見出し画像

「怪物」で泣いた話。【2023年6月11日】


『今日』


7時20分 起床。もっと早く起きたいと思うが、どうもダラダラと布団の上で過ごしてしまう。
9時~12時 絵の練習をした後、サムネイル用のイラストを描く。
14時~18時 gimpというフリーソフトで動画のサムネイル作成。
夕食を冷凍の焼き鳥とサラダで済ませ、22時まで引き続き作業。


『「怪物」で泣いた話。』


「景虎と阿南」というタイトルで公開予定の動画について、すでに17話分の出力は完了しており、今日までに11枚ほどのサムネイルが完成している。
上手くいけば来週にサムネイル作成を終わらせて、再来週ぐらいに動画も公開できるかもしれない。
狭い界隈の中でも全く注目度の無い僕の動画だが、果たしてどれだけの人が見てくれるのだろうか。

話は変わるが、昨日(6/10,土)は朝から是枝監督の「怪物」を見に行った。
すごく面白い映画で、今後の創作活動の上でも教えが多いものだった。
・会話と映像、人物の動きのリズム。
・展開のスピードは保ちつつ、ストーリーや伏線に凝り固まらないこと。
・どの画角で、どんな映像を見せて登場人物の心情を映すのか。
etc…
この学びを詳しく書こうとしたところ、それだけで1000文字を超える大変読みづらい文章になったので、箇条書きで済ませることにする。

感想もまとめておきたいと思う。最初に言うが、無駄に長い。
(以下、ネタバレがあります。)

一緒に見た相方が教えてくれた「映像にバイアスがかかっている」という指摘は興味深い部分であった。
この映画は、”ある出来事”を多人数の視点から解きほどいていく形でストーリーが進んでいくが、各パートの主人公から見た映像に「決めつけ」の部分が入っているのである。
「教師たちは、いじめ問題に真面目に対処していないに違いない」
「この人間は悪い奴に違いない」
そういう思い込みがそれぞれにあり、本来はそうでないにもかかわらず、その人物の視点ではそれが真実となっている。
映像の中でも、その思い込みがさも事実であるように扱われる。
最初の30分間、僕は本当に自然に、そのバイアスの中に巻き込まれた。

個人的な意見として、この映画のテーマは「社会と人の歪み」(あるいは、不寛容)であるように感じている。
いま僕たちが生きているこの社会は、実際に様々な歪みを抱えている。
その歪みというのは、LGBTの問題であったり、母子家庭の問題であったり、追い詰められる教師の問題であったりする。
社会的立場のために存在しない罪を着せたり、着せられたりすることだってある。
そしてストーリーが展開するにつれて、それぞれの人物が抱えた「歪み」が徐々に露わになっていく。
しかもこの「歪み」は、露わになるだけでなくどんどんと”増幅”されていくのである。
母子家庭のお母さんも、小学生の男の子も、担任の先生も、校長先生も、それぞれの立場ではやるべきことをやっているとも思えるのだが、事態は収拾するどころか、どんどん悪化していく。
映画を見ながら、この「歪みの増幅」がなぜ起こるのかという事をずっと考えていた。

社会というものは、人間の一人一人、あるいは組織(学校や会社など)が歪んでいないことを求める。
道徳的に綺麗であり、理屈が整っていることを求める。
だから僕らは、自分や、自分の所属している組織に歪みを見つけたとしても、それをひた隠しにしてクリーンであることを装う。
しかしそれは結局、装うだけのことである。
臭いものにフタをして、他人に見えないようにしているだけのことである。
そのことが、このストーリーの中での「歪みの増幅」を生んでいるのではないかと思った。
問題は本質的に解決されず、苦しみはそれぞれの中に残ったままだ。

ストーリーの終盤に、二人の男の子が嵐の中を秘密基地(廃電車)に向かうシーンがある。
この二人の男の子はお互いへの愛情を持っているが、それが社会的に許容され難い関係であることを知っている。
それゆえに、母親にさえ自分が性的マイノリティであることを告白できず、苦しんでいる。
母親でさえ、子供が歪まずに道徳的に整っていることを、無意識下の内に求めているのである。

大雨の中、秘密基地にたどり着いた二人。
土砂崩れの前触れの山鳴りを「生まれ変わる音だ」と表現した時、ああ、この二人は、土砂崩れとともに社会の歪みの中に消えていくのだ、と思った。
社会って不条理だよな。
そういう話で終わるんだと思った。
しかしラストシーンはそうではなかった。
美しい音楽が流れ、倒れた秘密基地から抜け出し、暗い水路を光に向かって這い進む二人。
やがて水路を抜け、雨上がりの晴れ渡った空の下を二人は駆けていく。
この二人が生きているのか、そうではないのかという議論はあるようだが、そこはあまり問題ではないように感じる。
(ちなみに相方は、銀河鉄道の夜みたい、と言っていた。)

僕はこのシーンから、
「歪んでいても、それって綺麗だよね」
と伝えられたような気がした。
人間って一人一人かたちが違って、それぞれに歪んでるんだけど、でもそこが美しいんだよね、と。
そうか、これって綺麗なことなんだと、気がつかされた。
光の中を笑いながら駆ける二人の姿を見ながら、このメッセージの強さと優しさに心を打たれ、目が潤んだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?