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学歴社会である以上


社会はゴミ。
日本のほとんどの会社は大卒資格を持ってないと入れない。(入れるところもある)だからほとんどの若者は大卒を手に入れるために大学に行く。学びたいことを学ぶためにその大学に行くという人もいるが、大学に行く人の頭の中にはどこかしらに、「大卒の資格を取るため」という理由も必ずあるはずだ。

大学はとりま単位落とさないように4年間過ごしてれば大卒の資格がもらえる。そして就活でよほど変なことをしない限りどこかしらに採用してもらえる。一番おかしなことは、高卒でもできるような仕事なのに、大卒しか取らない会社である。そうゆう会社がある以上、若者は大学に行かないという選択肢をとらざるを得ない。一番残酷なことはなんとなくで大学に行って、勉強無理だから中退する。ということである。くそ高い金を払って大学に行ったのに中退し、高卒という肩書になる。これほど悲しいことはない。

学びたいことが見つかる人もいるが、そうゆう人は小さい頃にいろんな経験をしてきてやりたいことが見つかったラッキーな人だ。ほとんどの人は学びたいことなんて高3の時点では具体的に見つからない。でも大学は行かないと将来がやばい。だからとりあえず偏差値の高い大学に行こう!そのために勉強しよう!という考えになる。それが普通だし、何ならその考えの方が正解だ。でもその偏差値の高い大学に行くために勉強し始めても、表面的な目標に対しての勉強だからなかなかやる気が起きなくて勉強がうまくいかない。そして、そういう人は絶対に、その分野を学びたくて大学を目指してる人には敵わない。だってその人はその分野の勉強が好きで、他の人よりも苦痛に感じないからだ。

 「結局、学びたい学問が見つからない人は無理やり見つけ受験勉強をするしかない。つまり我慢ということだ。学びたくないことをどれだけ我慢して、勉強することに意味を見出し学べるか。我慢力をつけるため!これが受験である!」
というように折り合いをつけて大学に行くという行動をとるのもあり。だが、本当にそれでよいのだろうか?
学びたいことが見つかってから大学にいく。この選択肢は受験生の中には存在しないのだろうか?

勉強は興味があるものに対して自分からするものだと思う。だからこそ教育のあり方は勉強に興味を持たせるようなあり方でなければならない。決して大卒という資格をとるためだけの手段であってはならない。

今の日本の教育の仕組みは、将来の仕事を見据えた教育は全然されてない。学問を学ぶための勉強になっている。たまに職場体験みたいなのがあるがそんなのを少ししただけで興味がある仕事は見つからない。小学校から高校までそうやって世の中にどんな仕事があるかを教えず、高3になって急に「仕事を決めてください」。そんなんでほとんどの人はつきたい仕事は決まらない。だからとりあえず大卒を手に入れるために、ほとんどの人が急いで大学進学をする。急いで進路を決めると、大学に入ってこんなものとは思わなかった。というミスマッチが起こる。ミスマッチが起こると中退か、4年間耐え続けるか、の二択。

働く。これは生きるために必ず必要なことだ。働かずに生きていける人は居るかも知れないが、いつかどこかで働くことになる。この未来は全員に決められた絶対条件でこの条件が変わることは一生ない。であれば、もっと働くことを見据えた教育をしたほうが良いのでは?

日本の大学は若者が多いが、大人の人もたまにいる。一回仕事を経験してやりたいことが見つかってから、本当にこれが学びたい!と思って大学に入った人だ。そういう人はおそらく、楽しく勉強でき、講義から得る学びも深い。だって学んでることが仕事のどういう面で役立つかわかってて勉強してるからだ。そういう人が多いほど大学の質も上がっていくだろう。

日本はまだ、大人の大学入学に対しての門戸が狭い。海外は広い、なんならそれが普通でもある。だから日本はいつまでたっても教育の質が海外の大学にかなわない。

やりたいことがある程度見つかってから大学に入る。この仕組みが一番良いあり方だと思う。(勉強は本来自主的にするものだから)

もしやりたいことがなく、大学に行く必要があるのか迷っているのであれば、あなたは他の人よりも柔軟に考えて行動できる人であることは間違いない。だって、ほとんどの人は大学に行くこと前提で将来を考えるからだ。迷ってるのであれば「まず一回社会に出て、いろんな仕事を経験し、学びたいことが見つかってから大学に行く。」という選択肢も頭の中に入れて考えてみることをお勧めする。

ここまでの内容で、大学は学びたいことが見つかってから入るもの。というような主張をしてきたが、一つだけ例外がある。それは大学をコミュニティの場として捉えた場合だ。どういうことかと言うと、大学に行くと、いろんな人と関わることができる。県外の人や自分より年上の人、外国から来た人など。これにより今までとは違ったいろんな考え方を取り入れることができる。このようにコミュニティの面で大学を見ると、行く価値は大いにある。(今言った話は大学に入ってその人が友達を作ったり、サークルに入ったり、ボランティアをしたり。などといった、人と関わるという行動を自分からした場合に限る。)
このようなことから、大学はいろんな人と関われるという点で非常に優れている。だが、だからといって大学に行かなかったら、人と関わりを持つことが完全にできなくなる。ということでもないことも知っといてほしい。行かなかったら行かなかったで、あなたのとった行動に共感する人や、興味を持った人が近づいてくる。それに今の時代ネットでどこの誰とでも繋がれる。

ここまでの内容で私は、「大学は学びたいことが見つかってからそれを学ぶために入るもの」「いろんな人と関われるという点で大学は優れている。だから学びたいことがなくてもそのために入る。それが大学。」というような、ある意味対立した二つの大学の捉え方。を提示してきた。
しかしこのようなことを考えると日本は、学ぶための大学なのか、コミュニティのための大学なのか。という大学のあり方がはっきりしていないということに気づく。日本は、何のための大学なのか。という、「大学のあり方」も今一度はっきりさせる必要があるだろう。

これから日本がするべきことは「大学のあり方」をはっきりさせること。そして学歴社会になった以上、せめて、学問のための勉強ではなく、将来の仕事を見据え、なにがやりたいのかを高3までにほとんどの人が見つけられる教育をすること。だ
そうすることで、目的を持って大学に行く人が増え、無能な大卒生は減り、大学の研究の質が上がる。国民の適職につける確率が上がる。国の経済力が上がる。
そして国力が上がる。


最後に、
学歴社会である以上、大学に行かないという選択肢をもつのは難しい。そこで一つ大事にしてほしいことがある。それは、何のために大学に行くのか。ということを考えることだ。「いろんな友達を作るために大学に行く!」でも良いし、「大学は、学びたいことがないから今は行かない。今後学びたいことが見つかって、それを学ぶために大学が必要!そうなったらその時に行く!」でも良い。理由は何でもいい。
ただ、行っても行かなくても、自分が取った行動に意味を見出すのは自分である。進んだ道が意味を見出してくれるのを待つのではなく、進んだ道で意味を見出せることができれば。後悔しないだろう。




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