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【エッセイ】親に嫌われていると腹落ちしたら、片付けることができました②

私が行ったのは断捨離でもミニマリズムでもない。ただのゴミ捨てだ!

 
 瓶の群れから始まった私の片付けを支えてくれたのは、やはりユーチューブだった。ユーチューブ様々だ。
 片付けのヒントを話すミニマリストさんの動画をイヤホンでききながら、ガンガン片付けていく。感情論より理屈を話してくれるとやりやすいことに気づく。
 
 でも、私はミニマリストではない。やっていることは、たぶん断捨離とも違う。

→自分が必要なもの、好きなものの所有を最小限にして快適に暮らすミニマリスト。
→不要なものとオサラバし、物への執着を手放して快適に生きるための断捨離。

 私はそこまで至らない。出てくるのは本当の「ゴミ」だった。手放すとか執着以前の問題。ただ溜めたゴミを捨てただけ。それだけで45リットルのゴミ袋に20袋ほど集まった。
 例えば不要なのに何故か捨てられないとか、思い出がつまって悩ましいとか、いつか使うだろうストック品とか、そんなはものはゴミ袋の中にはなかった。即決のゴミしかなかった。
 5年前から溜め込んた大量の紙切れ。茶色いシミのできた絶対に着ない服。10年以上押し入れの奥にいた絶対に使わないクッション。ホコリを被って思い出せないようなものばかりだ。
 本当に45リットルのゴミ袋20袋分、ゴミしかなかった。
 正真正銘、私はゴミと暮らしていた。ああ、家族に申し訳ない。

『どうせ私は片付けられない』

 小さい頃に親に言われたことを楯にして、そんな言い訳をし続けた自分をまず捨てよう。

 ものへの執着はちゃんとある。使わないけど、とりあえずキープみたいなものもたくさんある。
 しかし、「絶対にゴミと言えるもの」は捨てた。たったそれだけなのに、ようやくマトモになれた気がした。
 ゴミを捨てただけとはいえ、やっとスタートラインに立てたような、快い気分だった。

 そんな当たり前のことができなかったのは何故なのか。

 長年溜め込んだゴミは捨てても捨ててもしつこく現れるので、嫌でも自分の性格について考えるようになった。



自己否定は行動しない自分への言い訳だった


 瓶に続いて、ゴミを捨てていくうちに気づいたのは、 
「私なんかが使うものなんて、どうだっていい」
 と言って買ったものが多いこと。
 自己否定して、誰かに守って欲しかったし、好かれない自分への言い訳をしていた。
 こんな私だから嫌われる。可哀想でしょ?
 何もしなくてもいいでしょ?
 というのが根底にある。クソである。
 私なんかが高いものを買ってはいけない。人間としての価値がないくせに服が欲しいなんて言えない。色落ちした雑巾間近な黒Tシャツで充分だ。と、思って服をなかなか買わなかった。夫や息子がはけなくなったスボンをダボダボのままはいていたし、冬は毛玉だらけのパーカーか黒フリースばかり着ていた。私なんて、という精神と共に。
 大変みすぼらしかったと思われる。
 大変鬱陶しかったと思われる。
 夫と子どもに「お母さん、お願いだから服を買って」と言われて買ったまともな服が2着あり、それを外出着にしていた。
 しかし。私は親に嫌われていると腹落ちした中年女性だ。
「どうせ私なんて親に嫌われている」は「かわいそうな私」のアピールだ。それをやめて、親に嫌われる自分をただ認めた。だから、もう自己否定して自分を守る必要はない。
 「どうせ自分なんて」といっていれば「かわいそうな自分」ままでいられる。「かわいそう」の中で傷つかずにいられる。
 でも、「かわいそうな自分」は誰にも救ってもらえない。

 親に嫌われていると認める。
 最大の肉親に嫌われている。
 それを受け止める。
 誰のせいにもしない。
 ちゃんと傷つく。
 ちゃんと悲しむ。
 ちゃんと理解する。
 親に嫌われていても死なないことを理解する。
 親に嫌われていたとて
 今の私なら肉体も精神も死なない。
 親に嫌われても地球は回ってるし
 太陽も東から出て西に沈む

 ここまでやり切り、ようやく地に足がついて自分と向き合えた今、「どうせ私なんて」という信念を中心に服をもう選ばない。
 色落ち黒いTシャツ、夫にもらった諸々の服、全く気に入っていないよれよれの服たち、見た目からして天寿を全うしている服たちを処分した。

(新しい自分になるためにゴミを捨てている)

 そう思うことができた。
 もう自己否定の服を買わない。
 嫌いな自分を隠すために服を買わない。
 自分の存在を消したいからって黒子みたいな服を選ばない。
 そう決めたら、次に気になったのは目隠しカーテンだった。
 玄関のそばにある窓は、型ガラスの窓なので一応外から見えないけれどシルエットは映ってしまう。お隣さんの勝手口に近いため、何だか気になる。プライバシーのためにも目隠しカーテンをつけたのだけれど、全く好みに合わない赤いカーテンを掛けていた。当時の私はうっすら風水を気にして明るい色を選んだ。改めてみると、赤はともかくデザインがとにかくダサい。猛烈にダッセェ。何故それを選んだのか、理解不能なほどだった。風水に謝りたい。
 私は迷うことなく捨てた。

「クソ底辺の私はお隣さんから隠れなければならない。同時に風水で棚ぼた的幸運が欲しい」

という、卑屈と強欲という最悪な思考で選ばれた一品なので1ミリも気に入っていない。だから5年に一度しか洗濯をしていない。つまりめちゃくちゃ汚かった。即捨てした私は違うところに掛けていた青い暖簾を代用する。
 赤いカーテンより生地が薄く、光を取り込むので明るい。でも適度にプライバシーを守ってくれる。
 全然好きじゃない、むしろ嫌いなデザインのカーテンがなくなり、明るくなった玄関が好きになった。更に、玄関の余計なものをもっと片付けて、もっといい空間にしたい。そんな思いが自然と湧き出た。
 片付けていくほどに考え方がどんどん変わっていくのを感じた。

 どうせ私なんて?
 そうやって逃げたまま、人生終わっていいのか?
 

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