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花のある暮らしにあこがれて2

 昔から身近にあった花を、人々はどのように愛で、いけてきたのか。
 前回は西洋の歴史をざっと振り返ったが、今回は日本ではどうだったのか、その歴史や楽しみ方についてざっとみていきたい。

日本のフラワーアレンジメント「生け花」

仏花から万葉集~飛鳥時代から奈良時代まで


 日本では6世紀中ごろ(飛鳥時代)に仏教が伝来した。やがて全国に仏教が広がり、仏様に花を捧げるという習慣(仏前供花/ぶつぜんくげ)が定着していった。

 華道のはじまりとされる池坊の発祥の地、六角堂(紫雲山頂法寺/しうんざんちょうほうじ)を当時16歳の聖徳太子が建立したのも同時代(西暦587年)のことである。初代住職は小野妹子が務め、朝と夕に仏前に花を供えていたという。それが代々受け継がれていく過程で、現在のいけばなへと発展していくのである。

 奈良朝末期には万葉集が編纂された。花が題材として取り上げられているものも多く、その種はおおよそ166種といわれている。

 この頃の日本の「上流社会には、植物を美学的に評価する文化が成立していたことは疑いない」と中尾佐助は『花と木の文化史』で述べているものの、まだ屋外に咲いている状態の草花を愛でることが多かったことがわかる。

まだ屋外に咲く花の鑑賞が中心の平安時代


 一輪挿しに花を生け、愛でる習慣が生まれたのは、平安時代だと推測されている。アサガオ、菊といった中国渡来の園芸品種が多く出てくるのも、このころである。清少納言の『枕草子』に、

「のもとにあをきのおほきなるをすゑて、桜のいみじうおもしろき枝の五尺ばかりなるを、いと多くさしたれば…」

 という叙述があり、桜の枝を瓶活けて楽しんだことが分かる。「勾欄のもとに」という記述から分かるように、当時は花を室内ではなく勾欄(こうらん/欄干のこと)に置いていたようである。

 また、この頃は宮中で花や植え込みの美しさを競う菊合わせ、花合わせ、前栽合わせなどがさかんに行われていた。そのひとつ、菊合わせは中国の唐風にならったもので、9月9日の重陽の節句に清涼殿の左右に菊花壇をつくって、その美しさを競ったものだ。いまでいう品評会や鑑賞会のようなものといったらわかりやすいだろうか。

 この重陽の節句、別名、菊の節句は五節句(1月7日の人日、3月3日の上巳、5月5日の端午、7月7日の七夕、9月9日の重陽)の最後を締めくくる節句で、菊花を観賞しながら歌を詠み、菊酒を飲んで無病息災や長寿を願ったという。

貴族以外にも広がり始めた鎌倉時代


 鎌倉時代になるとより日常生活の中で花を愛でる習慣が生まれてくる。『新古今和歌集』の代表的歌人だった藤原定家は、『明月記(めいげつき)』という日記を書いている。その中に、花瓶に花を挿して花合わせが行われた様子が残されている。

 また、貴族の風習だった花見が武士階級や一般の人々にも広まったのが鎌倉時代ともいわれている。吉田兼好は『徒然草』のなかで、貴族と田舎の人たちとの花見の仕方について比較している。貴族は花を愛でるのに対し、田舎の人たちは花の下で繰り広げられるにぎやかな宴会ぶりを書いている。

 多くの人が花に親しみ、花がぐっと身近になってきたとはいえ、まだ屋外のこと。家の中で鑑賞する習慣が出てくるのは、もう少し先のことのようだ。

一気に花形が進む華道確立~室町時代


 華道が確立したのは、室町時代中期以後のことである。先述した通り、小野妹子が仏前に花を供えていたのを代々受け継ぐ形で六角堂の僧侶たちが仏に花を添えるところから始まり、ここから華道の流派も派生していった。
 同時期、唐物と呼ばれる中国の絵画や器物が多く日本にもたらされると、それらを飾るために建築様式も寝殿造りから床の間のある書院造りへと変わっていく。この床の間に飾る方法を「たて花(ばな)」と呼び、掛け軸や香炉と共に床の間を飾る美術品のひとつとなっていった。
 
 日本で最初の流派と呼ばれているのが池坊である。六角堂の住職は代々「池坊」を名乗り、仏前に花を供えていた。池坊の名を世に広めたのは池坊専慶(せんけい)だ。その活け方は「人々の評判になる」ほどに有名だったようだ。彼が武士に招かれて挿した花は、従来の供花(きょうか、もしくはくげ)などの枠を超えた独自のもので、それまでの仏前に供える花とは違う、粋な生け方だったようだ。

 その後、いけばなの思想を『池坊専応口伝(いけのぼうせんのくでん)』として巻物に書き記したのが、池坊専応(せんおう)である。この書をもとに華道が成立したとされている。

いけかたに大きな影響を与えた立花~安土桃山から江戸時代


 安土桃山時代になると、千利休の茶室に基づいた茶花としての生け花という概念が生まれる。これは千利休が茶の湯の心得のなかで「花は野にあるように」、つまり自然の風情のままに花器に入れるのがよいとしたものである。この概念がその後の生け花に大きな影響を与えた。

 池坊に伝わる日本最古の花伝書といわれる『花王以来の花伝書』には、いけばなの原型となる「たて花」に加えて掛花や釣花など様々な活け方が描かれている。これを見ると、生活の様々な場面、様々な方法で生けられるなど、活け方に変化が生じて来たことがわかる。

 この「たて花」という生け方をより明確にしたのが、専応の跡を継いだ池坊尊栄(せんえい)である。彼が記した「池坊尊栄花伝書」には七つの役枝から構成される花形の骨法図が描かれており、これが後に発展する「立花(りっか)」の原型となったとされている。

生け花の形式に大きな影響を与えたのは、
たて花から発展した「立花(りっか)」

 
 「立花(りっか)」を一躍有名にしたのが、初代池坊専好(せんこう)である。彼が文禄3年(1594)に前田利家邸の四間床に大砂物(おおすなもの)を立てると、これが「池坊一代の出来物」と称賛され評判となった。

 江戸時代になると、二代目池坊専好がさらに立花を大成させる。立花は木を山、草を水の象徴としたいけ方で、花瓶の中央に枝を立て、草花で森羅万象を表現し、その調和の中に美を見いだすという考えに基づいている。この様式が完成されて以降、「たて花」は「立花」と呼ばれるようになった。

 こうして尊敬を集めた二代目専好は、宮中で開かれるお花の会の指導を行うようになる。それと同時に守らなければいけない形式や約束事も増え、より形式ばった技巧的なものになっていったとされている。

立花から生花へ

 江戸時代になると、世襲による家元、宗家らが華道を受け継いでいくようになり、型が定着していく。江戸後期には、富裕な町民層が出現し、書院造りよりも簡素な「数寄屋造り」が生まれた。それまで上流階級や武家層に親しまれていた華道が、しだいに富裕な町人たちを中心に庶民にも親しまれるようになっていったのだ。

 生け方も、より自由で形式にはまらない「投げ入れ花」などが人気となっていった。これをもとに生まれたのが「生花(しょうか)」と呼ばれる型である。これは草花の調和を重んじる「立花」に対し、草花そのものの個性に美を見出したとされている。

 こうした花いけが町人たちに広まったのは、富裕な層が出現したことに加え、生花が立花よりも手軽にできたこと、口伝から「伝書」と呼ばれる書物にまとめられ、型の伝承がより容易になったことなどが挙げられる。

 門弟が増えるに従い、裕福な町人女性の習い手もみられるようになる。
 この頃に出された『立華時勢粧(りっかいまようすがた』には、「初心者がいけた花であっても、どこか良いところはあるのだから、そこを探すように。良くないところは見過ごすように」といった礼儀的な側面も書かれている。悪い点は素人でも目につきやすいものだが、そこをあげつらうことをやんわりと制しているのであろう。

明治に入ると女学校でいけばな教育開始

 明治初期には、生け花を支えてきた武家や商家が没落していった。文明開化のあおりを受け、伝統的な文化や芸事を軽視する風潮が強まっていったのが原因とされている。生け花もまた、時代に合わないものとして衰退の一途を辿っていった。

 こうした時代の流れは華道にも及んだ。このままでは衰退の一途をたどると危惧した当時の池坊家元であった専正(せんしょう)は、京都の女学校の華道教授に就任。男性中心の世界だった生け花を女性にも広げたのである。授業で教えたことで、生け花をする女性の割合が急増し、嫁入り前の習い事のひとつとして受け入れられていったという。

 西洋流のフラワーアレンジメントが日本に入ってきたのも、明治時代のことである。この時、人気となったのは、生け花に洋花を取り入れた「盛花(もりばな)」である。これは、もともと池坊で学んでいた小原雲心(おはらうんしん/のちの小原流の祖となる人物)が考案したもので、一番の特徴は、飾る場所を限定しなかったこと。このことが、明治の西洋化に伴う生活様式の変化にマッチした。様々なシチュエーションや空間を彩る型として、広く受け入れられていった。

平安時代に生まれた一輪挿しを楽しむのもまたよし

 駆け足であるが、西洋、日本それぞれの「生け花」の発達の歴史についてみてきた。

 改めて、西洋と日本のいけ方の違いは何だろうか。西洋では、主役はあくまでも花だ。たくさんの種類の花を活けることによって贅を見いだしているように感じる。あらゆる方向から見て楽しめて、美しさや華やかさ重視。

 一方の日本は、花の種類や本数を絞り空間を生かしたいけかたをする。置き場所を見ても、ひっそりと佇んでいるかのような印象だ。削ぎ落とされた空間に、いかに世界を作っていくか。平安時代に生まれたとされる一輪挿しなど、金銭的にも、もっとも気軽に始められる部類に入るのではなかろうか。とはいえ、やはり基本を知らないと様にならず、難しそうだ。

日本のスタイルがそのまま楽しめる花束があっても? 


 冒頭、日本でも海外の花屋を意識したかのようなスタイルの花屋を見かけることが多くなったと述べた。

 加えて昨今では花のサブスクリプションも始まり、定期的に花が郵便物として届けられるサービスなどもある。お手頃な値段から始められ、わざわざ店に行かなくても季節の花が届くのが人気のようだ。ほかにも、売れ残りの花を廃棄せず、市価より安く販売する店舗など、スタイルも多様化してきた。大手生花店も、サブスクリプションに乗り出している。

 がしかし、いずれのスタイルも、西洋風のブーケが中心ではなかろうか。
 であれば、ブーケと同じように、買ってきた花束を花瓶にさすだけで、空間を生かした日本風のいけ方を楽しめるようなスタイル(もちろん、仏花以外)があってもいいのかもしれない。そうすれば、格式ばったように感じる華道がもっと身近な存在になるのではなかろうか。

 とはいえそれを花束にするのは、かなり難しそうだし、持ち運びも難儀しそうだけれど。

<参考文献>
『日本文化の基礎がわかる 初歩から学ぶ 茶道・華道・書道の絵事典』PHP研究所編(2006年6月9日発行 PHP研究所)
『池坊専好×鎌田浩毅 いけばなの美を世界へ 女性が受け継ぐ京都の伝統と文化』(2022年9月10日発行 ミネルヴァ書房)

<参考URL>
池坊「花の甲子園 池坊の歴史」(https://www.ikenobo.jp/hana_no_koushien/history/#:~:text=%E5%88%9D%E4%BB%A3%E3%81%AE%E4%BD%8F%E8%81%B7%E3%82%92%E9%81%A3,%E3%82%92%E5%85%BC%E5%8B%99%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82
池坊「いけばなの歴史」

池坊「池坊について」

池坊「戦国時代の家元 池坊専好(初代)」

小原流「小原流の歴史」(秋田県華道連盟)

小原流 小原流について
https://www.ohararyu.or.jp/about/

花物語 「華道の歴史」ほか

Kilala 文化「いけばなの流派」
https://kilala.vn/ja/van-hoa-nhat/diem-danh-3-truong-phai-cam-hoa-ikebana-hot-nhat.html

諒設計アーキテクトラーニング
https://www.designlearn.co.jp/kado/kado-article05/

Bouquet perfume
【フラワーアレンジメント 上達のコツ】華道 生け花と、フラワーアレンジメントの文化、歴史から学ぶ上達のコツ

コトバンク「座敷飾」
https://kotobank.jp/word/%E5%BA%A7%E6%95%B7%E9%A3%BE-1168918

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