写真を撮ることについて..2022/08/31
わたしはnoteを寝る前に書くことが多く、その内容もわたしの生活についてばかりだった。ただ今日は、読み物を読んでふと思ったことを綴ってみようと思う。
良い写真とはなにか。
わたしはよく写真を撮る。素敵な写真が撮れそうだなと思った時には、リュックに一眼レフとバッテリーを押し込み、家を出る。
ミラーレスなので、わざわざファインダー覗かなくても画面に画は映るのだが、わたしは出来るだけファインダーを覗いて、カメラの世界に没入しながら写真を撮る。広い世界から小さな一瞬を切り取るような、この感覚がとても好きなのだ。
撮った写真を見返すことも好きだ。自分が撮りたいと思ったその一瞬一瞬の感情が、色んな画とともに残されている。それが、ストーリーとなって、写真を撮った順番に思い出せるのがとても楽しいし心地がいい。
ただ、Instagramに上げる作業はいつも腰が重たくなる。いろんな人がその写真たちをみて、「いいね」をつけてくれる。それはとても嬉しい。普段は連絡を取っていなかった知人がごく稀に写真に対してコメントをつけてくれる。それもとても嬉しくなる。
しかし、無意識にその数を気にしてしまうのである。投稿に「いいね」がどれだけついたのかをその写真たちの評価と捉えてしまうし、多ければ多いほどその投稿に価値があると思ってしまう節がある。そのことに気づかせてくれたのが、ふと読んでいたこの記事である。
別に、その人の「いい写真」という基準が「いいね」の数に依存していたとしても、それはそれでいいと思う。その価値観を否定しているわけではない。ただ、わたしがいいなと思って撮った写真を、そういった一つの価値観の枠組みに入れてしまうのは少しもったいないと思った。
写真の価値というのは、今の自分が想像できる範囲以上に、いろんなものがある。
過酷な環境下で撮られた写真、
自然が織りなす神秘的な一瞬を捉えた芸術的な写真、
資料として学術的に価値のある写真、
遠い世界で起こっている出来事を素直に伝える写真、
何かしらのメッセージを伝えるための写真、
人の生活を少しだけ彩る写真。
同じカメラでも、目的、用途、被写体、そして撮る人間が違えば、その価値は全く異なったものになる。そして、こういった価値の決定は、撮った本人ではなく、見た人に委ねられているのではないだろうか。
だから「いいね」の数は大切だ、という結論になるのではない。自分がその写真に対して感じる想いと、他者からの評価を一緒にしてはならないということが言いたい。
自分が何かしらの想いを込めて写真を撮ろうが、見た人は全く違う見方をしているし、全く違った捉え方をする。それに絶望するのではなく、それが面白いんじゃないか、と。
友達に自分の撮った写真を見てもらうと、自分があまり気に入ってなかった写真に対して「この写真好き!」と言ってくれたり、その逆もありえる。それってとても面白いことで、その反応を知れることが発信の魅力なのではないだろうか。
(その上で自分が、自分の写真に対してどう思うかというのがまた別で存在する。そこはもう技術の向上や価値観も含めた自己研鑽()によって理想を追い求める過程が大切になってくると思う)
今までこのことを言葉として表現したことはなかったけれど、noteを書いているとどんどん思考が前に転がっていくから不思議だ。自分が思いもよらなかった結論に辿り着く。それも面白い。
この写真を見てどんなことを思ったんだろう。見た人全員に聞くことはできないけれど、多様な回答を想像しながら写真を投稿するのは、いまよりもっと楽しいかもしれないな。
そして、私たち人間は、予測ができないことに怯えながらも、予想外を楽しむ能力を持て余しているのかもしれないなとも思った。
(あとがき)
わたしは堂々巡りが得意なので、ここまで考えたのちに、「つまりいろんな人に見てもらえた、いいねの多い写真は価値が高いんじゃない?」とも思ったが、結局は自分が今撮りたい写真を撮って、発信している事実が大切なのだと思うし、そう考えるの方が健康的な気がした。
あとは、物の価値って足し算ではないのかもしれない。一つ一つが全く別物の「いいね」だし、その多い少ないが満たすものは自己顕示欲以外の何者でもない。数字を見るのではなく、一つ一つの裏側に人がいることを忘れてはいけないなと思った。
この考え方は、わたしの中に生まれてまだ間もない赤ちゃんなので、未熟だし筋が通っていないかもしれないが、これからまた成長すると思うので大切にしたい..
それはそうと
いろんな人の写真集、見てみようかな。
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