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【極超短編小説】消化試合じゃない

 何となく点けていたリビングのテレビから、サッカー中継が流れている。この時期ともなれば消化試合の様相を呈しているが、その中でひとり気を吐く選手がいる。私のお気に入りの選手だ。彼はどんなゲームでも、いつも全力だ。そのプレーからは勝負よりもサッカーが好きでたまらないことが伝わってくる。
 お気に入りの選手を見て、一瞬高揚したがすぐに現実に引き戻される。近頃、鬱々とした気分が日に日に増しているのだ。
 私は夕飯の箸を止めた。
 「ごちそうさま」
 「あら、あなたもう終わり?美味しくなかった?」
 テーブルの向かい側に座る妻は、箸を置いて私の顔を覗き込んだ。
 「いや、そんなことないよ。いつもと変わらず美味しかった。近頃、あまり食欲がなくてね」
 私は妻に見せるように笑顔を作って答えた。
 「それはいけないわね」
 妻はそうに言って、再び箸を手にした。
 長年連れ添っているから分かる。心配と不安が言葉と表情に滲んでいた。
 「少し早いけど、今晩はもう寝ることにするよ」
 私は椅子から立ち上がって、自室へと向かった。振り返ると妻が箸を置き、リモコンでテレビを消して、ぼんやりと視線を彷徨わせているのが見えた。その時。私は初めて妻の髪の毛に白いものが混じっているのに気づいた。


 自室のドアを後ろ手に閉めて、そのままベッドに仰向けに寝転んだ。
 私の食欲が落ちているのは本当だった。原因ははっきりしている。最近、強く感じるようになってきているのだ。『人生に失敗した。今回も』と。挫折とか絶望ほどの悲壮感はない。後悔あるいは敗北感に近い。そんな鬱屈とした思いが続いている。

 ベッドの上で両手を頭の下に組んで部屋を見渡す。この家を建てるとき、専用の書斎兼寝室を設計に盛り込んだ。広さはは20平米くらいだったか。
 ゆっくりと窓の方に視線を移す。真っ暗な空の中で、遠く鉄塔の先端で湿ったオレンジ色の明かりが点滅している。ここからバルコニーに出れば、町の夜景を一望できる。そういう立地に家を建てたのだから。
 確かに今の生活は若い頃の自分には、望むべくもないと思う。資産家ではないが、社会的にもそこそこの地位にあるし、日々の生活に困ることもない。独立した子どもたちも、金の無心をしない程度には、なんとかやっているようだ。世間は私が恵まれていると思うだろう。
 だが違う。何かが違う。これは私が望んでいた人生なのか?やはり。今回もどこかで間違えて、失敗したのだ。次の人生ではどこを変えればいいのだ?



 潮時だろう。やり直そう。私には過去に戻る能力があるのだから。
 現在の記憶をそのまま保って、過去の自分の望んだ時点に、その時の若い肉体で戻れる能力。戻りたい時点を強くイメージして、念じるだけでその能力は発動する。ほんの一瞬、意識を失って次の瞬間からは、また新しい人生が始まる。


 鉄塔のオレンジ色の明かりを見つめながら、能力を発動しようとしたとき、ノックする音が聞こえた。
 「あなた、ちょっといいかしら?」
 ドアの向こう側の妻の声は、少し震えている。
 「まだ寝てないよ。入っておいで」
 私は妻を招き入れ、私の横に座るようベッドをポンと叩いた。



 「わたしを選ばないで……」
 妻は悲しい笑顔だった。その目には薄っすらと涙が浮かんでいる。
 「ん?何の話だい?」
 私は尋ねた。妻の言葉は全く要領を得なかった。
 「また戻るつもりなんでしょう?過去へ……」
 妻は私の目を見つめる。
 「し、知っていたのか?私の能力のことを……でも、なぜ知っているんだ?」
 「あなたは過去に戻った瞬間、今のあなたが死んでしまうの。突然、魂が抜けたみたいに。それで、いつもいつも、わたしは悲しくて、胸が苦しくて、あなたに会いたくて気が変になりそうになって……気がつくといつもあなたが戻った過去の時点にわたしも戻っているの」
 妻の話に私は息を呑んだ。妻は窓の外へ視線を移す。オレンジ色の明かりの点滅をみているのだろう。
 「君を選ばないで、とはどういうことだい?」 
 これ以上、私と関わりを持ちたくないということか。
 「あなたは、過去に戻るたびに、必ず私を探してくれた。だから、あなたの望む人生にするためには、わたしを選んじゃだめなのかもしれない。今まで何度も何度も、いろんなパターンで人生をやり直して、唯一あなたが変えなかったのは、わたしと一緒になること……今度こそ、あなたに満足のいく人生を全うしてもらいたい。だから……わたしを選ばないで」
 妻は私の手を取って微笑んだ。その瞬間、私の中に溜まっていた澱んだ何かが霧散した。
 「止めた。もう過去には戻らない。君を選ばない人生はありえないよ。これまで何度も繰り返した人生で、君を選ばないなんて考えたこともなかった。このまま一緒にこの人生でもっと歳を取ろう。時間はまだ残ってる。結果はまだ出てないんだ。消化試合にはしないから」

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