デッサン力という力技

SNSなどの自撮り写真が「加工」されるのはもはや珍しくもないが、写真の自分を良く見せたところで、現実の自分とのギャップをどうするのだろうか、と要らぬお節介を思ったりする。

写真のみならず現実の自分の肉体を加工する技術も日進月歩ではあり、その総工費を吹聴したりする人もいるが、工事に終わりはないと思われ、いろいろたいへんだなぁと思う。

加工にも上手下手があり、センスが問われる。あまりにも分かりやすい小顔、あるいは手足を長く加工してあったりすると、たぶん褒め言葉として「10等身」「顔ちっさ」などと書かれたりするが、実際に生きている人間がその寸法を持った場合、人体としてかなり変である。どこがどう、というより、本来の人体としてのバランスが変なので、パーツは美しくても、トータルとして美しくもなんともなく、そういう写真は「漫画みたい」と揶揄される。 

しかし、これが絵の世界だと話が違ってくる。
漫画やアニメーション、イラスト、またいわゆる「美術品」としての絵の世界でも、人体はデフォルメされまくっている。

昔の少女漫画で12等身は当たり前で、その美しさに憧れた自分はよく模写をしたが、似ても似つかないものに終わった。マニエリスムの巨匠、エル・グレコの描く人体は縦に長いのだが、その絵を美術館で見た時は「デフォルメされても正しい人体というものがある」と驚愕したものだ。子どもの頃「Dr.スランプ」の連載が始まったが、特有の3頭身キャラからはその質量、重量を感じた。ストリートアートのゴッドファーザーと呼ばれたハンブルトンの描いた男達は、股下が身長の半分以上あるが自分はその格好良さに度肝を抜かれ、原画の前からなかなか去れなかった。荒川弘は自分を牛の姿で描いているが、違和感どころか大変な説得力がある。

これらの作者は、みな下地に驚異的なデッサン力を持っている。だからこそ、現実にはありえない姿を描いてなお人の目を惹きつけ、感動させることが出来る。
何事にも基礎は大事だが、ある意味力技だとも思う。技のバリエーション以前のところでねじ伏せるのだ。

自分の絵の師匠がつねづね言うのが、
「自分の目で見たそのままを描くのでは絵にならない」
ということである。

「いかにそれらしく見えるか、見せるか」
がポイントだと言う。

もっとくだけて言えば、
「それっぼく見えれば勝ち」
なのだ。

また、この師匠の好きな言葉のひとつに、画家ボナールの
「嘘を重ねて真実を描く」
という台詞があるという。

自分は、それを聞いた時に、とっさに
「その嘘のひとつひとつも、実は小さな真実で出来ているのではないか」
と思った。
それが、デッサン力なのではないかと思い至った時、絵を描くということがどれほどのことなのかを考え、気が遠くなる思いがした。

現代においては、素人でもデッサンを習おうとすれば鉛筆、炭、ペン、等々さまざまな道具が手に入る。
しかし、師匠曰く、昔の日本画の修行は、筆で対象物の輪郭を取ると言うものだったらしく、その人々から見れば消しゴムという逃げ道を持つ現代の我々などお話にならないであろう。

絵を描くということは、人間にとってとても身近な行為で、楽しいことだ。
しかしその一方で、立体を平面化する、ということは何だかとんでもないことをしている気もする。不可能を可能にしようと、人間は絶えず挑戦してきたのだ。

自分(の写真)を加工するのも、不可能を可能にする術なのだろう。「それっぼく見えれば勝ち」ということだろうか。
姿勢を良くし、言葉を知り、絶えず人から学び、現実の自分の中身を磨いた方がいいのになぁ、と思う。その方が、その場限りでない、人間としての美しさが得られると思うのだが。

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