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退学届をかいた。高校編、大学入学編 回想


中退を決意した。


高校の頃、無我夢中で受験をしていた日々を思い出した。





中学は不登校で、勉強どころじゃなかった。
高校は卒業資格を得る為の最低限のカリキュラムが組まれていたので、
勉強はあまりしてこなかった。
それと同時に、精神の病気が重なり、学園生活らしいことは今ひとつできなかったな。
部活に入ったり。



模試は1度受けたが、漢文、古文、全然知らなかったので、偏差値はとても低かった。

親の剣幕は凄まじかった。
いきたい大学に行くために、というより、中堅以上の大学に行く親の期待に応えて、
自分のやりたい進路については未熟なまま受験戦争をした。
反抗期がなく、親に褒めてもらいたかった。

元々勉強は好きな方だった。
初めて触れる日本の歴史、古美術、
文学、数学、英語どれも面白かった。
中でも塾の先生がとてもいい人で
ほんの短期間で、英語検定を2回も取れた。

酷い先生もいた。哲学が好きで、若い男の先生だが、親と絶縁していて、情緒不安定で、八つ当たりしてくる。
知識で抑圧してくる、
そういう人には我慢我慢だった。


高校に親が怒鳴り込むこともあった。
半年間、今まで書いたことのない小論文を書いてはボツ、書いてはボツ。
10000枚くらい書いたんじゃないか笑
心の余裕も何もなかった。
恋人も友達もいないし、家族はいつもピリピリしている。

そして、見事、受験合格。
成績は真面目なタイプだったので、よかった。
それもあって合格したと思う。


ただ、合格してから、一気に嫌になった。
とてもとても違和感があった。
一人で泣くのは久しぶりだった。
この10年間も、ずっと静かで、感情も荒立てず、ニコニコしていたからである。

入学

入学式は、桜がぽつりぽつりと咲いていた。
花咲ジジイが探した真紅の海の様で綺麗だった。
スーツに着替え、入学式という初めて人間らしい事をしたのは何年ぶりだろう!!
と心躍った。
遂に俺にも春が来た!と喜んだ。
ジジババは祝福してくれ、親戚の普段会わないおっさんまで、私の前に現れた。
こんなに、人から喜ばれることがなかった。



晴れて1年生ということで、都内まで、電車を使って大学に行った。この頃は、全てが燦然と輝いている様に思ってしまった。

何もかも柿落としのように人も、街も、新しく初々しいと思っていた。
しかし、そんな事はなかった。
もう皆んな、Twitterで繋がっていたのである。
殆ど、高校時代まで外部の情報が無かった私は何も知らなかったが、
今の若者のコミュニケーションツールは、ぶっちゃけTwitterや Instagramだったのだ。
 もう、親の世代の友人関係とは訳が違うのだ。

親はTwitterで上部だけ繋がっても意味はないと叱ったが、そんな訳なかった。

 ただ、そういうものに私自身があまり価値を感じなかったのも事実だ。

でも、それ以外で繋がる、
多様性なんてなかったのだ。
Twitterでうまく友人を作ってどうにか人脈を増やすのが吉の世界だった。

私はそこで、カルチャーショックを受けた。

そんなんで、教室で一人心細くしていた頃、
私に話しかけた同じ学科の生徒がいた。
メガネで、そいつと一緒にカリキュラムを決め、色々なことを教えてくれ、感謝した。
大学は本当に人脈はないと何もできない。
必須のカリキュラムや、課題さえもなぜか友人づてに知る。


 私は、ずっと人との付き合いが分からずただ、笑みを浮かべているだけだった。
バカだった。クソクソクソクソ。

背伸びして大学生らしい服をきて、世間体を気にして、波に乗ろうとする。
きもちわるい
 自分が何なのか、それは本当に自分が間違っているのか、分からないまま、
初日が終わった。


登場人物

A いつもニコニコしている。大学生らしいGUで買っていると言うコーデ。髪型もThe大学生という感じ。とにかく笑うことしかしない。

B 天然で、いつも居眠りをしていた。悪いやつじゃなくマイペース、いきなりえしりとりをはじめたり。

C オタク気質、多趣味、誰でもいいから友達が欲しかったのが、私だった。Aと本当は2人で仲良くなりたい感じ。

私 流れにまかせて、主張するのを過度に怖がる。ノリに乗れない。
周りに影響されて、
友達を見つけようと必死こく。


それから、クソの寄せ集めみたいに、SNSでうまく繋がれず、それに不安だった2人が話しかけてきて、
二人で、同じ学科同士、まぁ、何となく群れることになった。
Bを除いて、"誰でもいいから繋がっていたい"様だった。
それから心理学の授業でAがいたので話しかけた。
そこからLINE交換となった。

授業は、まぁ、普通だった。難しくないし、簡単でもない。

ただ、特に悩んでいたのは人間関係。
Aは、とにかく、陽キャの中に入りたい感じがあった。せかせかしていた。
よく笑う人で、私が気を遣ってご機嫌をとるため、笑わせようとしたのに全て笑う人だった。
私は勘違いをしていた

それは、Aは本当に楽しくて笑っているんだ。
しかしそうではなかった。
本当は、ドライな世界。それが人間だった。
しかし私は人についての表面的な部分しか見ていなかった。


英語の授業の時だった。
そのクラスはAと被った。
なので話をする様になった。
私は気を使い、気を使い、気を使い、ケタケタと思いたくない悪口や小言を言っていた。
それについてAがバカ笑いする。


その後、私はなぜか体調が徐々に悪くなり、英語のクラスを2回くらい休んだ。
それは、英語の宿題もであった。
ある生徒の英語スピーチに自由にコメントをつけるという、辛いものだった。
友達のいない私はコメントがつかないからハラハラ。
Aと八百長の様に繋がった関係。
Aも世間体を気にしてコメントを私に送る。
でも、バカかもしれないが、
私自身のコメントがなくても、他の人にコメントをしていた。
そんな関係、嫌だったのだ。


いつもいつもグループワーク、
あがり症で、プレゼンなどをしたことない私は
毎日ある、プレゼンで、憔悴しきった。
いつも下痢、嘔吐だった。下痢下痢、

グループワークでは、まともに話せず、
話しても、他の生徒は、手を抜いて楽していて、友達とサボっている。
そんな中、私だけ、情熱的に喋って空気が読めないと言われる。


何となく、シビアで見た目や話し方で排除される日々。
冷たい日々。

この時は、とてもいらついた、しかし、
サボることは時に大事だと今となっては思う。

父は挨拶が足りていないと言った。
素直、真面目、優しさ、
挨拶をすれば、笑顔になって話せば、全て解決するんだ。と、

しかしそれでは解決しなかった。
挨拶しても笑顔でいても、そんなものは通用しなかった。

ヒーローの様な父の友達作り講座では、もう現代では通用しない。
何より大事なのは、スッと軽いコミュニティーがいかに円滑にできるかという事だと思った。


その後、私は単位不足では行けないとクラスに戻って、何気なく、挨拶をAにした。
それが無視となって帰ってきた。

もうその子は別の友達を見つけていたのだ。
関係成就。

これについては、ショックだった。
徐々に、今まで触れ合えなかった人間の生身のリアルを思い知った。

なぜかいつも授業がA.B.Cとかぶる。
気持ちが悪かった。そんなに仲良くないのに、カリキュラムを見られて同じにされた。
4人とも無理している感半端なかった。
昼メシも無言。
まるで拷問。

よくあるアニメの様に、個性的な変わった4人が学園生活を席巻していく話があるが、リアルは違う。

それぞれ自我の形成ができず、自分が正しいと思い込み、やり方を知らず、崖に落とされた小ライオンだった。
そこにあるのは、思春期の若者のいたりだけだ。



私は一人が好きだ、一人が好きというより、気の合ったやつだけと付き合えれば満点だった。
しかし、それを言う勇気も言い方も、何もかも知らず、
友達幻想という洗脳に飲み込まれてしまったのであった。
そして自分も弱かった。
そういう自分と、人を利用して安心したい自分がいた。



Cについては、成績は優秀だった。堅物キャラとして、グループワークではぶっちぎりの面白さと曲がらなさでやっていた。

しかし、徐々にこの仲良し4人組にも亀裂が入る。
Cがだんだん私とBをバカにし始めてAをえこひいきし始めた。
Cは私とBの言葉を正確に否定する様になった。どんなことでも。


それが私には目に見えてわかった。
Cは無意識だ。しかし、見た目やメイク、髪型についての憧憬をAにあるようで、
次第にメイクの話、Aを褒める話ばかり始めた。
Aは、それについて、顔に汗マークと言う感じで、苦笑い。
AはCについてあまり相手にしていないのが一目瞭然で、Cの一方的な一目惚れだった。
サークルを同じにして、半ストーカー。
サークル体験にAに強引について行く。

一方私は、誰も付いてこなかった。
これには悲しかった。
しかし、私もオロオロするばかり。
情けない。


コンプレックスがみんなあって痛いほど傷つけあっていた。

それなのに、群れたがる。
なんだかんだ、一緒にいたがる。
授業の席、隣にいたがる。
いや、痛がる。



私はこんなところから逃げ出したかった。
こんなの、くだらないじゃないか!
楽しくもないのに、友達?それならボッチ確定だ👍
それから皆んなと距離を置く様になった。


それは、これまで小学時代、場面緘黙症で、中学時代は部活での事による不登校、
高校で誰とも会わなかった、

人間とまともな関係を持たなかった私の初めてのウソだった。

レポートの期限が迫ってるから、
サークルの用事があるから、


そしてどんどん避けて行った。
私は結果一人になった。




午後3時くらい、ドイツ語クラスに行くと、授業前、知らない女達が談笑していた。
A「ボッチでかわいそうだね」
「よーし僕がたすけてあげよう」
B 「えーん、えーん、ありがとー」

それを私は一人で席に座って聞いていた。

ぼっちは悲しい存在だったのだ。

彼らの中では。


しかし、私はこの経験を通して、苦しいながら友人関係を続けるのか、
ボッチになって自由になるのか、

私は後者をえらんだ。
ぼっちで何が悪いんだ。
どっちが悲しいんだ。

ぼっちになってから、一人で近くのラーメン屋で昼飯をくったり、
中華屋に入って、頭のおかしい女店員に睨まれたり(自分の注文の声が小さかったらしい)。
だからなんだ!
空きコマがある日は近くの公園にも行った。
そこで時間を潰した。
もちろん一人で。でも、いつも、自分がいた。
寂しいけど、嘘よりは寂しくなかった。

公園で昼飯を食ってる時、ふと辺りを見回すと、作業着を着たおっさん、スーツを着たおっさん、皆んな一人だった。
昼飯を食っていた。

一人だけど、一人じゃなかったけど一人だった。

それでよかった。

草むらで寝たり、ショーペンハウアー、ドストエフスキー読んだり、トルストイニーチェ読んだり、
自由だった。

この曲が好きで、"復活"を読んだ。
娼婦カチューシャは殺人を犯して、かつての恋人と会う。
恋人の貴族の主人公はかつてカチューシャを弄んだ。
その罪悪感に気づく話だった。
聲の形の様な話だ。

岩波文庫の復活は高かった。
学校帰り寄り道して本屋で復活を見つけた時、小説が千円もすると思わなくて、喫緊したことを覚えてる。


しかし、やっと自由を手に入れた矢先、私は限界を迎えた。



後記

今思うのは、退学を自分で決めてよかったという事だ。
これまで、大学入学は、親のため、親を理由にしていた。
しかし、今回の退学はリスクがあるが、自分で決めた。
不安と言っちゃ不安だ。
でも、これで誰のせいにもしない。これで復学して、体調壊したら親のせいにしてしまう。
それが嫌だった。

何かを自分で決めたかった。精神病の中で自己決断は難苦だが、それでも、自分で決めたかった。
そして、今考えると地獄の様な日々だったが、
自分の事は自分で決めるしかないと思った。
どっちみち地獄だろ。

友達はいなくても良いと思った。
一人、いれば良い。
学校のひとじゃなくてもいい。
自分のマイペースさは周りは責めるかもしれないが、自分を責めないで。
プライベートは自分できめる。


そして、人は人。自分が間違ってる、相手が間違ってるとかじゃない、
そういう団体には距離を置く、
そいつがどう思って、何をしたいかは、そいつの責任。
自分が関わっていなければ、悪いなとか、思わなくてよかった。
Aちゃんにしたみたいに、気を使いすぎなくても良い。

最近、そう考えつつあり、悪夢にうなされたりする時もあるが、
前よりは楽になった。


あと、息抜きは大事。
これは私はまだ習得難しいが、

傷つけない嘘も大事かな。

あと、辛い時は第三者機関に助けてもらうこととかも、今後必要だ。
自分一人ではどうにもならないこともあったからだ。
それでアドバイスが会わなかったからといって身内や周りの人たちを責めたくない。


最後に、よく考えてみると、群れたいという感情は本能的なものだと思う。
つまり、悪気があって人を利用し合おうということではないのだ。
そんな部分はあって当たり前。
仕方がない。

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