「優しい」って良い事?
「○○君って凄く優しいね」
その言葉を素直に受け止めることが出来なくなったのはいつだろう。
「相手の気持ちを考えて行動しましょう。思いやりの心ですよ。」
小学生時代から先生に口酸っぱく言われていた。
私の場合は、言われなくても元々出来ていた。
もっと言うとそうしたかったし、そうせざるを得なかった。
「○○君、独りぼっちだ。可哀想」
そんな感情が無意識に浮かんでくる。仮にその子がクラスに馴染めていない子や嫌われてしまっている子でも、私は助けたいと思うし、助ける。
自分の事かのように考えてしまうのだ。
「自分があの時、手を差し伸べていたらあの子はこうならなかったな」
となんだか自分を責めて思い詰めてしまう。
自分が何かを手伝う・助ける・思いを汲んだ行動をする事により、相手に気持ちよくなってもらえたら嬉しい。また、そんな行いを出来ている自分も誇らしい。
「こんなこと言ったら、嫌われちゃう」
誰かを助けたい一心で優しくしていた、それは間違いない。
ただ、優しくせざるを得なかったとも言える。小学生の時から周りからの見られ方を気にしていた。だから強気に反対意見なんかを発言できる子が羨ましかったりした。後先を考えず言動出来る思考、周りからの評価に囚われていない、言わば解放されている状態。私もそうなりたかった。
「優しすぎて、気持ち悪い」
「○○君、キモイ~」
いつからだろう。優しいことは良くないことなのか?と疑い始めたのは。
あれは小学校4年生だった。校外学習のバスの席を決める際、私はクラスにあまり馴染めていなかった子が隣に座る事になった。相手がいなそうで可哀想だったので私から誘った。
それからだ、どことなく女子からの視線を感じる。
「○○君、あの子の隣なの?なんか○○君って優しすぎてキモくない?」
女の子たちが何人かで私に視線を送りながらそう言っていた。
それからはクラスの女の子たちから、小学生特有の私の所有物を汚染物かのように扱い爆弾ゲームのように渡す、なんて事もされたりした。
それが数か月続いた。
でも、みんながみんなそうじゃない。私が当時好きだった女の子が
「○○君可哀想だし、辞めなよ!」
っと言ってくれた。私はそれでよりその女の子の事が好きになった。
その女の子は、私が嫌がらせを受けている期間も私と遊んでくれた。
「彼女いないの?優しすぎるんだよきっと」
中学・高校になってそのような嫌がらせは起きなかった。
でも、「優しい事は良い事なのか?」という思いはより増していた。
いわゆる年頃の年齢に差し掛かり、周りは異性に対しての話をする。
勿論私も興味津々だ。でも決まって言われるのは「優しすぎ」や
「恋愛対象じゃない」。ここで私は決心した。
「○○君ってそんなキャラだった?」
優しいのは悪では無い。ただ過度な優しさ、また優しい以外の特徴が無いとこれから私の居場所は無くなるな。中学2年の時にそれに気付いた。
「見てろ、ここから面白キャラでクラスの覇権を握ってやるから」
そう決心してからは、真面目に授業を受けながらも要所要所でボケたり、
その時の自分なりの変な動きを休み時間にしてみたり、時には誰かをいじったり。そのように試行錯誤した結果、当時の学年では皆知っている位女の子からもモテることが出来た。でも、相変わらず周りからの見られ方は気にして、出来るだけ嫌われないように。
「ただのいい奴でも良くない?むしろ素晴らしいじゃん」
最近はよく「ただの良い奴」という言葉を耳にする。誉め言葉ではなく、どちらかというと蔑む言葉だ。優しい・真面目以外の取り柄が無い人の総称と私は認識している。
でも、それだけで十分じゃないかと思う。逆に言うと、他の要素が薄れてしまう程の優しさ・勤勉さを持っている、と捉えられる。
また、そう周りから言われている人に限って話すと面白かったりする。
普段見えない闇の部分が見え隠れしたり、優しい=人の感情を想像してそれに沿った言動をする能力に長けている為、「私がこういうネタ好きだろうな」という話を提供してくれたりする。
キャラの立ち方という視点で見ると弱いと感じるのかもしれないが、
別にお笑い番組を作る訳でもないし、みんながみんな溢れんばかりの逸話、切れ味抜群のキャラだったら、きっと疲れるし、味が濃くて胃もたれしてしまう。
だが「優しい人優しい人」ばかり言われると、そこしか特徴ないのかな?と自分をどうしても疑ってしまうのも事実。
私だったらこう言い換える。「素敵な人」
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?