこから漂ってくる。

    春の陽気は満ちても、キングの白血球の値は上がらない。
    昨日の検査結果では1,660と、ピーク時の6分の1にまで落ちていた。好中球の値はなんと200。危険ラインの500を遥かに下回っている。
    白血球を増やすための薬が効いていないんじゃないかしら。今朝は腰がひどく痛むらしい。グラン薬の副作用のほうが、効果よりも先に出ているのかもしれない。
    キングは昼食後、看護師さんに頼んで痛み止めの薬をもらった。薬嫌いの彼が自分から頼むくらいだから、よほどのことね。これでは、抗がん剤の副作用を減らすために、また別の薬を飲むという悪循環だわ。

    入院14日目になって、ようやく白血球数が3,090まで回復した。好中球も769と、500の危険ラインをなんとかクリアーした。
    これでひと安心ね。このまま順調に増えてくれれば、あさっての血液検査の結果次第では、24日にも退院できるらしい。

    昨日までのキングの憂鬱な顔が、一気に明るくなった。このことはキングに計り知れないほど大きな心理的効果をもたらしたようだ。
    彼はこの程度の副作用ですむなら、次も受けてみようかという気になっている。とりあえずもう1クール受けてみて、そのあとのことはまた考えればいいと。
   でも、そう考えるのはまだ早すぎない? 昨日まで、まるでハムレットのように思い悩んでいたというのに、ちょっと数値がよくなっただけで浮かれてしまうなんて、キングらしくないわね。またお嬢さまから、絶対反対と言ってくるに違いないわ。

 抗がん剤治療は何度も繰り返すうちに、がん細胞が耐性を持つようになって、薬が効かなくことがあるの。再発したがん患者の多くが、次々といろいろな薬を使わないといけなくなるのはそのためよ。
    ところが、ドクター・エッグは、耐性に関しては心配ないと言うの。もし再発しても、キングの場合は同じ薬を使えるからという理由らしい。たしかに、これまでの薬が使えるなら、ドクター・エッグの言うことも頷けるわ。
    一方で、抗がん剤の副作用を重視する立場からは、どんな種類の抗がん剤でも、使えば使うほど免疫力を低下させて、いずれ取返しのつかない重い副作用を引き起こすという有力な意見もあるわ。
    さらに、最近の研究によると、がん幹細胞という、がんを作る基となる細胞が存在することがわかってきた。このがん幹細胞には従来の抗がん剤は効かないらしい。抗がん剤で攻撃できるのは、がん幹細胞が作るいわば子どものがんで、いくら子どもを叩いても、母親が生きている限り無駄だというの。
    そうはいっても、がんが人を死に追いやる可能性がある限り、子どもを叩くしかない。がん幹細胞に効く薬が開発されるのはいつのことかしら。

    そうだとすると、キングのこれまでの努力はいったいなんだったの。せっかく辛い副作用に耐えて、ようやく白血球も増えてきたというのに、いまさらがん幹細胞には抗がん剤は効かないと言われては、また絶望の淵に逆戻りだわ。それこそ、この先、夢も希望もないじゃない。

    ちょつと待って! 
    ということは、わたしはそのがん幹細胞なの?
    どおりで、これまでいくら抗がん剤の攻撃を受けても、びくともしなかったわけね。
    もしわたしがほんとうにがん幹細胞なら、今は一人ぼっちだけれど、これから子どもがいっぱいできて、正真正銘の“CANCER QUEEN”になるのかしら。なんか、わくわくしてきちゃった。
    でも、そうなったらまたキングを苦しめることになる。それだけは絶対にしたくないわ。
    わたしはどうしたらいいの……。

 キングにもついに、脱毛の副作用が出てきた。2、3日前から始まってはいたけれど、今日は、シャワーで頭を洗ったら、ドサッと束になって髪の毛が指についた。まるで『四谷怪談』のお岩さんのようね。それでなくても薄くなった髪の毛よ。キングは指に絡みついた黒髪を、それこそ後ろ髪どころか前髪も引かれるような思いで、愛おしそうに洗い流していた。
    この分だと、丸坊主になるのも時間の問題ね。キングには悪いけれど、ちょっと興味があるな。坊主頭のキングはどんな感じかしら。スキンヘッドだと怖そうに見えるのかな。

    早手回しに、奥さまはその時に備えてウィッグを買ってあるの。キングはあまり気乗りしなかったようだけれど、入院前に用意しておいたほうがいいと言われて、しぶしぶいっしょにデパートに行った。
    店員さんが持ってきたウィッグを試しに被ってみると、ふさふさした髪の毛のおかげで20歳は若返って見えた。キングも気に入って、それを被って歩くのを楽しみにしている。

 今朝の血液検査の結果は、申し分がなかった。白血球数が急増して、入院前より多く、10,000を超えていた。

    ドクター・エッグはいつになく弾んだ声で言った。

「明日には退院できます」

    ずいぶん急な話ね。でも、これからはなにを食べても、なにを飲んでも大丈夫。おめでとう、キング!

    キングはさっそく今後の治療について相談した。ドクター・エッグは再発予防のためにはやったほうがよいと言うだけで強要はしなかった。最終的にはキングの判断に任せるというの。

    キングはきっぱりとした口調で、

「2回目の治療も受けます」

と伝えた。
    最大の心配材料だった白血球が劇的に回復したことで、それまで目の前に立ち込めていた霧が一気に晴れたのね。
    これなら2回目もいける。今は、副作用を恐れるより、再発の可能性を少しでも低くしておきたいと考えたの。
    お嬢さまの落胆した顔が目に浮かぶようだわ。

「白血球が回復したから、次回もやることにした。ごめんね」

 キングがお嬢さまにメールすると、

「そっか、よかったね。抗がん剤、次こそほんとに終わりにしてね」

 と、短いメールが返ってきた。お嬢さまは、これ以上、がんこ親父になにを言っても無駄だと観念したのかしら。

    ようやく退院の日がきた。キングは車の窓を大きく開けて、晴れ晴れとした表情で外を眺めている。春の気配を直に感じ取ることができる喜びと、それ以上に、人並みに外に出られたという解放感を満喫しているようだ。
    18日間はさすがに長かった。無事に娑婆に出られてよかったね。お疲れさまでした。

 無事に退院できたものの、脱毛はもはやキングの手には負えなくなった。シャワーを浴びるたびに、両手で掬うほどの毛が落ちる。そろそろ坊主頭にするタイミングね。  

 キングは奥さまといっしょに、注文していたウィッグを受け取りにデパートに行った。いつもは出不精のお嬢さまもついてきたわ。
    キングが大きな鏡の前に座ると、女性店員がバリカンで頭を刈り始めた。一刈りごとに面白いように毛がなくなっていく。もうだいぶ抜け落ちているとはいえ、バリカンに根こそぎ刈り落とされる髪の毛を、キングは名残惜しそうに眺めていた。 
    目の前の鏡には見慣れない坊主頭が写っている。奥さまとお嬢さまはにやにやしながら、横から鏡を覗き込んでいる。
    店員さんが坊主頭のキングにウィッグを被せると、予め彼に合わせてカットしてあるためか、思ったより自然な感じに見える。全体的に緩いウェーブがかかっていて、前髪がゆったりと額を覆っている。やっぱり坊主頭よりこのほうがずっといいわね。

「若くなったね」 

 と、奥さま。

「40代の前半かな」 

 と、キング。

「それは言い過ぎ。でも50代の前半には見えるよ」

 と、お嬢さまが茶々を入れる。彼は気分まで若返ったようだ。ウィッグは奥さまからの最高のプレゼントになったわね。

 今朝は久しぶりの出勤。キングはウィッグを撫でていく爽やかな朝の空気を感じながら、ゆっくりと歩いている。
    通り道には、入院前に可憐な赤い花をつけていたオカメザクラに替わって、ヨコハマヒザクラが濃いピンクの花で賑やかに枝を飾っている。その隣には、ケイオウザクラが上品な淡いピンクを添えていた。そんな木々を見下ろすように、蕾をいっぱいに膨らませたソメイヨシノが、今か今かと出番を待っているようだ。
    横浜公園では早くもチューリップが咲き始めていた。いつもは足早に通り過ぎる人の群れが、色とりどりの花壇の前で滞っている。
    キングはいつもの春をいつものように迎えることができる喜びに、思わず目頭が熱くなった。

 キングはウィッグを被ったままオフィスに入った。どんな反応があるだろうかと、ちょっぴりびくびくしながら席に着いたが、ぼそぼそと挨拶が返ってくるだけで、いつもと変わらない職場に、安心したような、拍子抜けしたような気持ちになった。

「お元気そうですね」

 ベテランの山川さんが、笑顔を向けた。

「おかげさまで、副作用は心配したほどでもなくて。でも、髪の毛はしっかり抜けましたよ」

 山川さんはキングの頭をまじまじと見てから、

「自然な感じですよ」

 と言った。キングの顔がほころぶ。

「若くなったみたい」

 中田さんもいつもの笑顔を見せる。

「それじゃ、これからは、年齢詐称しようかな」

 キングがそう言うと、2人とも声を上げて笑った。
    このところ病気で滅多に顔を出さないのに、こうして普段どおりに接してくれる2人に、キングは感謝の言葉もなかった。

 ひと月後、キングは2回目の抗がん剤治療を受けるため、6度目の入院をする。
    今度こそ、キングの最後の入院にしなくちゃね。そのために、わたしはなにをしたらいいのかしら。自分ではアポトーシスもできず、抗がん剤でも死なないわたしは、いったいどうしたらいいの?
    これが映画や小説なら、「はたして、クイーンとキングの運命やいかに!」
    といった場面よね……。
   

(つづく)

前回はこちら。
第9話「抗がん剤治療」

次回はこちら。
第11話「再会」



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