鉄器時代のポルトガル(下)ポルトガル南部
00.はしがき
ここでは、ポルトガルの歴史についてお話しした際のメモ書きを公開しています。今回は鉄器時代を扱った部分です。なお、メモ書きは、アンソニー・ディズニー著『ポルトガルとポルトガル帝国の歴史』に基づいて作ってあります(ほぼ翻訳になってしまっていて、反省ですが)。関心のある方は、Anthony Disney, A History of Portugal and the Portuguese Empire(2009)をご覧ください。
なお、「鉄器時代のポルトガル」はおおむね三回の予定しています。
前回までの記事は以下のとおりです。
さて、前回はポルトガル北部では主にケルト人の移住とその社会の様子を確認してきました。今回は、ポルトガル南部の状況を確認していきます。
01.地中海世界とつながり
ポルトガル北部はケルト人が移住するとともに、山岳地帯や丘に形成されたカストロと呼ばれる集落が大きくなり、氏族社会を形成していったと述べました。
同じ時期、すなわち前700年から前550年の間に、ポルトガルの南部はフェニキア人、ギリシア人、アンダルシア、カルタゴなどと関わっていきます。
フェニキア人
フェニキア人は、東地中海沿岸にある現在のレバノンのベイルートやシドン(現在のサイダ)、ティルスなどの都市を中心に地中海世界で活動した人々です。
かれらは、紀元前3000年ごろにはすでに東地中海の交易に携わって、前1400年頃には活動を活発化させていていました。その後、一時的にフェニキア人の活動は衰退しましたが、前1000年ごろから植民を再開し、都市を形成して、交易を独占しました。しかしながら、その後、前800年ごろにはアッシリア王国の支配下に置かれました。
フェニキア人がイベリア半島に関わるようになったのは、前800年ごろからでした。フェニキア人は、原料や市場を求めて、現在のレバノンにあったティルスなどの都市から、恒常的に西地中海を訪れ、アンダルシア南部に交易地群を形成しました。そのうちもっとも有名な都市が、ガデス(カディス)です。ガデスのフェニキア人らは、香料や軟膏、ガラス、宝石、器、家具、オイル、ワインなどを商い、代わりに金属や紫の染料を得ていました。
こうしたなかで、フェニキア人は銀、金、銅、スズなどの鉱物資源を探査するために、ポルトガル南部アルガルヴェ地方沿岸にやってきました。しかしながら、フェニキア人は現在のポルトガルと呼ばれる地域に定住することはなかったようです。このため、フェニキア人は商品の流通などを通じて、間接的にポルトガルにオリエントの文化を運んだと評価されます。
ギリシア人
現在のポルトガルの地は、フェニキア人だけでなく、ギリシア人にも知られるようになっていました。ギリシア人も地中海の北側で広く交易を行うだけでなく、各地に植民し、植民都市を作っていました。
鉄器時代のポルトガル人もまたギリシア人と恒常的に交易を行っていたようです。ギリシアの商品はポルトガルに至っています。アテネ風のうつわ、そしてギリシアの青銅がポルトガルの遺跡で見つかっています。
とはいえ、直接的な交流は限定的だったとみてよいでしょう。やはりポルトガルにはギリシア人の植民都市はありませんでした。近隣の植民都市でも、南フランスのマッサリア(マルセイユ)、あるいはスペイン北部エンポリオ(アンプリアス)と、遠方にしかありませんでした。
古代王国タルテッソス
フェニキア人やギリシア人がポルトガルの地にオリエントの文化を運ぶ媒介となったことは間違いありません。
しかし、地中海あるいはオリエントの文化の文化は、アンダルシア地からポルトガル南部へと伝わったと考えられています。その過程を示すのが、当時アンダルシアに存在した伝説のタルテッソス王国の事例です。
タルテッソスは、前800年~前500年に繁栄したとされる王国です。首都は、現在のポルトガル国境から25km足らずの場所にありました。
ローマ時代の史料によれば、タルテッソス王国は非常に洗練された都市国家で、フェニキア人とギリシア人との交易を独占していたようです。タルテッソス王国製とみられる遺物は、ポルトガル北部でも見つかっているからです。
このことは、フェニキア人やギリシア人が伝えた商品や文化は、ポルトガルに直接到達するのではなく、アンダルシア地方を経由していたことを示すと考えられます。すでに述べたように、フェニキア人やギリシア人が都市を作っていたのはあくまで現在のスペイン領に留まるからです。
カルタゴ
今述べたように、オリエントの文化は、フェニキア人やギリシア人、タルテッソス王国などを通じて、現在のポルトガルと呼ばれる場所に伝えられていました。こうしたなかで、より直接的にオリエントの文化を運んだのが、カルタゴでした。
前6世紀の半ばくらいから、カルタゴはイベリア半島南部の交易で主要な役割を果たし始めます。カルタゴはそもそもフェニキア人が築いた植民都市でしたが、フェニキア人の活動が低調になると、カルタゴが地中海世界で影響力を持ち始めます。
カルタゴ人は当初、フェニキア人と同じように、交易を主として活動をしていました。とくにイベリア半島の金属資源を調達しようとしていたようです。
しかし、時代を経ると、カルタゴ人はイベリア半島での活動を交易から、領域支配へと舵を切ります。イベリア半島で征服活動を始め、前3世紀にはポルトガル南部を支配下においたのです。
カルタゴは、おおむねテージョ川付近まで遠征隊を送っていましたが、南部のアルガルヴェ地方が支配の拠点であったようです。前221年から前218年の間に、かの有名なカルタゴの将軍ハンニバルは、アルガルヴェにのちにローマ人によってポルトゥス・ハンニバリスと呼ばれる拠点を作ったとされます。ディズニーは、カルタゴ人はポルトゥス・ハンニバリスを拠点として活動し、その範囲はポルトガルの沿岸地域を伝ってミーニョ地方まで至ったと述べています。
02.南部の生活
以上でみたように、鉄器時代、ポルトガル南部は、フェニキア人、ギリシア人、カルタゴなどと間接、直接的にかかわりを持ちました。これによって、ポルトガル南部は、地中海世界の一部と呼べる状況にあったようです。
ローマの歴史家ストラボンは、アルガルヴェが、優雅で、文明度が高く、古典的な地中海の水準を満たしていると述べたとされます。
では、実際のところ、ポルトガル南部はどんな生活状況にあったのでしょう。
ポルトガル史家のディズニーは、カルタゴの軍事進出以前に、ポルトガル南部で町と呼べるような中心地が形成されたと考えています。そして、さらにジュディス・ガミトという研究者の業績を参考に、ポルトガル南部の町が集まり、次第に社会経済が分業化、あるいは複雑化していたと主張しています。
例えば、ある地域には各地を統括する機能をもつ町と生産を担う町が形成され、その地域内部にはエリート層が存在していたことが指摘されています。
また、その経済についても、自給自足のための生産だけでなく、輸出を目的とする生産がおこなわれるようになっていました。ディズニーによれば、ある地域で羊毛が生産され、別の地域に輸出され、後者でその羊毛が服として製品化されていた事例もあります。
しかも、その地域においては、産業は農業だけでなく、銅、鉄そしておそらくスズを含む鉱物を採掘し、輸出したとされます。さらに、交易によって、ギリシアやシャンパーニュの壺、ジュエリー、良質な織物、そしてワインなどの高級品が輸入されるなどしていました。
こうした地中海世界との関わりは、ポルトガル南部から、やがてグアディアナ川流域、サド川流域、テージョ川流域、そして大西洋沿岸では現在のガリシアとの国境まで北部までも普及していったとされます。
すでに第二回で述べましたが、こうしたポルトガル南部から広がったある種豊かな生活は、北部の人々の略奪の対象となることもありました。やはりこれもすでに述べましたが、これは北部の民族の野蛮さということではなく、社会経済の違いに基づくのだと考えています。
03.「鉄器時代のポルトガル」まとめ
これまで三回に分けて述べてきたことを確認します。
1)ポルトガルの鉄器時代は前700年頃に起源をもちます。
2)鉄器はケルト人が持ち込んだとされます。
3)ケルト人はやがてポルトガル北部と中部に定住しました。
4)この頃のポルトガル北部の生活は、カストロを基盤に発展し、牧畜を基本とするものでした。
5)また、ポルトガル北部の社会は、血縁者同士がつながる氏族社会でした。そのうちもっとも有名な氏族が、ポルトガルの古称でもあるルシタニ族です。
6)ただし、時代とともに、ゆるやかなつながりから強いリーダーシップを必要とする社会に変化しつつあったという指摘があります。ルシタニ族などはポルトガル南部などで略奪をくり返し、その結果戦士の力が必要かつ高まったからです。
7)一方、南部では地中海とつながりが拡大していました。フェニキア人、ギリシア人が到来し、タルテッソス王国を通じてその文化がポルトガル南部に伝えられていきました。
8)ただし、もっとも重要なのは、カルタゴでした。カルタゴはポルトガル南部に支配拠点を置き、北部にまで影響力を持ちました。
9)また、このカルタゴの進出頃から、ポルトガル南部にはそれなりに大きな町や町同士の広域的なつながりができていました。
10)それは同時に社会経済の複雑化を意味しました。行政と生産が分離されたり、エリート層が生まれたりしたのです。ただし、6)でも述べたように、こうした豊かな社会は北部の人々から略奪されることもありました。それによって社会経済が大きく破壊されることもあったようです。
さて、今回は3回に分けて、鉄器時代のポルトガルについてみてきました。いくつか関連する日本語文献を参考にしましたが、先史時代に関しては文献が少ないようです。また、それらの文献の記述は、この文章で参考にしたディズニーの見解と異なっているとみられる部分もあります。論文のデジタル化などで、少しづつ最新研究にも触れやすくなっている状況にありますので、今後はそうした文献を渉猟し、今回の記事を発展させられるようにしてまいります。
読書案内
木村正俊 2018年 『ケルトの歴史と文化(上)』 中公文庫
小林登志子 2019年『古代オリエントの神々―文明の攻防と宗教の起源』 中央公論社
玉置さよ子 2001年 「アルタミーラからローマ帝国まで」立石博高編『スペイン・ポルトガル史』山川出版社
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