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できたらえらい

寝る前に何かを"クリエイト"していきたいと思っていたのだが
書けば書くほど、その困難さにぶち当たっている。

要するにネタがないというか、あるんだけどどうしたら面白くなるのかとか
悩んでいる内にだんだん自信が無くなってきて、何か言い訳を探してみては
やらないことへの正当な理由として、自分を納得させている。

日々様々なことで起きているのだが、これもひとえに日頃おびただしい量の情報に触れてしまっていて、何となく「できて当たり前」の様な感覚を持ち始めてしまうからなのでは、と思ったりする。

何となく思うけれど、普段の生活においてつい「減点方式」の評価をしがちだ。
ごく単純な例だと、家族の誰かが何かを持ち出して、それを片付けずにいたら
「片付けるのが当たり前」という基準に照らして、「片付けない」ことに苛立ちを覚えてしまうものだ。

靴下を裏返しにしたまま洗濯機へ放り込む。食べ終わった食器を机の上に置きっぱなしにする。ゴミを捨てない。これらは「常識」的に判断をくだすと、どちらかといえば「良くない」ことに該当する。

何故あいつはこんなことも出来ないのか、という考え方をしてしまうと
例えば食器を片付けたり、ゴミを捨てるということは評価されることではなくなる。

初めから持ち点が100だとして、些細なミスがそれらを減点していく方式だと、100点を維持するためには「ミスをしない」ことが重要になる。
だが、人はミスをする生き物なので、それもなかなか難しいと思うのだ。

そして最も重要なことは、その"100点"は概ね評価に値しないということである。
"当たり前"なので、文字通り当然そうなる。
まあ、"100点"という事実は評価の対象かもしれないが。

これらの行いは褒められることもないので、当たり前にこなせていれば何も感じることはないだろうが、あまり得意ではない、または出来ない人間にとっては、何となくモチベーションを維持することが困難になってしまうと思う。

なので、ごく簡単なことであっても、やはり「できなくて当たり前」という部分に基準を置いた方が、評価する側もストレスも少ないし、出来たことを褒められるし、褒められた側も「こうすれば評価につながるのか」という意識を持ちやすいような気がしている。

案外、日々やらなければならないことと言うのは、何だか非常に疲れるし、それが家庭内のタスクとなれば、金銭的なメリットなどもないため、ほとんど全ては意志による所となる。

料理を作ることは楽しいかもしれないが、食後の後片付けは楽しくなかったりするのは、おそらくクリエイティビティが働かないからであろうと思う。
本を読むのは楽しいが、読んだ本を本棚に戻すのは何ら得られるものがないように感じるので、面倒くさく感じてしまうものである。

でも、こう言った当たり前こそ、しっかり褒められると良い気がする。
誰かにとっては、その当たり前こそが貴重なものだったりするのだろう。
それが目に見えて初めて、他人や社会とのつながりを育むことができるんじゃないかと思っている。

誰かと生きるということは、それだけでも結構な負荷がかかる。
でも、だからこそ自分の都合だけで判断してはいけないというか、ほんの些細な行いでも前向きに関わることが出来たのなら、それが他人じゃなく自分に対して気がついたのだとしても、俺って偉いと思っていただきたい。

みんなできなくて当たり前で、できたらえらいのだ。
こんな記事でも、書かないよりはマシなのだと思いながら、日々なんとなく思いついたことを継続して書いてみようと思う。

今日はちゃんと書けてえらいぞ自分。

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