見出し画像

私のおばあちゃん

おばあちゃんは明治生まれ。100まで生きた。小さな人だった。でも5人も子供がいた。私が知らない叔母もいたらしい。おばあちゃんは父の母。私の両親は石川県の金沢の出身。両親は戦後東京で暮らしていた。おばあちゃんは金沢住んでいた。私が幼稚園の時おばあちゃんに預けられた。私の記憶のスタートは金沢のおばあちゃんと暮らしたところからだ。母がいなくて寂しいなんて記憶は全くない。大人になって聞いた話だが母は私を不憫に思っていたらしい。母には悪いが恋しいと思った覚えはない。母さんごめんなさい。
金沢に居たのは一年くらい。ほんの短い間。その時の思い出は沢山ある。
その頃おばあちゃんは多分50代?か60ちょっと。幼稚園児の私から見ればおばあちゃんだった。黒やグレーの地味な服が多い。髪はきれいにまとめていた。
おばあちゃんの家は金沢駅から北鉄浅野川線で一つ目の七ッ屋駅から徒歩5分だ。今でも昔の面影が残っている。

駅は地下になっている
          内灘行きに乗って1つ目の七ツ屋駅下車
昔は踏切の脇に駅があった
      曲がった道の右側に家があった
もううどん屋はやっていないけど看板が残っていた
夏はかき氷を食べた

働き者のおばちゃんが裏庭で草むしりをする。私が手伝うと草を抜いた所から長いミミズが出てきた。蛇だと思った私は「おばちゃん助けて」と叫んだ。おばちゃんはミミズをヒョイと掴んで遠くへ投げた。ミミズは土を良くするからね。土手でつくしを両手で持てないくらい摘んで帰るとおひたしにしてくれた。子供の口には合わない・・でも春の味。

鉄橋の向こうに山が見えていた
私の原風景かもしれない
                浅野川 つくしを積んだ土手は護岸工事が行われていた

夏には蚊帳を吊ってくれた。中に入る時はちょっとだけ開けて入るんだよと言われた。夜中に目が覚めるとおばあちゃんがいない。一緒に寝たはずなのに。隣りの家に母方の祖母が住んでいた。こちらもおばあちゃん。母の里のおばあちゃん。おさとばぁちゃんと呼んでいた。泣きながらおばあちゃんがいないと言うとお寺さんに行っているよ。ここで寝なさいと言われておさとばぁの隣りで寝た。夜中だと思ったけどまだ宵の口だったのだろう。

秋になるとおばあちゃんは山へキノコを取りに行く。カゴいっぱいのキノコ。子供の私には得体の知れないものだった。食べれるのかさえ分からなかった。今でもキノコは好きになれない。おばあちゃんごめんなさい。

冬のある日おばあちゃんの知り合いがカニを届けにきた。土間には竈門があって一升の釜がある。グツグツ煮えたところにカニをいれた。
カニは美味しい。

おばあちゃんの家には掘り炬燵と火鉢があった。火鉢でお餅を焼いて両端を引っ張って伸ばし黒砂糖をいれておると、中で黒砂糖が溶けてくる。美味しいかった。結婚式か葬式かわからないが近所で人が大勢集まっていた。おばあちゃんが餅をもらってきた。大福を薄くしたような形、なかにアンコが入ってる。丸いのや菱形のも色々あり、外に黄色米がついていたり紅白になったのもあった。今もあるのかなぁ?五色生菓子というらしい。徳川秀忠の娘珠姫が輿入れしたときに献上されたそうな。

金沢ではササガレイと言う薄くて細長いカレイ(魚です)が取れた。土間にカレイがぶら下がっていると明日は焼いて食べれると思い嬉しかった。一夜干しにしたカレイは美味しかった。

おばあちゃんは味噌も作った。茹でた大豆を挽肉を作るように入れてぐるぐる回す。裏庭の納屋に樽が幾つもあった。
おばあちゃんの家には氷を入れる冷蔵庫があった。もうご存知の方はいないかも。七輪もあった。練炭も覚えている。ガスレンジもあったけど七輪で何を焼いたのだろう?ササガレイ?

おばあちゃんがすり鉢で黒胡麻をする。私は鉢を抑える役。擦った胡麻に味噌砂糖多分酒か味醂を入れて火にかける?胡麻味噌をご飯につけて食べた。
ご飯のお供がない時きな粉に砂糖と塩少し入れてかけてくれた。胡麻にきな粉、健康食品だ。
おばあちゃんは寒天にダシと溶き卵白身を入れて固める料理を作った。エビスといって金沢の郷土料理らしい。おばあちゃんは梅酒も作った。棚の中に琥珀色の梅酒があった。梅干しも作っていた。シワシワで塩をふいた梅干し、塩っぱくて酸っぱい。一緒につけた紫蘇の葉で紫蘇の粉を作ってくれた。ゆかりと言われているかな。なすびそうめんも食べた。茄子を出し汁で煮たところにそうめんを入れたものだ。熱くても冷やしても美味しい。子供でも食べれた。これも郷土料理。

おばあちゃんが二階の部屋を締め切ってなにかしている。そーっと覗くと布団の綿を入れ替えていた。埃がたつから開けちゃダメだったんだ。
おばあちゃんの家のトイレはもちろん和式、床は板だった。女の子は上手に用を足さなければだめだよと教えてくれた。我慢して駆け込むとね・・・
そうそう、土間で靴を脱いだら履きやすいように揃えてねと言われた。

クリスマスの朝起きると銀色の長靴が枕元にあった。お菓子が詰まった長靴。サンタさんがくれた、わけないね。おばあちゃんが孫の為に買ってきてくれたはず。嬉しかった。

おばあちゃんの家には猫がいた。黒と白の猫。裏庭に出る扉の下の方に猫の出入り口があった。ある日いなくなった。おばあちゃん、ちょんべさんどこにいったの?と聞くとしばらくしたら帰ってくるよと言う。そしておばあちゃんが明日帰るよと言った。翌日小さな潜り戸を開けて帰って来た。おばあちゃんはなんでも知っていると思った。きっと恋の季節だったのだろう。
その年は何年ぶりかの大雪で二階の窓からそり遊びをした。多分叔父がそりを作ってくれた。

幼稚園は電車に乗って金沢駅へそこからバスに乗って通った。おさとばぁが送り迎えをしてくれた。金沢駅で豆パンを買ってくれた。朝通勤のサラリーマンがスタンドでトーストを食べていた。焼けたパンに一斗缶に入ってるマーガリンを塗る。なんて良い香り!いつか食べよう。バスに乗って幼稚園に行った。保育士の叔母が働いていたらしい。クリスマスに天使の役をやったことを覚えている。

おばあちゃんは卯辰山にあったヘルスセンターに連れて行ってくれた。遊園地のような乗り物があった。広間で演芸が行われていたと思う。私が寂しくないように色々考えてくれてた。バレーも習いに行っていたらしい。広い体育館のようなところで踊った?気がする。
おばあちゃんが買い物に連れて行ってくれた。明日どこかに行くらしい。お土産に持っていくためのバナナを買いに行ったのだ。その頃の御使い物はバナナだってのですね。今ならなんだろう?もうメロンの時代でもないし・・マンゴー?スカイベリー?

おばあちゃんの思い出はいっぱいいっぱいある。小学生になってからも一夏おばあちゃんの所で過ごすこともあった。孫が来るからと言って五郎島の農家のおじいさんに西瓜を頼んでくれた。おじいさんは荷車に野菜をのせて売りに来た。おばあちゃんの所でお昼を食べる。縁側に腰掛けて弁当を食べていた。いまでは五郎島野菜は金沢のブランド野菜だ。私が少し大きくなっておばあちゃんの所に行った時、軽トラにおじいさんを乗せて息子さんが来ていた。荷車を引けなくなっても野菜は作っていたのかなぁ。

金沢のブランド野菜
五郎島金時は有名
浅野川線内灘駅

暑い日にはおばあちゃんが内灘の海に連れて行ってくれた。知り合いの海の家があった。おばあちゃんは店のおばさんと話す。私は青リンゴを一つ持って泳ぐ。沖のロープまで泳いでリンゴをかじる。ちょっと塩っぱい。庭のスモモやイチジクをとって食べた。スモモは誰かが捨てた種から大きくなって実がなったらしい。夏の甲子園が終わると夏休みも終わる。東京へ戻る日が来た。

私の結婚式に来てくれた。息子が生まれた時にも来てくれた。鎌倉を案内した。私が子供達を連れておばあちゃんの所に行った時、今の女はいいなと言われた。何が?子供を産むか産まないか女が決められる。そうか、今の女には子供を持つか持たないか発言できる。明治の女はできたら産むしかない。おばあちゃんは子供達を育て他人の世話もしていた。おじいちゃんは私が生まれる前に亡くなっていたから、100才までの残りの人生をひとりでいた。すぐ近くに親戚も住んでいたけど。かなりの年になってから叔母の家にいった。

私はおばあちゃんが亡くなったら世の中が終わるのではないかと漠然とした恐怖を抱いていた。でも世界はいつも通りに動いていた。決して良くなったとは言えない。戦争の時代を生きたおばあちゃんが今生きていたら悲しむだろう。
おばあちゃんのお葬式の時沢山泣いた。後から姉がそんな私を見て不思議に思ったと言った。きっとこれは母親が亡くなった時の思いなのだろう。おばあちゃんが最後まで持っていたのは御詠歌を歌う時のおリンと数本のお数珠だった。お数珠を一つもらった。

もっともっと沢山あるがそろそろ終わりにしよう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?