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わたしの町

また、ここに来てしまった…


この町は、見わたすかぎり団地と工場…


工場の煙突から出る煙で、すすけて、うす汚れた《曇り空》がしっくりくる…そんな町だ。


そんな町が、私には胸がしめつけられるような場所なのだ!


昭和40年代……父と母は当時の《団地ブーム》に乗って《この町》の団地に移り住んだ。


まだエアコンもなかった50年前の夏、この団地の人たちは網戸で外の風を入れ、涼をとった。


団地の多くのベランダでは「風鈴」が揺れていて、チリン♪チリ~ン♪という響きと蚊取線香の香りを連れた微風が網戸から入ってくる…


トン、トン、トン、包丁でまな板をたたく音が網戸ごしに聞こえはじめる夕暮れ時には、「ちょっと、おしょうゆ貸して~♪」との母たちの元気な声が団地内で飛びかう。


そうして、質素だが、お母さん手作りのホクホクの夕飯がちゃぶ台に並ぶころ、父親たちは、おかずをつまみなからビール片手にブラウン管内の長嶋茂雄選手にクギ付けで、ここ一番でホームランを放つと、「いいぞーっ長嶋ーっ!」との歓声が網戸ごしにこだましたものだ。


ブラウン管といえば、当時まだ友だちがいなかった私は、《テレビ》を友とした。


特に、


   ~フィンガー5~


に熱をあげた。沖縄出身の5人兄弟ユニットでみんなメチャメチャ仲が良くて、


 なんて楽しそうなんだろう!


と憧れ、「学園天国」を聴きながら、もう、寝ても覚めても彼らのことが頭から離れず、


血を分けた本当の兄弟になりたい!


と熱望した。でも、それは、ある意味、ブラウン管の向こうの存在に「血を分けた兄弟になりたい!」とまで願わざるをえないほどの【なにか】をかかえていたのである。


【なにか】といったって、その当時、家庭的にも両親がちゃんといて、《淋しさ》など感じたこともなかった。


ただ、幼い頃からずっと、どうしようもない「むなしさ」のようなものが胸の奥底のほうにあって、なぜだか、


 【この世から消えてなくなりたい】


という暗い気分に苦しめられていた。


「この苦しみ」の原因を知りたくて、心理学を学び、さまざまな出会いや経験を経て考えながら、その【なにか】を探っていった。


結果、その【なにか】は家庭からきていることが判明。(←子どもは環境に順応し「良い親」と感じようとするため、なかなか気づけないのだ)


その、問題の【家庭】について、一代だけ、さかのぼらせてもらえれば…


父は、幼いころ母を亡くした。


運命は残酷にも、この少年が「母を失なった悲しみ」に沈むだけでは許さず「自分の連れ子にしか食事を与えない冷酷な継母の顔色を常にうかがう日々」をも与えた。


父は、この幼少時について、


「辛酸をなめたおかげで人の気持ちが手に取るようにわかる男になった」


と語った。そのうえ、驚異的に弁が立つ父は、立派な?「女たらし」に…。


少しガッシリめの体格に【黒ぶちメガネと輝く笑顔】がトレードマークの父は、転職ばかりしていて金もなく、イケメンでもなかったが、母以外に何人もの恋人(愛人ではない)がいた。


父は、その恋人たちのマンションに「パパの友達だよ!」と言って、よく幼い私を連れていった。(←隠すならまだしも、我が子を連れていくとは!我が子への精神的悪影響を考えられず自分の欲望や感情を優先させている点で、今なら毒親認定まちがいなしである)


なにもわからぬ私が《パパの友だち》について、

「パパってすごいんだよ、友だちがたくさんいるんだ!み~んなキレイな女の人なんだよ!」

と母に語ると、母の目はみるみるつり上がり、いきなり私の首根っこをつかみ、


「今すぐその家に連れていきなさいっ!」


と、すさまじい剣幕ーー。


恋人たちの住まいは、その大半がバスで20分ほどの《隣町》にあった。さっそく母を連れて行くと、ほどなく髪の毛のつかみあいに!


  「このドロボー猫がーっ!」


    「うるせーっ!」


と壮絶な修羅場が繰り広げられた。(←父も父なら母も母で、8歳の子どもへの精神的悪影響よりも自らの感情を優先してしまう点で毒親認定クリアである)


母は、赤ん坊の私のオムツを「汚ないからイヤ!」といって父に取り替えさせたと言っていた。仕事で家にいないシングルマザーの一人娘として育ち、さらに淋しい家庭におさまってしまった母は、いつもイライラ、ピリピリして近寄りがたい存在だった。(←こうなると、子どもは親から安心感を得ることができない)


結局、私が10代のとき、父は母を捨て、あまたいる恋人の1人と再婚。生涯に4回の結婚をした。


また、つねに他の相手と浮気をし、タバコの吸いがらのようにポイと捨てては取っ替え引っ替えしていた。父は晩年、私にこんなことをボソッとつぶやいた。


「俺は人生で2千人ちかい女と関係を持った…でも、少しも幸せではなかった。」


その2年後、父は永眠。


父の背広の内ポケットから1枚の写真が出てきた。


それは、あまりにも古ぼけた、ところどころ欠けた、白黒の、父の母親の顔写真だった。


ずっと持ち歩いていたのだろう…。


父の異常な女性遍歴は、幼いころ死に別れた母の幻影を追い求める代償行為としての悲しい人間の性(さが)のようにも思えてならない。


長々と書いてしまったが、結局、父も母も、自分の愛情飢餓感でいっぱいいっぱいの状態であり、子どもからすれば【心の拠り所】にはなりえなかったのだ!


つまり物質的には、親としての責任を果たしてくれていたが、精神的には


 親として機能していなかった。


愛情に飢えた空っぽのコップである父母のもと、当然ながら、私のコップも空っぽで、まさにコップを満たそうとする【代償行為】として、《フィンガー5》という一つの虚構の【家族】を必要とした…今はそんなふうにとらえている。
 

最新の心理学を当てはめれば空っぽのコップとは【愛着障害】(←【なにか】の正体)となろう。


さて、フィンガー5に熱をあげていた日々が続いたある日、ついに、私にも、

  

  友達ができた!


同じ団地に住む、一つ上の学年の、無口で、少し暗い感じの少年。


生まれてはじめてできた、

   友達!


もうブラウン管の中とはちがうのだ!


うれしくて、毎日、「遊ぼう?」と声をかけた。


ある日、その少年の母親から、私の母に苦情が入った。


『毎日くるので、うちの息子が “気持ち悪くなっちゃった” って。だから、もう、来ないで欲しい』という。

     気持ち悪い?


そりゃ~毎日来られたら、そうなるよな~、と、今なら、その気持ちもわかるが、当時は意味不明。


もしかすると、私にとっては友だちさえ自分自身の【空っぽのコップ】をみたすための手段(代償行為)に過ぎなかったのだろうか?対象が《テレビ》から《生身の人間》にすり変わっただけの話?それが相手に伝わったからこそ息がつまってしまったのではないか?と振り返る自分がいる。


相変わらず、父は恋人たちの家を転々とし、母は険しい表情で、黙々と家事をし、私は団地の部屋で、なるべく母に近寄らないように、また、外出するようにしていた。


外出といっても、あの《友だち》の家を訪ねるしかなかった。後日、驚いたことに拒否した本人から誘ってきたのだが約束をしてもいつも破られた。


生まれてはじめてできた、たった1人の友だちだったから嬉しく、それだけに悲しく、学校でも家にいても、


どうしたらあの友だちは僕と遊んでくれるのだろう?


ということしか考えられなくなってしまっていた。(←執着依存状態)


そんな日々のなか、私は小学校3年に進級。

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昭和の授業風景


新たな担任は、新人の女性の先生。


その先生は、丸顔でぽっちゃりして、全体的に、どこもかしこも丸っこかった。


生徒の人気を集めるような陽気でフレンドリーなタイプではない。


その先生の最大の特徴は、


    物静か


ということである。若いわりに、堂々とした物腰で、振る舞いに迷いがなく、つねに冷静沈着。 


その先生の体からは、エネルギーというか《生命力》みたいなものが発散していて、近くにいると、温かなものに大きく包まれたようで、とても安心したものだ。(他の人からこうしたことを感じたことはない)


私は、多くの子どもたちと同じように、その先生から、よく頭を抱きしめられ「よしよし、頑張った、頑張った~」とほめられた。


それは、実に奇妙な体験で、言葉で表現するのはむずかしい。


あえて言葉にすれば…


それは、心の奥の「鉄の箱」に閉じ込めた《母に愛されたくてすすり泣く本当の自分》に温かいレーザー光線を照射されている感覚といえばよいか…


これは、私の生涯の中で最も強烈で最も深く最も魂に刻まれた体験である。


どういう作用が働いたのかわからないが、私は、日に日に元気になっていった。


教室の隅でうつむいていた私が、「ここ、読んでくれる人いる?」と先生がいえば、誰より速く「ハイっ!」と手をあげるように。


はじめは、自分の変化にまったく気づかず、クラスメートから、「今までおとなしかったのに、あの先生にかわってから、おまえ変わったよな?」と指摘されたものだ。


気づけば、クラス内で1人、2人、3人と自然に友だちができていた!


学校から帰ると、ランドセルを放り投げ、一目散に家を飛び出す日々。


友だちと数人で、少し地域から離れた場所にある「ひさご屋」という小さな駄菓子屋に集合!


店の奥の薄暗い部屋には丸いテーブルと椅子があり、テーブルの上の鉄板で水でといた小麦粉を焼く《お焼き》が1人たったの20円!


こんがり焼き上がった《お焼き》にソースやしょうゆをかけて食べると、とっても香ばしい!


あるときは、8人くらいの仲間で、公園で缶蹴りをしたり、自転車で4駅くらいの遠乗りをしたり、空が暗くなるまで走り回った!


もう、あの《約束をやぶる友だち》のことで、思いわずらうこともなかった。


特定の誰かに【執着依存】しない自分になっていたのだ!


心はのびのびと開放され、小さな身体はパワーにあふれ、しょっちゅう、取っ組み合いのケンカをするほど元気な少年に!


以前の私からは想像もつかない《変容》である。


ついには、学校に行くのが楽しく、学校が終わっても楽しく、生きていることが楽しくなった!


では、なにが私を変えたのか?


おそらく、先生の持っている生命力?慈愛?それらが、渾然一体となったようなもの、それを今、とりあえずSomethingと呼ぶとして、そのSomething が、私に《伝染》したのだと感じる。


結局、【愛する気持ち】がイコール「真の愛情」(←Something)かといえば、それはちがう。


【相手より自分が優先】という人、愛情に飢えた人、Somethingが入っていない空っぽのコップの人は、どんなに「私はこの人を愛している!」と思っていても、


  愛することになっていない。


なぜなら、愛情に満たされていないと、どうしても相手を、自分の「淋しさ」や「心の傷」や「欲望」をなんとかしようとする手段(利用)にせざるを得ないから。


たとえば、「この人が愛おしい!」と思っていても、その「愛おしい」理由が実は「そばにいてくれて私の淋しさを癒してくれるから」ということなら、利用であり、愛情ではない。これは無意識であるだけに、自分ではなかなか気づけない。


だから、空っぽのコップの人は、【意識】では「私はこの人をとても愛している」と思って、相手を慈しむ行動をしていても、肝心の相手のほうでは、「愛に満たされた感」がなく、なぜか息がつまってしまう。


それは愛ではなく利用であり【執着依存】だから。


これが理解出来ないと、 


「こんなに愛しているのに、なぜわからない?私の愛って重すぎる?」


という【勘違い】を繰り返す事になる。


愛なんかではないのに。


ひるがえって、「自分より相手が優先」の人、つまり愛情に満たされ、Somethingで満たされたコップの人は、極端にいえば、


ただ一緒にいるだけで、相手をSomethingで満たすことができる。


満たされた相手は、依存や執着の心が消え、根本から安心感に満たされ、生きる力にみなぎる。これが【満たされた証拠】だ!


これは、親子か他人かはあまり関係ない。


魂と魂の触発の問題である。


ただし、親子の場合、空っぽのコップから空っぽのコップへと愛情飢餓感が連綿と子孫代々続き(←これが私)、Somethingで満たされた親のコップは子のコップへ子のコップから孫のコップへSomethingが注がれ【プラスの連鎖】が続く。


つまり、先生はSomethingで満たされたコップだったのだと思う。


そして先生はそのSomethingを私という空っぽのコップに少しだけ注いでくれたのだ、いや、自然に伝染したのだ!これこそが、私の理屈ぬきの【体感】だ!


これは、奇しくも、父が生涯をかけて求めて得られなかった【愛情飢餓感が満たされた実感】だと私はとらえている。


もとより、父の愛情飢餓感は、私のそれとは比較にならないものではあるのだが…。


さて、その先生ともお別れのときがやってきた。


我が家は地方に引っ越すことになり、私はわづか5年を過ごした「わたしの町」をあとにした。


新天地は、「わたしの町」とは真逆の、美しい青空が広がる、空気のおいしい、自然豊かな別世界!


先生から「生きる力」をもらった私は、未知の未来への淡い希望に胸ふくらませ出発進行~!


だが、待っていたのは、まるで、私の獲得した【生きる力】を試すかのような試練だった…


「東京から来た気取ったヤツ」とのレッテルをはられ、ことあるごとに「気取りやがって!」と吐き捨てられ、休み時間には、プロレスの技をかける道具にされた。


これは、肌で感じたことだが、この地に引っ越してきた昭和50年あたりから、なんとなく教室内が、いや、日本社会全体が変わったような気がする。


昭和40年代は、クラスのコワモテやちょいワルが、弱い者いじめをしようとすると、必ず《正義の味方》みたいな生徒がいて、「おまえらヤメろ!」と立ちはだかり、他の生徒らも「そうだ、そうだ、ヤメろよ!」と《正義の味方》を応援する場面がよく見られた。


ところが昭和50年あたりをを境に、《正義の味方》はダサく《ワル》はカッコいいという風潮になり、コワモテやちょいワルが幅をきかせはじめ、生徒らも彼らに迎合する場面が増え、傍観者=共犯者になることが増えた。


これらが示しているのは、価値観が多様化しはじめるとともに《正義》が古い概念として葬り去られた、ということである。そして、これ以降、日本は、どんどん金、金、金の拝金主義の方向へ「心の荒廃」の世相へまっしぐらに突入していった、というのが私の肌感覚である。


イジメは、


 人として扱われなくなる


ということ。


すれ違えば、面白半分に体にツバを吐かれたり、なにもしてないのに、いきなり背中を笑いながら蹴られたりするようになるのだ!


そして、一番恐ろしいことは、【大人】であり【教育者】である教師たちが、いじめの現場を目撃しながら、いじめる側と一緒にせせら笑ったことだ!


宿題を何回か忘れたある日、みんなの前で担任の教師は憎々しげに私に言った。


 “おまえなんか、生きる価値がない”


この日をさかいに、担任教師から正式な「お墨付き」でももらったかのように、生徒らのいじめはさらにエスカレートしていった。


空はどこまでも青く晴れわたり、緑あふれる丘のうえを小鳥たちが楽しそうに舞う…。


この美しき天地で私の心は壊された。


イジメは私の心を壊したが、私から【生きる力】を奪うことだけは出来なかった。私は息も絶え絶えに消え入りそうになっている自らの【生きる力】に向かって必死でフゥーッフゥーッと息を吹きかけながら歩んできた。


あれから50年……様々な地に移り住んだ。様々な仕事をし、様々な人に出会い、いろいろなことがあった。やり残したことはなく、人生に未練はない。


そして、今、疲れたとき、唯一の故郷である《この町》をひとりで訪れる。


「ただいま~」と帰る実家もなければ「ひさしぶり~」と顔を出せる知り合いもないし、この町が私になにかしてくれたわけでもない。


それでも私は、あの時代、あの先生、あの自分が確かに刻まれた《この町》におり立つ…


ふと見上げれば、目にうつるのは、すすけて、うす汚れた、《曇り空》


それは、50年前に、私が見た、空の色だった。


《曇り空》をあおぎ見ながら一歩…また一歩、と歩みを運ぶごとに、心が50年前にタイムスリップしてゆく…


そして、まだ、【心】が生きていた、あの遠い日に立ち返ろうと、もがく。


そして、明日に向かって、もう1回だけ、やってみよう!と自らをふるい立たせるのだ!


幼少の心の傷やイジメがどれだけ人の心をむしばむか...そして、Somethingで満たされることがどんなに幸せで、その記憶だけで、どれほど生きるよすがとなるか…


それを「わたしの町」は教えてくれる。




























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