【極超短編小説】裏:袖振り合うも
「一緒に死んでくれませんか? 僕と」
すれ違いざまに男が立ち止まって言った。ふわっと涼し気な風が吹いて、私の髪から今朝のシャンプーの匂いがほのかに香った瞬間だった。公園をゆっくりと歩いていた私は思わず立ち止まった。
「え? 今、何と?」
私は自分の耳を疑って咄嗟に聞き返してしまった。
元夫との約束の時間にはまだ少し早かった。それで待ち合わせ場所の近くの公園を散歩していた。道を尋ねられたわけでも、時間を聞かれたわけでもない。そんなことを言ってくる人に出会うとは、思いもよらなかった。
「僕と一緒に死んでくれませんか?」
男は私の目を見つめて、明瞭だが角のない声色で丁寧に繰り返した。
大きな荷物を肩から掛けている。50歳前後、瞼は少し重たげだったが、瞳に曇りはなかった。焦げ茶色の虹彩に囲まれた瞳孔は無限に通じる黒い穴を思わせた。
「どうして私が見ず知らずのあなたと……」
私は思わず言って後悔した。無言ですぐにでも立ち去るべきだった。だがあまりにも突然で突拍子も無い状況に正しい判断ができなかった。
「良い匂いがして、やっぱりひとりじゃ淋しいから」
「あなた、ここで何をしているのですか?」
男はふと思い出したように尋ねて、私のすぐ横で肩からかけていた大きな荷物を下ろした。形から察するとギターのケースか。
「待ち合わせの時間まで、少し間があったので散歩してました」
「待ち合わせ? この公園で?」
男は不思議そうに首をひねる。そして辺りを見渡した。
私もつられて、あらためて辺りを見渡す。この公園は町の唯一の高層ビルの正面にある。その高層ビルは全面ガラス張りで、町の住人はガラスビルと呼んでいる。ガラスビルには真っ青な初夏の空と、幻想の世界の最奥にあるように思わせる鉄塔が映り込んでいた。
「待ち合わせはこの公園ではないけど、夫を待ってます」
私を見つめるのは見ず知らずの男性。夫の存在を示しておくのがいいだろう。
「結婚しているのですか?」
「いえ、元……元夫ですけど」
なぜ、正直にもそんなことまで言ってしまった!? 男は覗き込むように私を見る。私はその瞳孔から本能的に目を逸らした。
「少し時間をください」
男はギターを抱えた。
「どうです? ひどい曲でしょう?」
ベンチに座って男は歌い終わると、私も横に座るように手招きした。
「私には分からないわ。歌は上手だと思うけど」
「そうですか。評価に値しないほどだめでしたか。やはり死んでみようか……ああ、あそこから飛び降りてしまえば……」
男は顔を上げて遠くを望む。
「そんな死ぬなんて」
私はそう言って男の視線の先に目をやった。ガラスビルに映る虚像ではなく、現実の鉄塔が遠くに見えた。それは町の中心に聳える黒い錐体の建造物だった。その形状がゆえに黒いものが空の一点から下に向かって吐き出されているようにも、逆に黒いものが下から空の一点に向かって吸い込まれているようにも見えた。
「元夫?離婚したのですか?」
男は再びふと思い出したかのように尋ねる。
「ええ。離婚しました。これから会う人とは」
「なぜ離婚したのですか?」
男の口角に力のない笑みが含まれていた。嘲笑かあるいは興味?
「それは、その……聞きたいですか?」
男の興味を他のことに惹いて自殺を思いとどまらせよう。このまま私が立ち去った後、男が自殺するようなことになったら気分が悪い。
「去年、子どもが大学を卒業して、就職したのを機に離婚しました。親としての義務は終わったし、それに、それまで妻としてもできる限りのことはやってきたし、これからは自分のために生きようと思ったの」
「自分のために生きる?」
男は独り言のように聞き返して、ポロロロンとギターを鳴らす。
「そう、色んなものから自由になって好きなように生きようと」
「今まで束縛されていたのですか?」
ポロロロンとさっきより沈んだ音色。マイナーコードというのか。
「束縛というわけではなかったけど、やりたくてもできないことが沢山あったわ。あなた結婚は?」
結婚したことがあるなら気持ちは分かるでしょ、との思いが私にそう言わせてしまったが、言った瞬間に後悔した。
「何度かあるなぁ。3、4回……かな。今は誰とも婚姻関係はないと思う」
ポロロロンと今度は澄んだ音色が鳴る。その音でさっきの私の後悔は杞憂と分かった。
「3、4回って……」
「相手から言われるままに、そうしてきただけ」
男はクスッと笑った。自殺から気が逸れたか。
私は腕時計をちらりと見た。もうそろそろ元夫との待ち合わせの時間だ。
「自由になるために離婚したと。ではそもそも、なぜ結婚したのですか?」
ポロロロンと何だか落ち着かない音色。不協和音とかいうものか。
「それは……若気の至りというか、まあ愛していたから……」
「今は愛していないと?」
「それは……」
私は言葉に窮してしまう。
「愛していないから離婚できたと?」
「愛していないことはないわ。ただ、昔の若い頃の愛とは違うと思う。激しくはなくても、穏やかというか……だからお互いを縛らないでいられると思うわ。離婚して自由になるのもそういうことかな。今日だって、お互いの近況報告と食事を一緒にする予定なの。憎み合っているわけじゃないから、対等なパートナーとして、いい理解者同士として付き合っているの」
「旦那さん、元夫の方もそう思っている?」
「そうだと思うけど……」
私が離婚のことを切り出したとき、夫はあっさりと同意してくれた。でもその時の夫の表情はどんな風だった? どんな顔で私を見ていた? あの時は、自分自身の思いを言葉にするだけで精一杯で、夫のことはよく見ていなかった?
「元、旦那さんとの馴れ初めは?」
男は期待するような笑みで尋ねる。その表情から、もう私は待ち合わせのガラスビルへ向かってもいいかな、と思った。
「恥ずかしくて、あまり人には言ってないのだけど……町中で声を掛けられたの。『すごくいい香りがするね』って言って」
自分の言葉に思わずハッとして、私は男の顔を見つめた。
「僕は求められるままに何度か結婚した。でもね、結婚する前には相手に必ず話しておいたんだ。こいつのことをね」
男は抱えたギターを頬ずりするように抱きしめた。
「どういうこと?」
私は初めてその男に興味を抱いて尋ねた。
「若い頃、偶然こいつに出会ったんだ。一目惚れだったよ。それからずっと結婚しているようなものさ。ふたりで良い曲を歌えないと、心が離れてしまったようで、淋しくて死んでしまいたくなるんだ。出会ったときから今も僕の気持ちは少しも変わってないな」
男は恍惚とした眼差しをギターに向ける。
「もう死ぬ気なんてなくなったかしら。私もあなたと心中することはできないわ。やりたいことがたくさんあるから」
私はベンチから立ち上がった。
「そうだね。寂しくても歌い続けなきゃね」
男はギターをケースに仕舞って歩き出した。
腕時計を見ると、約束の時間を少し過ぎていた。私は待ち合わせ場所のガラスビルへ急いだ。
ビルに近づいていくと、エントランス付近に人が次々に集まって行くのが見えた。どうしたことかと思い、騒然とした人だかりに割って入る。
「キャー!」
「おーい、だれか!」
「救急車をよんでくれ!」
「飛び降りだ!」
慌ただしい声があちらこちらから響く。
人垣の間から見えたのは、仰向けに横たわる元夫だった。その顔にはひどく淋しげな表情が浮かんでいた。
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