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学ぶ面白さから、学ぶ姿勢は生まれるのか??誰か教えてー!!

おはようございます!

今日も『なんのために学ぶのか(著:池上彰)』のアウトプットから。

第2章「どうして勉強をしなくちゃいけないの?―学校で学ぶということ―」では、小中高と大学にて学ぶ意味を池上さんの視点から解説をされています。

子供も大人も学ぶのに遅いということはないと著者は述べていました。ただ、‟押し付ける”という行為に関してはNoという姿勢を取ります。

‟勉強=強いて勉める”

「学び」との一番の違いは、取り組む姿勢、好きや面白さなのでしょう。

小学生は「児童(守り育てる)」、中高生は「生徒(誰が見ても間違いない内容を学ぶ)」。では、大学生はどう言語化されるのでしょうか。

‟学生=自ら学んで生きる”

著者は、中高までと大学の教育の違いを、受け身と主体性に区分しています。事例として、交通事故や改元での海外メディアの報道、言霊文化を紹介しています。

特に、言霊文化はとても面白く、日本人特有の‟失敗脳(社会的ルール)”もより濃く反映をされている印象があります。

それらを用いて、大学で求められるのは、広い視野を持ち、本質的な議論をするための文化を素養とした想像力と解説をしています。そう考えると、大学は貴重な4年間ともいえるでしょう。

‟習ったことが全て本当という常識が通用しなくなる世界”

だからこそ、大学で学び、仮説・検証を自ら行っていくことが求められるのです(著者の大学ゼミの先生は、「全てを疑え!」が口癖だったようです)。


とはいえ……

さすがの池上さん。現状の課題提起も忘れていません。

小中高までの教育では、今、端境期であるといいます。‟主体性と対話”から導かれる教育を目指し、「自ら学び、自ら考える」ことを教育の柱としましたが、先生たちがついてきていないといいます。

システムとして、先生たちが「自ら学び、自ら考える」という教育を受けてきておらず、理解が乏しいというのです。先生たちの仮説・検証する力も求められてくるのでしょう。

また、教育自体が「詰込み⇔ゆとり」や「リベラルアーツ⇔活動左派」のように行ったり来たりをしてしまっているようです。

行ったり来たりする部分に、具体的な根拠がないことも問題視しています(事例:「ゆとり」で学力が落ちた・リベラルアーツは危ない)。社会的風潮や政治が働く部分でもあるのでしょう。

大学では、MIT等を事例とし、‟自らの頭で考えて、最先端の科学技術を自らの力で生み出す”力が必要となります。その素養として、リベラルアーツであり、順序を間違えてはいけないのでしょう。

教育の変革は、『シン・二ホン』から始まり、色々な本で現在、述べられることが多い印象があります。現在はその過渡期にあるのかもしれません。

大学を出ていない僕は、30歳を過ぎて、何を学ぶことがよいのでしょうか。

知識はすぐに役立つものではない……面白いと思うことが大切。

ストレングスである収集心/内省を活かし、本を前のめりに読み漁り、アウトプットをし続けることが僕の今できる‟学び”の形なのかもしれません。

皆さんはどうですか??


ではでは、今日もワクワクするような最高の笑顔で、いってらっしゃい!

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講内 源太


追伸

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