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【母】

私の母たつ子は、牛頭町の私にとってのおじいちゃんおばあちゃんの末娘として生まれた。

御飯の支度や洗濯等の家事はおばあちゃんがいつもしていたし、上に姉であるぶうわもいたので、あまり家のことをする必要はなく育ったようだが、お手伝いもする良い子だった。

牛頭町では、子供部屋はなかったので、母は学校の宿題や試験勉強はもっぱら、皆が居るリビングでしていた。皆がTVを見ている中にいても気にならずに出来る人で、勉強もよくできた。

母は右目の視力が弱く、右目には少女漫画のキラキラ輝く瞳の中に描かれるような、
白い小さい丸が一つあるのだが、
それは母の小学校低学年の頃の予期せぬ出来事によ
るものだ。

ある日小学生だった母が家庭科の授業でのこと、
エプロンか座布団カバーを縫う課題があり、生徒は皆それぞれに針を持ち、糸を通し球留めをして作業に取り掛かる。
と、母が後ろの席の友達に呼ばれ、振り向いたその瞬間「痛ッ」と目がチクリとして
パっと顔を背け目をこすった。周りのお友達も
「どうしたん?大丈夫?」と心配し、聞いてくれたそうだが、その時は母も何のことはないと気にも留めなかった。

その後帰宅してから母の目を見たおじいちゃんは慌てふためき、急いで母を近くの眼科に連れていった。黴菌が入ったのか、目をこすった時に傷ができたのかと、先生も診てくれるのだが原因がわからない。何か思い当たることは無いかと問われるも、母
も「運動場で遊んだ時に土いじりをしていたし、その手で目をこすったのかな?」というくらいだった。
一旦目薬が処方されたそうなのだが、母の目の状態は急激に悪化する。
おじいちゃんはこれはただ事ではないと、別の病院をまわり、ようやく3つ目の病院の院長先生が、「これは、突き目だ!すぐに●●の大学病院へ行きなさい。紹介状を書くし、連絡しておくから。これは一刻を争う」と原因を特定。
親子はその足で、大学病院へと向い、母は即日入院手術となった。

●●の院長先生が言った「突き目」と聞いて母はようやく『あ、そういえば』と裁縫の授業の時、後ろの席の友達によばれ振り向いた際にチクリとしたこと。そのチクリの正体が、隣の席の友達の牽引した針であったことに思い当たった。

母も「●●先生がいなかったら失明してたと思うわ。」と言い、おじいちゃんは「あの先生はよう見た!ほんまに偉い先生やった!」と感謝と敬意を表し、その前に受診した病院の先生については、「△△と□□、あれは藪や。この原因をよう見つけんかったんやかな。」と藪医者呼ばわりしていた。

その後、母は小学校中学校を元気に卒業し、高校ではギター部に入る。
フットレストに片足を置きギターのコードを押さえ、屈託のない笑顔を向ける写真には、輝く青春が写っていた。

高校を卒業し、母は公務員試験を受けて、地元の市役所に勤めることになる。勤め始めてからも、大学に行って勉強もしたいと、仕事を終えてから、夜学で短大を卒業した。

昼は仕事、夜は学校に通いながら、お休みには、友達と夜行列車で北海道や東北に行くなど、アクティブに、社会人生活も謳歌していた。

仕事もして、勉強もして、楽しんでいる素敵な姿をアルバムで目にすると、本来母は
そうゆう人なのだと感じることができた。
ただ、その本来の母の姿に気付くことができたのはここ数年のことだ。

笑いに溢れたポジティブを絵に描いたような牛頭町の家で生まれた末娘は、大きなカルマを残す旧家の長男に嫁ぐことになる。父は同僚の一人だった。
二人は恋愛結婚だ。

夏祭りの日、仲良く歩く父と母の姿を友人が家の2階から呼び止め、見上げた二人をとらえたスナップ写真が、若々しい当時の二人の姿を残している。
若いから出来ること、知らないから飛び込めることがある。

母が父の元に嫁いだ頃は父の両親の他、父の弟、妹がおり、父の祖母も健在であった。
母は働きながら、ワンオペ育児だけならぬ、ワンオペ家守の長い苦闘が幕を開けることになる。

当時父の両親は兼業で農業もしていた。野菜やお花を家庭菜園で少しという程度ではなく、お米もしっかりと作っていた。そのため田植えや収穫時期の休みは一家総出で手伝った。

青木家は本家だったため、盆や彼岸、正月、祭事仏事と年の折々、我が家には沢山の人が来た。
加えて、地蔵盆、盆踊り、秋祭り、クリスマス会、バスツアー、町内清掃等町内会の活動。
そこへ更に出産子育てが加わっていく。

私や弟は両親から勉強しなさいと言われたことはなかったが、母は子供達には、小さい頃から色々な経験をと考えてくれていたようで、
私や弟が小学校に上がる前から、習字やピアノ、そろばん、水泳等習い事をさせてくれた。
自宅や牛頭町から近い教室は良いが、少し離れた教室へは母が送迎してくれていた。

当時母は車の免許を持っていなかったので、すべての移動は自転車だった。自転車で仕事へ行き、帰宅後に教室へ子供を連れていき、その合間に夕食の買い出しをし、自転車の籠に荷物を積み、私を後ろに弟を前に乗せて走る。
当時は電動自転車なんてなかったように思う。

そんな生活は雨天決行。朝、カーラーで可愛く巻いた母の髪は、雨の日は送迎でびちょびちょになっていた。

ここで母は車の免許取得に動き出すが、『危険』を理由に父に阻まれる。

母の悲痛な願いにも父は折れず、母はバイクならどうかと折衷案を出し、まずはバイクの免許をとった。クルクルと巻いた髪をヘルメットからなびかせながら、スカートでバイクに乗り仕事に向かう母の姿を私は鮮明に覚えている。その後しばらくして、
母は車の免許の必要性を再度訴え、ようやく父は折れ、母は車の免許をとった。
母は粘り強く冷静だ。

父は一生懸命によく働く人で、毎日残業で遅かった。頼られたら任せておけ、の親分気質で優しいところもあるのだが、口答えすれば激高するタイプで敵も味方も多い人だ。
友達の間では話も面白かったのでムードメーカー。下戸ながら、酒宴に声をかけられ
る機会も大変多く、交友関係もとても広かった。週末の誘いもあったし、町内では野球を教えたり、町内の役等もしていたので、ほとんど家にいなかった。そんな父にかわり、夏休みや春休みには母が私と弟、時に父の両親をつれて、時に父の弟夫婦を
誘って旅行や行楽につれて行ってくれた。


しかし必死にこなしている毎日の生活、仕事から帰る母はいつもムスリとしながら無言で食事の支度をしていた。父方の祖母はとても優しいマイペースな人で、お裁縫や編み物はプロ級の腕前で浴衣を仕立ててくれたり、ベストをこしらせてくれたりした。が、料理と掃除が不得手な人だった。母が仕事で帰って来る頃、祖母は取り入れた洗濯物をテレビを見ながら畳んで母の帰りを待っている。

母としては「夕飯に1品くらい作っておいてくれていたら」と腹が立つのも当然だが、そんなこと、子供の私は露知らず、母に必死にまとわりつき「どうしたん、何で怒ってるん?しんどいの?なんかあった?」と何度も何度も聞いていた。聞いても
「別に怒ってない」と母は言うのだが、間違いなくその様子は怒っているのだから、
自分が何か母が怒ることをしただろうかと私は常に不安に駆られていた。

母は女性の地位向上の女性会の活動にも参加していたので、休日に母の同僚の家で打ち合わせに数名が集まることもあったのだが、私が小学校の中学年にあがる頃には
「私は母が働いていて寂しい思いをしてきたから、私は絶対に専業主婦になって子供の傍にいてあげたい!」という私見を、当時女性会に集まった母の同僚の女性達に話していた。

母も「そうやねん、この子はそう言うわ」と言って、母の同僚も「そうなんか、はなちゃんはそう思うんやね」と私を否定することなく聞いてくれていた。

母の大変さに思い至ったのは、社会人になってからだ。
お気楽な大学生活から一変した社会人一年目の私はとにかく疲れていた。『仕事ってこんなに疲れるのか?母は、こんなに疲れて帰ってきて、家族のご飯をし、町内の活動、稲刈りもしたというのか?
そのうえ、出産子育てと。私は無理だ。絶対に無理
だ』その時初めて母に、
「よくこんな、仕事して、結婚して、子育てして、おじいちゃんおばあちゃんの面倒みて、よくやってきたよな、も~尊敬する。尊敬しかない。私やったら即離婚してる」と言うと
「よう言うわ。そうやよ、私も離婚したかっ
たけど、あんたらに聞いたら離婚して欲しくないって言たんやんか」と言った。

覚えている。あれは小学校3-4年の頃だったか、母から「パパと離婚するってなったらどう?」と聞かれ「え~そんなん嫌や」と思わず言ってしまったのだ。

今となっては、母が離婚を考えていた時に、背中を押してあげられていたらと思うが、私の精神年齢も実年齢もまったく追いついておらず、口惜しい限りである。

母は続けて「若かったからなんとかやれたんよ。それに牛頭町のおじいちゃんおばあちゃんの助けやよ。おじいちゃんおばあちゃんの存在がなかったらもう、とてもじゃないけどできなかった。おじいちゃんおばあちゃんが居てくれたから。それに尽きる
よ」と言った。

そうなのだ。牛頭町のおじいちゃんおばあちゃんはいつもいつもずーーーーっと助けてくれていた。おじいちゃんおばあちゃんがすごいのは、とにかく、母が父と結婚しなければよかったのにとか、人を責めたり否定することは一切言わず。
母の大変さを慮り、その中で出来るだけのことをするスタンスだった。毎週末、私たちは牛頭町に
行くのだから、おじいちゃんおばあちゃんは大変だったはずだが、そんなこと微塵も感じさせなかった。私も弟も母も父もそこに来る人皆がとても幸せでとても楽しいとても安心する時間を過ごさせてもらっていた。

おじいちゃんもおばあちゃんも何も言わず、教室の送迎をしてくれたり、お風呂に入れてくれたり、ご飯を食べさせてくれたり、一緒にテレビをみたり、公園に連れていってもらったり沢山色々してもらってきた。

そして母は、本家の嫁として、やるべきことをきちんとやらなければならないというマインドが
世間の常識や慣習の枠にギュウギュウに押されて、どんどん固められていった。あまりにも長く押し固められていたため、重く硬くなったそれは、鎧の
ようになって、本人すら気づかず、本来の母の姿は隠れて見えなくなっていた。

だからこそ、母は体中いつも驚くほど凝り固まっていた。もうどうにもならず、母から「はなこ、肩もんで~足踏んで~」と言われ、私は母の
凝り固まった肩首腰足裏を揉んでいたが、肩や首は私の手指の力では凝りの筋に入っていかず、肘でほぐした上に、私がソファに座り、母をその前に座らせ、私の足の踵を母の肩に振り下ろしながらコリをほぐすという、今考えればやってはいけない方法
でコリをほぐし、やり過ごしてきた。

また、貯まりにたまった精神的ストレスと肉体疲労で、母は年に一度は必ず寝込んでいた。風邪をこじらせて寝込む。メニエールで目がまわり寝込む。当然だ。

私が社会人になってしばらくの休日の夕方だった。庭に出て、母と洗濯物を取り込んでいると、気持ちの良い風が吹き抜けた。空を見上げると、あまりに綺麗な夕焼けで、母と二人思わず立ち止まり眺めていた。

「私、こんな夕方には、はな子と、えいすけをつれて散歩に行きたいな~っていつもいつも思ってたわ。」と母が言う。
私が「行けばよかったのに」と意地悪く言うと、
母は少しギョッとして「急いで仕事から帰ってきて、家のご飯せなあかんから、青木のおじいちゃんもおばあちゃんも待ってるんやもん。」と言う

「おばあちゃんに『ご飯してください』って言ったらよかったのに」と私がまた意地悪を言うと、

「言ったらおばあちゃんは『子供見といたるから、ご飯の支度しいっ』て人やったからなぁ」と母が言った。

「私、いつも寂しかった。ママが仕事から帰ってくるのずーっと待ってた。一緒にもっと遊んだりしたかった。」と、その時、私の素直な気持ちが口をついて出た。
「私も、そうしたかったよ」という母の言葉に、あたり一面を真っ赤に染める夕日が暖炉の炎のように私の寂しさを照らす。

風吹きあがり、私は思わず、籠の洗濯物が飛ばないように押さえると、洗濯物は温かく、ふわりと太陽の匂いがした。

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