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【愛恋掌編③】扉を閉められないホアさん

 部屋の扉、引き出し、押し入れ、窓ガラス。ホアさんは、家のあらゆる締めるべきものを、少しだけ開ける癖がある。わざと開けているという雰囲気でもなく、ふわっと閉めて、最後まで閉じきらないような感じだ。玄関のドアはさすがに、防犯上の理由から閉めるけれど、乱雑には扱わない。

 特に、内側から鍵を掛けるときは、大きな鍵音が響かないように、細心の注意を払ってゆっくりと金属の器具をまわす。
 
 ホアさんは、僕たち同世代の日本人からは想像がつかないくらいとてもしっかりした人だ。日中はコンビニでのアルバイトの時間があるため、午前七時には起きて、一人分も二人分も一緒だからと言って、何度断ってもパンを焼き、目玉焼きとかウインナー炒めとか簡単なものをつくり、その間に洗濯機を回す。午後三時過ぎにバイトを終えると、夕方からの専門学校の準備をして学校に通い、帰ってくるのは午後九時だ。
 
 学生とは言っても、僕はただの仕送りつきニートと言っていい、ホアさんの部屋に勝手に住み着いて家賃を半分出していると言っても、それは親のお金だ。同じ二十一歳なのに、こんなに物の考え方がしっかりしている人がいて、さらに生まれた国が違うだけで生活や学校に通うための条件がこれほど違う人がいるんだろうかと思ってしまう。

「声を掛けられたとき、あなたは信用できる人だと思った」

 ホアさんは、僕が人生で初めて、いわゆるナンパをしてつき合った女性だ。そう書いたからと言って、僕がいわゆるちゃらい人間だなんて思わないでほしい。おそらく、僕の人生の上でも二度と女性に声をかけることはないはずだ。ただ、そのときはもう勝手に、僕ではないもう一人が、僕の体からちぎれるようにして遊離して、気がつけば勝手に声をかけていたのだ。

 僕が住んでいる家の近くのコンビニで、ホアさんは働いていた。気になるようになったきっかけは、彼女の声だった。一人暮らしだから節約しなくてはならず、コンビニで買い物をするのは無駄使いだと思ってはいる。それでもパンは仕方がないとして、お茶とかアイスとかつい買ってしまって罪悪感を覚えながらレジに向かってお金を支払い終わると、少し調子外れな声で、ありがとうございますとレジの彼女は言うのだった。

 日本人とは少し違うアクセントで、でも、誰よりも大きくて、人を明るくさせる雰囲気の声だ。名札の方に目をやると、グェンとあった。どこかの外国の人なんだと思った。なぜ小さな買い物をする人たちにも、これだけあいさつをしてくれるのだろう。そう思うと、ただの店員だったホアさんのことが気になるようになった。物を買う一瞬の時間を盗むようにして彼女を見やると、その瞳は混じりけのない黒色で、こぼれるように大きく、少し浅黒い肌は刷毛で掃いたようにつやつやとしていた。

 声をかけて一緒に暮らすようになった後で、ホアさんはコンビニであいさつをしたとき、小さな目礼であっても反応を返してくれる若い男性は少ないのだと振り返った。あなたは、いつも返事をしてくれて感じがいいと言った。

 日本語の勉強になるからと、ホアさんは家で学校の予習などをしないときはテレビを見ている。真面目な性格からは意外なことに、言葉を学ぶにはニュースや報道番組より、バラエティーの方が断然良いのだと力説した。バラティー番組は字幕が丁寧についているし、出演者のしゃべりが自然で生きた言葉が身につくという。

 学校の勉強をしているときは集中して、僕のことなんて相手にしてくれないのに、テレビを見るときは必ず隣に僕を呼ぶ。
 
 ソファーの隣に座るよう命じて、体を密着させて僕の手を握っている。やたらと体をくっつけたがるのはつき合い始めのカップルの特徴で、ホアさんもその典型なのだろうか。いずれにしても、彼女のような知的で美しい女性に部屋で手をつないでほしいと言われて嫌な男がどこにいるだろう。
 
 テレビは世界ドッキリニュースといった趣旨の番組で、驚くような出来事が短編映像の形でまとめられ次々と紹介されていた。基本的には明るい内容なのだけど、時々、殺人や強盗事件など、シリアスなものも流れてくることがある。
 
 僕は、ホアさんの手が急に冷たくなったことに気づいた。
 
 横目で顔を見やると、顔色が悪くて汗が止まらないようだった。どうしたのと声も掛けられなそうな雰囲気だった。
 
 テレビ画面の方に、改めて向き直した。
 
 イギリスで起きた事件を短くまとめたもののようだった。冷凍用コンテナに隠れてイギリスに密入国しようとして、大量に窒息死したベトナム人たちのことを報じていた。高い金と引き替えに渡航者を募集し、ヨーロッパのある港で貨物船のコンテナの中にその人々は詰め込まれる。通常ならば空気穴のようなものが開けてあるはずなのにそのような細工を施されることはなく、イギリスの港に船が着き、大型トラックにコンテナが詰め替えられるころには、四十人近い密入国者全員が絶命していた。
 
 コンテナで命を落としたすべての人の顔写真が、女性も男性も含めて画面いっぱいに紹介され、遺族のもとに返却された携帯電話のメールのやり取りが公開された。
 
「息苦しい」
「このままでは死んでしまう」

 最初は不平不満を伝えるだけの内容だったメールは次第に深刻さを増す。

 「お母さん、こんな場所で死んでしまってごめんなさい」
 「家族のことを頼みます」
 「私を育ててくれてありがとう」

 ホアさんは全身を震わせ、それは体の内側から抑えようとしても勝手に震え出すような様子で、僕は恐ろしくなって震えを止めるために全身をきつく抱き締めた。

 震えの源が体の奥底からであることが伝わってきて、顔の表面にはとめどなく涙が伝った。理由を口にしようとしないから、僕は黙って唇を押し当てることしかできなかった。

 口を重ねたまま、どれほど時間がたっただろう。ホアさんは体を離して言った。

「私も日本に来るとき、同じようにして死にそうになった」

 命を取り留めたのは、仲間の一人が万が一のときに備えて錐を持っていて穴が空けられからだという。
 それ以来、どんな場所に行っても、狭いマンションはもちろん、立派な建築物を見ても、まず窒息をしないか見回してしまい、扉を開けるのだと言った。

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