【本要約】嫌われる勇気
この本の内容を一言で表すと、「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」
○あなたの「不幸」はあなた自身が選んだものである
「不幸であること」が自分にとっての「善」だと判断した。
自分で不幸になることを選択したということは、言い換えれば「生き方」は、再び自分で選び直すことが可能である。
変われないでいるのは、自らに対して「変わらない」という決断を下しているから。
人は、色々と不満はあったとしても、「このままの私」でいることの方が楽であり、安心。
・ライフスタイルの変え方
「今のライフスタイルをやめる」という決心をする。
「もし何々だったら」と可能性の中に生きているうちは、変わることなどできない。
○自分のことが嫌い、短所ばかり目につくのはなぜか?
・「自分を好きにならないでおこう」と決心しているから
・他者から嫌われ、対人関係の中で傷つくことを過剰に恐れているから
つまり、「他者との関係の中で傷つかないこと」を目的としている。
その目的を叶えるために、自分の短所を見つけ、自分のことを嫌いになり、対人関係に踏み出さない人間になって仕舞えばいいと考える。
アドラーは、「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」と断言している。
○劣等コンプレックス
劣等コンプレックスとは、自からの劣等感をある種の言い訳に使い始めた状態のこと
例:私は学歴が低いから成功できない、私は器量が悪いから結婚できない
本来は何の因果関係も無いところに、あたかも因果関係があるかのように自らを説明し、納得させてしまう。
○優越コンプレックス
あたかも自分が優れているかのように振る舞い、偽りの優越感に浸る
自慢する人は、劣等感を感じているから
⭐︎劣等コンプレックスと優越コンプレックスは繋がっている
○不幸自慢
不幸であることによって「特別」であろうとし、不幸であるという1点において、人の上に立とうとする。
自らの不幸を「特別」であるための武器として使っている限り、その人は永遠に不幸を必要とすることになる。
○人生は他者との競争ではない
誰かと競争することなく、ただ前を向いて歩いて行けばいい
健全な劣等感とは、他者との比較の中で生まれるのではなく、「理想の自分」との比較から生まれるもの。
人間は同じではないけれど対等である。
我々が歩くのは、誰かと競争するためではない。今の自分よりも前に進もうとすることにこそ価値がある。
対人関係の軸に「競争」があると、人は対人関係の悩みから逃れられず、不幸から逃れることができない。
常に自分と他者とを引き比べ、あの人には勝った、この人には負けたと考えていると、他者全体のことを、ひいては世界のことを「敵」だとみなすようになる。
幸せそうにしている他者を、心から祝福することが出来ないのは、他者の幸福を「私の負け」であるかのように捉えているから。
「人々はわたしの仲間なのだ」と実感できていれば、世界の見え方は全く違うものになる。
人は対人関係の中で、「わたしは正しいのだ」と確信した瞬間、既に権力争いに足を踏み入れている。
誤りを認めること、謝罪の言葉を述べること、権力争いから降りること、これらはいずれも「負け」ではない
○アドラー心理学で掲げられている、人間の行動面と精神面のあり方に関する目標
●行動面の目標
・自立すること
・社会と調和して暮らせること
●心理面の目標
・わたしには能力がある、という認識
・人々はわたしの仲間である、という認識
これらの目標は「人生のタスク」と向き合うことで達成できる
アドラーは
・仕事にタスク
・交友のタスク
・愛のタスク
これらをまとめて「人生のタスク」と呼び、これは、1人の個人が、社会的な存在として生きていこうとする時、直面せざるを得ない対人関係である。
アドラー心理学とは、他者を変えるための心理学ではなく、自分が変わる為の心理学。
「所有の心理学」ではなく「使用の心理学」
アドラーは、さまざまな口実を設けて人生のタスクを回避しようとする事態を指して、「人生の嘘」と呼んだ
今自分の置かれている状況、その責任を誰かに転嫁する。他者のせいにしたり、環境のせいにしたりすることで、人生のタスクから逃げている。
アドラー心理学とは、「所有の心理学」ではなく「使用の心理学」
何が与えられているかではなく、与えられたものをどう使うか
アドラー心理学では、他者から承認を求めることを否定する
我々は「他者の期待を満たすために生きているのではない」し、他者の期待など、満たす必要はない
他者からの評価ばかりを気にしていると、最終的には他者の人生を生きることになる
他者もまた「あなたの期待を満たすために生きているのではない」
○課題の分離
我々は「これは誰の課題なのか?」という視点から、自分の課題と他者の課題を分離していく必要があり、他者の課題には踏み込まないこと!
あらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むこと、あるいは自分の課題に土足で踏み込まれること、によって起こされる
誰の課題かを見分ける方法
→その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?を考える
自分を変えることができるのは自分しかいない!
他者の課題には介入せず、自分の課題には誰1人として介入させない。
課題の分離は、対人関係の最終目標ではない。むしろ入り口かつ対人関係の出発点である。
他者の期待を満たすように生きること、そして自分の人生を他人任せにすること。これは、自分に嘘をつき、周囲の人々に対しても嘘をつき続ける生き方!
他者の課題に介入することこそ、自己中心的な発想である!
自由とは、他者から嫌われること。
他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを恐れず、承認されないかも知れないというコストを支払わない限り、自分の生き方を貫くことはできない→自由になれない
○全体論
→人間をこれ以上分離できない存在だととらえ、「全体としてのわたし」を考えること
○対人関係のゴールは「共同体感覚」
他者を仲間だとみなし、そこに「自分の居場所がある」と感じられることを、共同体感覚といい、幸福なる対人関係のあり方を考える、最も重要な指標である。
社会の最小単位は「わたしとあなた」であり、そこを起点に自己への執着を、他者への関心に切り替えていく。
「課題の分離」ができておらず、承認欲求に囚われている人もまた、極めて自己中心的である。
「他者からどう見られているか」ばかりを気にかける生き方こそ、「わたし」にしか関心を持たない自己中心的なライフスタイルである。
「わたし」は人生の主人公でありながら、あくまでも共同体の一員であり、全体の一部である。あなたは共同体の一部であって、中心ではない。
「ここにいてもいいんだ」という所属感を得るには、共同体に対して自らが積極的にコミットして行く必要がある。つまり、仕事、交友、愛という対人関係のタスクを回避することなく、自ら足を踏み出していく。
「この人はわたしに何を与えてくれるのか?」ではなく、「わたしはこの人に何を与えられるか?」を考えなければならない。それが共同体へのコミット。
⭐︎所属感とは、生まれながらに与えられるものではなく、自らの手で獲得していくもの。
対人関係の中で困難にぶつかった時、出口が見えなくなってしまった時はまず「より大きい共同体の声を聞く」べし!
仮にあなたの学校で、教師が絶対的な権力者として、振る舞っていたとする。しかしそんな権力や権威は学校という小さな共同体だけで通用するコモセンスであって、それ以上のものではない。
「人間社会」という共同体で考えるのなら、あなたも教師も対等の「人間」。理不尽な要求を突きつけられたのなら、正面から異を唱えて構わない。
関係が壊れることだけを恐れて生きるのは、他者のために生きる不自由な生き方である!
目の前の小さな共同体に固執することはない。もっと他の「わたしとあなた」、もっと他の「みんな」、もっと他の共同体は、必ず存在する。
○褒めても叱ってもいけない
褒める・しかる→「縦の関係」としてとらえている
アドラー心理学では、あるゆる「縦の関係」を否定し、すべての対人関係を「横の関係」とすることを提唱している。
そもそも、劣等感とは、縦の関係の中から生じてくる意識
人は褒められることによって「自分には能力がない」という信念を形成している
もしもあなたが、褒めてもらうことに喜びを感じているとすれば、それは縦の関係に従属し、「自分には能力がない」と認めて居るのと同じ。褒めることとは「能力のある人が、能力のない人に下す評価」である。
「勇気づけ(横の関係に基づく援助のこと)」のアプローチで1番大切なのは、他者を「評価」しない、ということ。
人は感謝の言葉を聞いた時、自らが他者に貢献できたことを知る。
○どうすれば人は「勇気」を持つことができるか
「人は自分に価値があると思えた時にだけ、勇気を持てる」
人は「わたしは共同体にとって有益なのだ」と思えた時にこそ、自らの価値を実感できる。
「わたしは共同体にとって有益なのだ」とは
→共同体、つまり他者に働きかけ、「わたしは誰かの役に立っている」と思えること。
他者から「良い」と評価されるのではなく、自らの主観によって「わたしは他社に貢献できている」と思えること
まずは他者との間に、一つでもいいから横の関係を築いて行くことからスタートしよう
人間は「縦の関係」と「横の関係」を人によって臨機応変に使い分けるほど器用ではない。
誰か1人とでも縦の関係を築いているとしたら、自分でも気づかないうちに、あらゆる対人関係を「縦」でとらえている。
横の関係を築くには、誰とでも友達付き合いをしなさい、親友のように振る舞いなさい、と言っているのではない。意識の上で対等であること、そして主張すべきは堂々と主張することが大切。
○人前でありのままの自分を振る舞えない
解決策→共同体感覚。
自己への執着を他者への関心に切り替え、共同体感覚を持てるようになること。
そこで必要になるのが「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」の3つ
・自己受容
「自己肯定」とは、出来もしないのに「わたしはできる」「わたしは強い」と自らに暗示をかけること。これは優越コンプレックスにも結びつく発想であり、自らに嘘をつく生き方であるとも言える。
「自己受容」とは、仮にできないのだとしたら、その「できない自分」をありのままに受け入れ、できるようになるべく前に進んでいくこと。自ら嘘をつくものではない。
「何が与えられているか」について、変えることはできないが、「与えられたものをどう使うか」については変えていくことができる。だったら、「変えられないもの」に注目するのではなく、「変えられるもの」に注目するしかない。
・他者信頼
「誰かを無条件に信頼したところで、裏切られるだけだ」と思うことがある。しかし、裏切るか裏切らないかを決めるのは、自分ではない。それは他者の課題であり、あなたはただ、「わたしがどうするか」だけを考えればいい。
無条件の信頼とは、対人関係を良くするため、横の関係を築いていくための「手段」
信頼することを怖れていたら、結局は誰とも深い関係を気づくことができない!
裏切られることの恐怖を踏み越える勇気はどこから出てくるのか?
→自己受容
ありのままの自分を受け入れ「自分にできること」と「自分にはできないこと」を見極めることさえできれば、裏切りが他者の課題であることも理解できるし、他者信頼に踏み込むことも難しくなくなる。
・他者貢献とは、「わたし」を捨てて誰かに尽くすことではなく、むしろ「わたし」の価値を実感するためにこそなされるもの
人生の調和を欠いた、誤ったライフスタイル
→対人関係がうまくいかないのは、自己受容や他者信頼、他者貢献ができていないことが問題なのに、どうでもいいはずのごく一部にだけ焦点を当てて、そこから世界全体を評価しようとしている。
人間にとって最大の不幸は「自分を好きになれないこと」である。
「わたしは共同体にとって有益である」「わたしは誰かの役に立っている」という思いだけが、自らに価値があることを実感させてくれる。
この場合の他者貢献とは、目に見える貢献でなくとも構わず、自分が貢献感を持てればそれでいい。
すなわち「幸福とは、貢献感である」⇦幸福の定義
貢献感を得るための手段が「他者から承認されること」になってしまうと、結局は他者の望み通りの人生を歩まざるを得ないし、承認欲求を通じて得られた貢献感には、自由がない。
共同体感覚さえあれば、他者からの承認はいらない。
つまり、
人は「わたしは誰かの役に立てている」と思えた時にだけ、自らの価値を実感することができる。しかしそこでの貢献は、目に見える形でなくても構わない。誰かの役に立てているという主観的な感覚、つまり「貢献感」があればそれでいい。そして幸福とは「貢献感」のこと。
多くの子どもたちは、最初の段階で「特別によくあろう」とする。しかしそれが叶わなかった場合、今度は一転して「特別に悪くあろう」とする。
特別によくろうとすることも、特別に悪くあろうとすることも目的は同じで、他者の注目を集め、「普通」の状態から脱し、「特別な存在」になること。
問題行動に走る子供たちは、健全な努力を回避したまま、他者の注目を集めようとする。これをアドラー心理学では「安直な優越性の追求」と呼ぶ。
普通であることの勇気が大切!
普通であることは、無能なのではない。わざわざ自らの優越性を追求する必要などない。
○人生とは連続する刹那である
我々は「今、ここ」にしか生きることができない。
計画的な人生など、それが必要か不必要かという以前に、不可能。
ダンスを踊っている「今、ここ」が充実していればそれでいい。
人生に目的は存在しない。
「今、ここ」に強烈なスポットライトを当てていたら、過去も未来も見えなくなる
我々はもっと「今、ここ」だけを真剣に生きるべき。過去が見えるような気がしたり、未来が予測できるような気がしたししてしまうのは、あなたが「今、ここ」を真剣に生きておらず、うすぼんやりとした光の中に生きている証。
過去にどんなことがあったかなど、あなたの「今、ここ」には何の関係もないし、未来はどうなるかなど「今、ここ」で考える問題ではない。
目標などなくていい。「今、ここ」を真剣に生きること、それ自体がダンスなのだ。
人生は常に完結している
人生における最大の嘘、それは「今、ここ」を生きないこと!
人生の意味とは何か?人は何のために生きるのか?
「一般的な人生の意味はない、人生の意味は、あなたが自分自身に与えるもの」
我々は困難に見舞われた時にこそ前を見て、「これから何ができるのか?」を考えるべき!
アドラー心理学では、自由なる人生の大きな指針として「導きの星」というものを掲げる。
その星は他者貢献である。
あなたがどんな刹那を送っていようと、たとえあなたを嫌う人がいようと、「他者に貢献するのだ」という導きの星さえ見失わなければ、迷うことはないし、何をしてもいい。嫌われる人には嫌われ、自由に生きて構わない。
自らの上空に他者貢献という星を掲げていれば、常に幸福と共にあり、仲間と共にある。
そして、刹那としての「今、ここ」を真剣に踊り、真剣に生きよう。過去も見ないし、未来も見ない。完結した刹那を、ダンスをするように生きるのだ。誰かと競争する必要もなく、目的地もいらない。踊っていればどこかにたどり着くだろう。
世界とは、他の誰かが変えてくれるものではなく、ただ「わたし」によってしか変わり得ない。
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