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小説を書く才能がない人の話

■  自分には、才能がないともう言い切ってもいいと思う
 自分には才能がないというと、そんなこと簡単に言うなとか、本当に努力をしたのかとか、すぐに言い返してくる人はいるはずだ。私自身も、若いころにはそう思っていた。そのような自嘲に浸るくらいならば、少しでも小説と向き合っていい作品が書けるように努力をするべきではないかと考えていた。

 でも、この年になってくると、「才能がない」という言葉は、一種の福音のようにも聞こえてくるのだ。いつまでも、努力をするのは苦しい。一生、芽が出ないかもしれないのに、書くことにしがみつくのはつらい。その事実を直視して傷つくのは、もっとつらい。

 ある一定の年齢に達したら、才能がないという言葉で、自分の心を軽くオブラートに包んで、持っている限界と向き合うことを許してもいいのではないだろうか。もはや自分には、生まれてからの時間より、これから残された時間の方が少なくなりつつあるのだ。あまり深刻に捉えたくはいけれど、平均寿命ではなく、健康時間で縮尺を取れば、もっと時間が少ない計算になる。そろそろ、少しだけ自分を甘やかすことを許してほしい。
 
■  才能の種類について、考えてみる
 才能があるとは、改めてどういうことなのだろうか。まずは、天から与えられた書く力のことを指すのだろう。作家の石原慎太郎さん(1932~2022年)は一橋大在学中、後に芥川賞を受賞することになる小説『太陽の季節』を2日で書き上げたという。(石原さんは左利きなので、その後、清書をするのに3日かかったらしい)。原稿用紙100枚以上の小説を2日で書けてしまうほどの、内面からあふれだすような言葉の奔流、それを文章として物語の器に定着させることができる能力。これこそ、神から与えられた才能なのではないだろうか。

 うろ覚えだけど、大江健三郎さんも若い頃は「あれ」が降ってくるように書いていたと言っていたはずだ。(そうでなければ、『死者の奢り』とか『飼育』とか、あんな疾走感にあふれた小説を書くことはできないだろう)。

 時代をつかむ、時代につかまれてしまうということもあるだろう。恵まれた家庭に育てられた若者たちの無軌道な生活を描いた『太陽の季節』は、高度経済成長期に差し掛かって新しい価値観を求められる若者に受け入れられた。ベストセラーになり、映画になり、弟の裕次郎さんが俳優としてデビューして……。まさに、石原さんは時代に魅入られた人だったのだろう。時代の寵児になったプレッシャーにのみ込まれず、生き残ったということにおいても。

 最近で言えば、村田沙耶香さんの『コンビニ人間』は、時代と、時代の風をつかまえた作品と呼べるのではないか。誰もが幅広く利用しながら、古くからある商店と比べると少し奇妙な空間に感じられる「コンビニ」に、物語の磁場を見いだした。その作品は、経済的には豊かでも、優しく、無個性で、個々人の顔が見えないとよく言われる日本人の不思議なイメージとあいまって世界的なベストセラーとなった。

 念のためだが、僕は決して石原さんの政治姿勢や思想信条にはく共感しない。けれど、才能というものを考えたときこれほど分かりやすい事例はないと思う。
 
■  粘り強く生きてみたいけれど
 一方で、今まで書いてきたこととは反対になるけれど、こつこつ、粘り強く書き続けられることも、とても大切な才能である。村上春樹さんが『職業としての小説家』の中で、自身の執筆スタイルについて明かしているのは有名だ。自分の頭が一番冴えている朝起きてすぐに小説を書き、午後は走ったり、翻訳をしたりするという。

 そのストイックな生活の繰り返しの先に、『海辺のカフカ』も『1Q84』も生まれた。このように言われると、俺は自分の書きたいときに書いて、眠りたいときに眠ってやるよなどと、反発して啖呵を切ってみたくなるけれど、村上さんと僕を比べることは、まったく意味を成さない。僕にできることは、書き上げられた偉大な作品群を見上げて、ただ圧倒されるだけだ。

 さらに、五十代が近づいてきて、自分の残っている知的資源や体力を無駄に浪費しないということが、僕には課題として浮上してきている。「四十の手習い」という言葉は美しいけれど、それは「大日本沿海輿地全図」を完成させた伊能忠敬のように、やりたいことが明確にある人だけだ。

 二十歳の人と僕を比べたときには、もはや若さや勢いはないけれど、三十年間積み重ねてきた時間、膨大に読んだり、人知れず書いたりしてきた時間があるのだから、少なくなってきた残り時間を使って、それを生かす方法を自分なりに考えてみたい。
 
■  才能がないことに、徹した先に……
 というわけで、自分に才能がないことについて、今まで何度も考えてきたことをぐだぐだとまとめてみた。最後に、色々と思いをめぐらせた末、最近感じ始めていることを挙げておきたい。それは、自分には才能がないのだから、才能がないことに徹してみようということだ。

 才能を持って生まれなかった自分を呪い、粘り強く原稿を書く根性がない自分をあざ笑い、あきれて嘆き悲しみ(このノートの文章も、きっと自分には長続きできない予感がしている)、ほかの書き手を妬むことなく、自分にないものを持っていることを強く尊敬する。この姿勢を貫いた先に、何か見えてくるものがあるのではないだろうか。

 最終的にはもう一度、長編に挑戦してみたいけれど、この何か月は,気分転換に掌編をまずは十本くらい並べられるように頑張ってみたい。村上さんのエッセーによると、短編は三日くらいでまず書き上げて、その後、時間をかけてゆっくりと推敲するものらしい。でも僕には、三十枚ほどの小説を三日で書き上げるような能力も、モチーフも、筆力も、体力もない。
掌編だったら、一息で書き上げるという境地を体験できるのでありがたい。もう何本かは書けそうな気がするので、もし良かったら読んでみてください。
 
 最後は宣伝になりました。ネットという言葉の砂漠で、小さな砂を拾ってくださった、あなたに深く感謝します。
 

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