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悪いことをした人は反省すべきか

「申し訳ございませんという言葉しか出てきません」

先週くらいに京アニ放火事件で逮捕された青葉被告が、初めて謝罪の言葉を述べた。
遺族は、「反省や謝罪の言葉を聞くために裁判を続けてきた」「被害者に報告できる言葉を聞けた」と述べている。長い期間持論に固執し、自己を省みる態度が伺えなかった一連の裁判を見届けてきた遺族らにとって、大きな変化であっただろう。

相模原の障がい者施設「やまゆり園」を襲った植松死刑囚もまた、「世界平和のためにやりました」と言い放ち自首した。また、「安楽死させなかったという点は反省しているが、罪の意識はない」とも述べた。
これでは被害者や遺族の無念は浮かばれない。自分の愛する人を奪われた憎しみを、ぶつけようにも肩透かしを食らうような感覚で、いったいいつまでこのはらわたは煮えくり返り続けなければならないのかと、途方に暮れるだろう。

反省は誰のためのものか。「しっかりと獄中で自分のやったことを反省してほしい」という言葉には、どんな思いが込められているのか。
どうしたら反省と言えるのだろうか。うなだれ、頬がこけ、ただただ生気なく謝罪を述べ続ければ反省なのか。心から反省したように見える残酷な犯罪者を、人は許せるのか。電車で隣の席に座ってきても、何も感じないだろうか。「反省してくれてほっとした」なんて、一緒にココアでも飲めるだろうか。

多分、「死んで償え」が一般的な感情だろう。反省して、反省して、何度も何度も謝ったとしても、社会への復帰は到底許されるものではない。しかし社会は忘れていく。案外とあっけなく、まだ犯人が生きているのか死刑になって死んだのかも忘れて、いつも通りの生活を過ごす。反省していようがしていまいが関係ない。人生は続いていく。

死んで償えと思い続けるのは、愛する人を奪われた遺族たちだ。続いていく人生の中に、大切な人がいない虚無感を、随所に痛いほど感じながら生きていく。同じ痛みを味わわせたい。なぜ、私たちだけがこんなにも悲痛な思いをしなければならないのか。なんの権利があって奪ったのか。あの人を返して。

謝罪の言葉で、反省する態度で、その怒りや憎しみは鎮まることはない。一秒でも生きながらえていることが憎い。笑うな、幸せになんてなるな。私たちの幸せを奪った者に、幸せになる資格はないと。

どうすればよいのだ、と途方に暮れる犯人も、いるのだろうと思う。
反省しても、許してはもらえない。社会に復帰することも、幸せになることも許されない。まして、自分の中で確固たる持論を抱き、それに従って大きな正義感で振り下ろしたナイフだとしたら、その行為がいかに残虐で、数えきれないほどの法を犯し、多くの人を悲しみや恐怖のどん底に突き落としたとしても、反省する余地はないかもしれない。

だから開き直って、悪いことをしたとは思っているけど、後悔も反省もする気はない。自分は自分の正義に従って、実行に移したまでであると。どうせ許されないのなら、もう普通の生活は二度と戻ってこないのなら、反省しても無駄であると。

ではもう一度問う。反省は誰のためにあるのか。何を求めて社会は「反省しろ」と叱責するのか。

青葉被告が初めて謝罪の言葉を述べたとき、それが形式的なものなのか、心から出た言葉なのかわからないが、初めて、人間のように見えた。
承認欲求と破壊衝動、嫉妬、孤立感、そういった感情は彼を突き動かし大人数の命を巻き込んだモンスターになり果てていた。それが、少しずつ人間になっている。人間になるというのは、自分の世界に閉じこもらず、人の意見や価値観を知り、理性と知性でエゴを抑え込むことだ。他人には他人の世界があり、自分だけが悲劇の主人公であるわけではないということに気づくことだ。

自分の価値観に閉じこもり独自の世界で募らせた思想が、人間の枠をはみ出し他者の世界を脅かしたとき、人はモンスターになる。内在する世界における正義は他者と共有することができない。ただただ暴力となって、他者の人生を侵し、奪う。常軌を逸した行動であっても、それはそれなりの正義によって動いているので、行動を止めるものがない。法律で縛ることができたとしても、モンスターの世界で同じ法律が適用されているとは限らない。
目は一つしかなく、耳は塞がれ、心臓は小さく、爪は鋭い。背骨が曲がり、地面を見つめ、世界への憎しみで大きな黒い翼を生やしている。

そのモンスターが初めて他者の世界を知り、他者を介して自己を見つめたとき、シュルシュルと翼や爪は形を変えていく。初めて両目で世界を見て、耳で被害者の声を聞く。人間になるということは、対話できるということである。全く会話が成り立たなかったのは別の世界にいたからで、初めて同じ世界に立った時、対話できるようになる。反省するということはすなわち、同じ世界に立ち目を見て対話するということなのだと思う。

対話して初めて、どうして奪わなければならなかったのか、どうしてそんな行動に及んだのか、理解したいと思うようになる。理解はできないし共感もできないが、同じ人間として純粋に動機を聞きたくなる。

悪いことをした人は反省すべきである。これは、社会を納得させるためでも、遺族を慰めるためでもない。モンスターが人間になり、他者の目を通じて自分自身を見つめ直し、自分がやったことを省みて、他者と対話するためである。ずっと自分の世界に閉じこもったままでは、表面上の反省だけしてすぐにまた同じ行動に行きつく。対話は、人生の道を変える。反省は、そのためにある。

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