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【愛恋掌編④】青い錠剤

 年を取るということは、恋愛、もっとはっきり言えば、性愛が、抽象化していくことなんだと思う。

 好意を抱かせる女性が目の前にあらわれたとする。以前ならば直線的に反応していた体の動きが鈍い。異性と恋愛することの目的は性愛ではないけれど、究極のコミュニケーションが体の触れ合いにあるとするならば、最後の頂点に達することができないのではないかと、不安を覚える。

 そもそも自分は話すことも、話を聞くことも下手ではないか。これに肉体の不如意も加わったとすれば、一体、自分は何をもって女性と接して生きていけばいいのだろう。

 週末、一人で過ごすことに耐えられなくなったとき、誰かの声を求めてコーヒーを飲みに出かける。
 
 こんな日に限って、目の前に若いカップルがいる。隣合わせのテーブルに座って、同じ雑誌を眺めている。女性は落ち着いた色のワンピースを着て、身を乗り出すようにして男性のめくるページを見入っている。それほど面白い雑誌がこの世にあるのだろうか。想像もつかないような世間を揺るがす記事が載っているのだろうか。
 
 あるいは、結婚情報誌や旅行雑誌の類だろうか。結婚式を控えていて、これから式場選びとか、新婚旅行の場所を探しているのかもしれない。

「ああ、つまんないな」

 行きつけのチェーンの喫茶店で本を読みながら、僕は心の中でつぶやく。
彼女は気がついているのだろうか。先ほどから、熱心に相づちを打ちながら、しきりに自分の太ももを触っている。

 それって昨晩、何度も恋人と関係を持ちすぎて、足が疲れてしまったということなのだろうか。僕は女性の顔をうかがいみて、昨夜の疲れの痕跡が残っていないか確かめようとする。女性の表情には、まぶたの下の隈とか、化粧のりの悪さとか疲れた様子がまったく見えない。それどころか、はみずみずじくはじめるようで大好きな異性と話をしている喜びに満ちあふれている。

 一体、何というひどい想像をしてしまったのだろう。年を取るということは、若いころの潔癖さを失って、自分の考えること、言うことに下品さの歯止めが掛からなくなって、あられもなくなってしまうことだと、しみじみ悲しくなってくる。

 五十代を目の前にして、身も心もひどく汚れてしまっていくばかりの気がする。このまま精神的にだらしない大人になって、中年の腐敗臭が立ちこめるようになって、誰にも顧みられなくないまま死ぬのだろうか。
 

 
 掌編小説のタブーの一つは、夢で話をつなぐことだという。それでも、今日は懐かしい人を夢に見たことを書かなくてはいけない。

「てっちゃん、人生は挑戦でしょうよ」

 喫茶店から帰って昼寝をしていると、若いころ、お世話になった警察官の渡辺さんが目の前に立っていた。渡辺さんは、僕より三十歳以上年上の警官だった。僕が今から三十年近く前、新卒で入った旅行会社は、格安運賃を掲げて急成長を遂げていたのだけれど、働き始めて二年半で倒産した。笑ってしまうほどワンマン経営で、不正な経理や粉飾決算が横行していた。

 渡辺さんは倒産の内実について捜査していて、僕は取り調べに協力しているうち、個人的に気に入られて一時期、年の離れた飲み友達のようになった。

 渡辺さんはバツイチで、女性がいる店にも連れていかれた。
柔らかいソファーの上に僕と渡辺さんが座り、胸元がざっくりとあいたドレスを着た女性が隣に座って水割りを作ってくれた。明らかに店の雰囲気と不釣り合いな僕は、ただ水割りをお茶のようにすすっているだけだった。

 公務員の給料で、こんな美しい女性たちがいる店に通えるものなのか、僕にはよく分からなかったし、おごられるのをいいことにあまり深くは考えなかった。

「てっちゃん、チョンガーだろう。菜摘子とつきあえよ」

 いつも機嫌が良い渡辺さんは、飲むと一層機嫌が良くなる。この日も上機嫌で繰り返し言った。

「菜摘子、こう見えて、まだ青い果実でしょうよ。てっちゃんに、柔らかく剥いてもらえって」
 菜摘子は、ただ笑っているだけだ。渡辺さんは時々、ひどい下ネタを口にした。僕はこういうとき、いつもうまく返事ができない。

 照れくさそうにしている僕を見て、渡辺さんはもっと気分がよくなったようだった。

「そうだ、てっちゃん。これやるよ」
 渡辺さんはポケットから、小さなビニール袋に包まれた青い錠剤を取り出し、テーブルの上に置いた。
 「知っているだろう。バイアグラだよ。バイアグラ」

 最近、テレビでよく好奇心混じりで取り上げられている米国の薬だった。男性の機能を改善するのだという。

「菜摘子とする前に、これを飲めよ。朝まで別人になれるから」
ずっと何も言えないままでは、場が盛り下がってしまう。そろそろ僕は、何か返事をしなくてはいけないと言葉を探した。

「まだ薬なくっても、大丈夫ですよ。だって僕、まだ二十四歳ですよ」
 渡辺さんが、少し黙り込んだ。

「そうだよな。てっちゃん、まだ若いもんな」

 捜査の第一線に立ち続けて日焼けした顔に、せつなそうに歪んだ表情がよぎった。僕は何か失礼なことを言ったのかもしれないと思い、その場を取り繕うようにして水割りを飲み干した。

 
 短い眠りから覚めて、あの日の渡辺さんに一瞬よぎった苦しそうな顔が、はっきりと頭の奥に残っていた。あのころの僕は、年齢を重ねるにつれて、自分の男性の機能が思うようにならない日が来るとは想像もしていなかった。

「渡辺さん、僕もそっち側に近づいて来ましたよ」

 半覚半睡のまま、僕は心の中で言った。
 渡辺さんに伝えたいと思うけれど、彼は警察を定年になって間もなく病気で亡くなってしまった。

 男性の平均寿命は八十歳を超えているというけれど、早死にすることだってあるのだ。いつか終わる人生ならば、まだ、恋愛することをあきらめなくてもいいのではないだろうか。性格がいまひとつなところは仕方ないけれど、肉体の衰えは、青い錠剤でも何でも使って補えばよいではないか。

 薬を飲んで少しでも自分に自信が持てるならば、恥ずかしいとか、照れくさいといった感情を取っ払って、挑戦してみればいいのだと思った。

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