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#003「時が経てば」は半分ホントで、半分ウソ。

今回、苦しい思い出を吐き捨てるために、筆を取ったわけではない。
ただ、本当に、あの時の先の見えない暗闇に入っていく感覚は、思い出すと狂いそうになるくらいの不安だった。もしかしたら、今、この散文を読んでくれている人の中にも、大切な人が病気になり、同じように辛い経験をした人がいるかもしれない。自分自身が大病になり、どうしようもなく暗闇に落ちてしまった経験の人もいるかもしれない。


夫が亡くなってすぐの頃、私はとても自虐的で、自分から心の傷をえぐり返すような行為を何度も何度も繰り返していた。
もし、同じように傷を真正面から見つめている人がいたら、お願いだから、苦しみを重ねるために、体験談を読まないで欲しい。
辛く感じたら、少し間を空けて、余裕ができた時に、また戻ってきて読んでほしい。決して、自らを傷つけるためにこのエッセイを読んでほしくはない。


今の私は、あの時のどうしようもない暗闇を表現することができるくらい、時間的にも心理的にも、少し離れたポジションにいる。5年以上をかけて降り積もった小さな瞬間たちが、あの時の悲惨な出来事を風化させ、思い出の色を奪い、思い出の音に膜を張った。

忘れたくなかった。
あの時のすべての最悪な出来事や温度をすべて覚えておきたいとずっと思っていたのに、不思議にも、出来事自体は風化していった。

夫が亡くなった当初、周りの人たちに、「時が経てば、楽になるよ」と言われた。
正直、「ふざけるな」「忘れたくない」「私はすべてを覚えておかないといけない」と心の中で呟いていた。
その人たちも、なんて声をかけていいかわからなかったと思う。あらわしきれないほど感謝している人たちもいるが、その人たちのことは、印象的な出来事とともに、あとで話そうと思う。

今ここで言いたいのは、時間というのは、確かに色んなモノを風化させるということだ。モノと言ったのは、有形のものだけではなく、すごく個人的な、思い出だったり、感情だったり、コトバだったり、音や温度、色だったり、自分しか知らない情報や感覚などすべてを含めて。個人的な、私が忘れてしまったら、もう行く先もないんじゃないかというくらい、些細で個人的な出来事も確かに風化していく。
少なくとも、私はそう思っている。良い悪い、好き嫌い、したいしたくない、に関わらず、鮮明で尖っていて熱い記憶はその形のまま残らないと思っている。

そして同時に、一度できた傷は絶対に無くならない。
たとえ忘れたと思っていても、自分の思考や感覚、所作を変えてしまっている。普段は軽々しく使わない「絶対」という言葉を使うくらいに、実感をもって言える。
私にとって、夫が亡くなった衝撃は大き過ぎて、殴られたことがわからないままに私自身が一瞬で砕けてしまった。
普段は傷口を見ないようにしている。傷口というよりも、昔の身体半分を置いてきた感覚なのだけれど。

あの時の、私も夫のあとを追って死んでしまうんじゃないかという不安も、自分を傷つけるために繰り返す脳内の記憶も、すべての原因を自分に差し向けてしまう思考も。2018年のすべてのものから距離ができて、色が褪せて、温度がさがり、心の距離が遠くなり、そして少し呼吸がしやすくなった。
けれど傷は傷のまま。人は簡単に死んでしまうという意識が根付き、人の死に対しての恐怖や、自分もふっと死んでしまうような薄い意識がずっと消えない。自分を信用できない不安定さをずっと抱えている。死ぬという感覚がずっと身近に座っている。



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