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わたしの町

今日も、ここに来てしまった…


この町にあるのは、ひたすら団地と工場…


工場の煙突から出る煙で、すすけて、うす汚れた《曇り空》がしっくりくる、そんな町…


でも…そんな町が、胸がしめつけられるほど好きだ。


時は高度経済成長期…空前の「団地ブーム」に乗った両親はこの町の団地に移り住んだ。


友だちがいなかった私は、

  《テレビ》が友達だった。


「仮面ライダー」をみれば仮面ライダーになりきり、自転車をサイクロン号に見立て、このさびれた町を颯爽と走った!

「太陽にほえろ!」の《ジーパン刑事》に憧れれば今度は薄青いジーンズをはき、「ジーパン刑事」になりきって殺風景な曇り空の町をおもいっきり駆けぬける!


でも、私のこの「1人遊び」は《自分の世界》を持っているのではなく《他者》とつながれないだけ...


そんな「1人遊び」の日々に、突如、まぶしいほどの輝きを放って現れたのが、

  『フィンガー5』だった!


またもブラウン管の中(笑)


沖縄出身の5人兄弟ユニットでみんな仲良しで、楽しそうで、優しそう!


四六時中彼らのことが頭から離れなかった!


いや、血を分けた本当の兄弟になりたかった!


だが、それは、こんなブラウン管の中の存在に「血を分けた本当の兄弟になりたい!」とまで渇望せざるをえないほど「淋しさ」をかかえていたということを意味していた。


そして、その「淋しさ」の原因は、《友だちがいない》ことよりも、むしろ家庭環境にあった。


父は幼くして母を亡くした。運命は残酷にも、この少年が「母を失なった悲しみ」に沈むだけでは許さず「冷酷な継母の顔色を常にうかがう地獄の日々」をも与えた。


父いわく、「辛酸をなめたおかげで人の気持ちが手に取るようにわかるようになった」と。加えて、驚異的なまでに弁が立つ父は、立派な?「女たらし」に成長。


イケメンでもなければ金もない。【黒ぶちメガネと輝く笑顔】しか特徴のない父であったが、母以外に何人もの恋人(愛人ではない)がいた。


父は、よく幼い私をその恋人たちのマンションに「パパの友達だよ」と言って連れていった。(これは親がやってはならぬこと!)


なにもわからぬ私がそれを母に話すと、母は激怒して私の首根っこをつかみ、「今すぐその家に連れていきなさいっ!」と怒鳴った。


恋人たちの住まいはほとんどが隣町にあったので、場所を覚えていた私が母を連れていくと、早速、髪の毛のつかみあいになり、「このドロボー猫がーっ!」「うるせーっ!」と壮絶な修羅場が繰り広げられた。


ほぼ両親のいない淋しい家庭に育った末、さらに淋しい家庭におさまってしまった母は、浮気ばかりする夫への怒りからか、いつもイライラ、ピリピリしていて近寄りがたいコワい存在だった。


結局、私が10代のとき、父は母を捨て、若い女性と再婚。生涯に4回の結婚をした。また、つねに複数の相手と浮気をしていた。父は晩年、私にこうつぶやいた。


「俺は今までの人生で2千人ちかい女と関係を持った…でも、少しも幸せではなかった。」


この言葉を発してから2年後に、父は生涯の幕を閉じた。


父の背広の内ポケットから1枚の写真が出てきた。


それは、ところどころ欠けた、白黒の、父の母親の顔写真であった。


ずっと持ち歩いていたのだろう…。父の常軌を逸した女性遍歴は、幼いころ死に別れた母の幻影を追い求めた代償行為としての悲しい人間の性(さが)のようにも思えてならない。


だが、母をはじめ多くの女性に苦しみを与えた父を許す気持ちはない。かといって憎しみもない。ただ、哀れみとともに「人生の反面教師」として位置づけてきた。


愛情に飢えた空っぽのコップである父母のもと、当然ながら、私のコップも空っぽで、まさにコップを満たそうとする【代償行為】として、フィンガー5という一つの虚構のファミリーを必要としたのだと思う。
 

フィンガー5に熱をあげていた日々が過ぎたある日、ついに、私にも、

   友達ができた!


同じ団地に住む、一つ上の学年の、無口で、少し暗い感じの少年。


その少年の薄暗い部屋でよく将棋をしたり、算数の問題を「これ、やってごらん」などと言って出題してくるので、やりたくないのに我慢して解いたことも懐かしい。


生まれてはじめてできた、

      友達!!


もうブラウン管の中ではないのだ!


うれしくて、毎日、「遊ぼう?」と声をかけた。


ある日、その少年の母親から、私の母に苦情が入った。


『毎日くるので、うちの息子が “気持ち悪くなっちゃった” って。だから、もう、来ないで欲しい』という。

     気持ち悪い?


今なら、その気持ちは痛いほどわかるが、当時は意味がわからない。


数日後、断った本人から遊びに誘ってきたが、子どもならではの「気まぐれ」だった。結局その後も、約束を破られることが何度も続いた。


どこかで、子どもの世界なんて、こんなアバウトなものなのかも知れないとも感じていた。


あるいは、私にとっては友だちさえ自分自身の「淋しさ」(空っぽのコップ)をみたすための手段(代償行為)に過ぎなかったのだろうか?それが相手に伝わったからこそ息がつまってしまったのではないか?と振り返る自分もいる。


いや、まだ8歳の子どもには酷な分析だ。


相変わらず、父は恋人たちの家を転々とし、母は険しい表情で、黙々と家事をしていた。私は家の中で、なるべく近寄らないようにしていた。


私も相変わらず、約束の日に友だちの家に行った。お母さんが玄関から出てきて無表情で告げる。


「あれ、さっき友だちと遊びにいったよ」


やっぱりなぁ…。


 そんなに僕と遊びたくないの?


生まれてはじめてできた、たった1人の友だちが嬉しかっただけに、とても残念で、《テレビが友だち》だった頃より孤独を感じた。


学校では外界と自分のあいだにバリアがあるように感じられ、なぜか自分が「透明人間」になったようでもあった。

そんな日々のなか、私は小学校3年に進級。

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昭和の授業風景


新たな担任は、新人の女性の先生。


その新しい先生は、丸顔でぽっちゃりして、全体的に、どこもかしこも丸っこかった。


生徒の人気を集めるような陽気でフレンドリーな教師ではなかった。


物静かで、若いわりに、どっしりとした物腰で、振る舞いに迷いがなく、突発的な出来事にも、つねに冷静沈着な先生だった。 


教室内で男子生徒がケンカをはじめても、先生は黙ってじっと見つめていて、ある程度エネルギーと感情を発散させた頃合いを見て「ハイ、やめっ!」と一喝。すると、クラスで一番やんちゃな生徒もピタッとやめるのである。


一つ言えば、先生の体全体から発するパワーというか、エネルギーというか、とてつもない《生命力》みたいなものがあった。


近くに寄ると、母性?(としか表現しようがないが)、そういう、なにか、力強い温かなものに包まれているような感覚になり、とても安心したのを覚えている。


私は、先生から、よく頭を抱きしめられ「よしよし、頑張った、頑張った~」とほめられた。


どういう作用が働いたのかわからないが、私は、日に日に元気になっていった。


教室の隅でうつむいていた私が、「ここ、読んでくれる人いる?」と先生がいえば、誰より速く「ハイっ!」と手をあげるように。


当時は、自分の変化に気づかず、ある生徒から、「今までおとなしかったのに、あの先生にかわってから、おまえ変わったよな?」と指摘されても「そうかな?」と首をかしげた。


気づけば、クラス内で1人、2人、と自然に友だちができていたのである!


学校から帰ると、ランドセルを放り投げ、一目散に家を飛び出す日々。


友だちと数人で、少し地域から離れた場所にある「ひさご屋」という小さな駄菓子屋に集合!

薄暗い店の奥には丸いテーブルと椅子があり、テーブルの上の鉄板で水でといた小麦粉を焼く《お焼き》が1人たったの20円!

焼き上がった《お焼き》にソースやしょうゆをかけて食べると、とっても香ばしい!

小学生だけのささやかな「外食」は、ちょっとした大人気分を味わうことができた。


あるときは、8人くらいの仲間で、缶蹴りとか自転車での4駅くらいの遠乗りとか、空が暗くなるまで走り回った!


もう、あの《約束をやぶる友だち》のことで、思い悩むこともなくなっていた。いや、もう、特定の誰かに「執着依存」することから自由になっていたといえる。


いつしか、しょっちゅう、取っ組み合いのケンカをするほど元気な少年に!


以前の私からは想像もつかない《変容》である。


ついには、クラスの人気者(もどき)になり、学校に行くのが楽しく、学校が終わっても楽しく、生きていることが楽しくなった!


すべて先生のおかげである。


しかし、先生が、なにかをしてくれたわけではない。面倒見がよいわけでもない。誰に対しても平等に接する先生だったので、私が先生から「ひいき」されたこともない。


振り返ってみても、とくに優しかった印象もない。とにかく《普通》…


では、なにが私を変えたのか?


おそらく、先生の持っているエネルギーというか生命力というか、慈愛というか、それらが、渾然一体となったようなもの、それを今、とりあえず、Somethingと呼ぶとして、そのSomething が、私に《伝染》したのだと感じる。


結局、「愛情」は、なにかをしてあげて満たせるものではないと思う。Somethingのない空っぽのコップの人は、相手にどんなに優しくしても、面倒を見ても、その相手を満たすことはできない。なぜなら「空っぽのコップ」だから、一生懸命に相手のコップを満たそうとしても一滴も注ぐものがないのだ。

逆に、Somethingで満たされたコップの人は、極論すれば、相手に何もしなくても、ただ一緒にいるだけで、相手をSomethingで満たすことができる。

これは、親子か他人かは関係ない。


魂と魂の触発の問題である。


ただ、親子の場合、空っぽのコップから空っぽのコップへと愛情飢餓感が連綿と子孫代々続き、Somethingで満たされたコップは逆に【プラスの連鎖】が続く。


つまり、先生はSomethingで満たされたコップだったのだと思う。そして先生はそれを私という空っぽのコップに少しだけ注いでくれたのだ……これが、いつわらざる《実感》なのだ。いや《体感》なのだ。


その先生ともお別れのときがやってきた。


我が家は地方に引っ越すことに。


引っ越し先は、まさに《故郷》というイメージにピッタリの自然豊かな新天地だった。


しかし、《転校生》というものは、地方の人にとってはある意味「よそ者」という側面があり、イジメの格好の標的になりやすい。


私もご多分にもれず《標的》になった。


「東京からきた気取ったヤツ」とのレッテルをはられ、ことあるごとに「気取りやがって!」と吐き捨てられ、休み時間には、プロレスの技をかける道具にされた。


これは、肌で感じたことだが、この地に引っ越してきた昭和50年あたりから、なんとなく教室内が、いや、日本社会全体が変わったような気がする。


昭和40年代は、クラスのコワモテやちょいワルが、誰かをいじめようとしても、必ず《正義の味方》みたいな生徒がいて、「おまえらヤメろ!」と立ちはだかり、他の生徒らも「そうだ、そうだ、ヤメろよ!」と《正義の味方》を応援する場面がよく見られた。


ところが昭和50年を境に、《正義の味方》はダサいという風潮になりはじめ、コワモテやちょいワルが幅をきかせるようになり、他の生徒らも彼らに迎合したり、媚びたりする場面が増えていったように感じる。


彼らが誰かをいじめようとしても、誰も止めに入る者はいなくなり、その他おおぜいは、傍観者=共犯者になることが増えた。


テレビのお笑い番組などにも変化を感じた。
それまで「8時だよ!全員集合」などでは、コワモテで威張り散らす役の「いかりや長介」に逆らったり、茶化したりすることを笑いにしていた。それは、チャップリンの「独裁者」にも少し通じる笑いであった。

だが、昭和50年以降、先輩芸人が新人の芸人を熱湯風呂に入れて熱がって悲鳴をあげているところを笑いにしたり、【上が下をいじめる】サディスティックで醜悪でヘドが出るような笑いが増えていった。


これらが示しているのは、価値観が多様化しはじめるとともに《正義》が古い概念として葬り去られた、ということであり、単純で活力のある真っ直ぐな時代が終わったということでもある。そして、これ以降、日本は、どんどん金、金、金の拝金主義の方向へ「心の荒廃」の世相へまっしぐらに突入していった、というのが私の肌感覚である。


なので、あのまま、「わたしの町」にとどまっていたとしてもいじめられていたかも知れない。まあ、「タラ、レバ、」の話になってしまうが…。


イジメというと曖昧模糊としているが、一言で言えば「尊厳をぶち壊される」ということだ!


人はそれをされると、『自分なんか生きる価値がない』と感じるようになってしまい、何事に対しても意欲や希望を持てなくなってしまう。


自分なんか生きる価値がないと感じると、身だしなみなども、どうでもよくなってしまうし、風呂にもあまり入らなくなってしまう。もちろん勉強への意欲もなくなり、宿題もやらなくなる。


すると、ますますクラスメイトからバカにされ、見下され、ないがしろにされる。


そうして、クラスメイトも、しだいに「人間」として見なくなる!イジメの本当の怖さはここにある。


事の始まりは、心を病んだ「イジメの中心者」がいて、標的をきめる。そして親しみを込めて少しずつイジってくる。


親しみを込めたジョークだから、こちらも笑って受け流す。


そうして、イジメの中心者はそのイジリを少しずつエスカレートさせていき、気づけば、結構エグいことをされている自分がいる...時すでに遅しだ。


そうなると、クラスメイトの全員が、イジメの中心者を恐れ、媚びて、一緒になって《標的》をバカにし、けなす。


これがどれほどみじめで悲しいことか...


完全に孤立無援に追い込まれた《標的》はそうして、少しずつ心を壊されていく。


最終的には、もう、同じ人間とは見てもらえないという状況のなかで1人生きていかねばならない。


すれ違えば、面白半分に体にツバを吐かれたりする。なにもしてないのに、いきなり背中を笑いながら蹴られたりするようになるのだ!


そのうえ、いじめを注意する教師は皆無であった。いや、それどころか宿題を何回か忘れたある日、みんなの前で担任の教師は私にこう言い放った


 “おまえなんか、生きる価値がない”


この日をさかいに、教師から正式な「お墨付き」でももらったかのように、生徒らのいじめがエスカレートしたのだ!


私はこの地で心を壊された。壊された心はもう二度と元通りにはならない。


だから、イジメは許してはならない。


それは、「戦争」や「差別」を許してはならないのと同じ《公憤》なのだ。《私憤》《私怨》から昇華させるのである!


「戦争」や「差別」や「イジメ」という「人間の尊厳への冒涜」を許すことは、「寛容」などではない。まぎれもなく「偽善」であり「共犯」である。


日本人はどうもこうした「偽善者」を「寛大な人格者」とみてしまう傾向があるように思えてならない。


生まれてから、さまざまな経験をし、せっかく生まれてきたのだから、と古今東西の思想哲学や一流の文学、名作映画なども、自分なりに求めた。やり残したことはなく、人生に未練はない。


そんな、実に様々な体験をした60年ちかい人生で、最も戻りたい日々は、


 「わたしの町」で暮らした日々


である。なぜなら、


まだ心も壊れてなく、空っぽのコップが満たされた感覚を味わったからだ。


50年を経た今も、生きることに疲れたとき、この人生の原点の町をひとりで訪れる。


といっても「ただいま~」と帰る家も「ひさしぶり~」と顔を出せる知り合いもいない。


町そのものがなにかをしてくれたわけでもない。


それでも、昭和の面影が残るこの町におり立つ……それからこの町の空気を胸いっぱいに吸い込む……そして、この町の景色を、まぶたに焼きつけるようにして、ゆっくりと、歩みを運ぶ。


一歩、一歩と、ひび割れだらけのアスファルトを踏みしめるごとに、心が50年前にタイムスリップしてゆく...


そして、まだ、【心】が生きていた、あの、はるか遠い日に立ち返ろうと、もがくのだ。


イジメがどれほど人の心をむしばむか...そして、Somethingで満たされることがどれほど幸せで、その記憶がどれほど生きるよすがとなるか…


それを「わたしの町」は教えてくれる。




























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