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オスマン登場前後のフランス史をざっくり──鹿島茂のN'improte Quoi!「前回のおさらい」

 今を去ることXX年前。大学受験時は一番の得意科目が世界史だったはずの野口です。みなさん、世界史はお好きでしたか?

 さて、鹿島茂のN'improte Quoi!では、先月から新講座「『正しく考えるための方法』を考える──思考の技術論入門」がスタートしています。そしてもう一つの講座、「パリの歴史──集団的無意識の研究」も、「盛り場」や「城壁」「馬車」「ショッピング」……と、さまざま切り口・時代で鹿島先生に講義を続けてきていただきました。先日からは19世紀に行われた「パリ改造」を主導したジョルジュ=ウジェーヌ・オスマンを取り上げています。

 本日、4月11日19時から予定されている放送でも、引き続きオスマンを取り上げる予定です。しかし、あらためて彼が登場した19世紀フランス・第二帝政の時代はどんな流れの中でやってきているのか、と問われると、えーっと……となってしまう方も少なくないのではないでしょうか?

 実際、16世紀から続いたブルボン王朝が終焉を迎えるフランス革命の勃発(1789年)から、ナポレオン三世がクーデターで実験を握る第二帝政期の始まり(1852年)、そして最終的に第二次世界大戦まで続く第三共和政(1870年)まで、19世紀前後のフランスは目まぐるしく政治体制が入れ替わっています。
 よりふか~い話はこれからの講義で楽しんでいただくとして、ここでは以前、2021年に鹿島先生にゲンロンカフェにお越しいただいた際に弊社で作成した年表をもとに、18世紀末~19世紀のフランスの歴史をざっくりとおさらいしたいと思います。

1.フランス革命~七月王政

 987年、ユーグ・カペーが創始したカペー朝以来、パリを中心にした王政が続いてきました。何度か講義にも登場しているフィリップ尊厳王オーギュストことフィリップ2世(普段講義を聞いていただいている方には城壁でもおなじみですね!)ら歴史に名を遺した王たちの時代を経て、徐々にその勢力圏は拡大します。 カペー朝以後、王政の権威が最高潮に達したのが太陽王・ルイ14世などで知られるブルボン朝の時代。もう一つの講義で取り上げているデカルトの『方法序説』が書かれたのもこの時代です。ちなみに講義で何度か紹介されている官職売買はその前のヴァロワ朝・フランソワ1世の時代からに盛んになっていました。
 16世紀に成立したブルボン朝はイングランドやハプスブルク家との争い、また以前講義でも取り上げ鹿島先生から「第0次世界大戦」とも例えられた七年戦争(フレンチ・インディアン戦争)などを経て徐々に行き詰まってゆき、ついに1789年、フランス革命が勃発します。

 しばしば「大革命」とも言われるフランス革命。最初に実権を握った「ジロンド派」やその後勢力を伸ばす「ジャコバン派」さらに「テルミドール派」など目まぐるしく権力が移行する中、1799年「ブリュメール18日のクーデター」によって統領政府(執政政府とも)が樹立。ナポレオン・ボナパルトが権力の座に就きます。
 教科書的な区分ではフランス革命から1804年にナポレオンが皇帝に即位するまでのおよそ15年を「第一共和政」、ナポレオンがヨーロッパ中を敵に回した戦争の末、ライプツィヒの戦いで敗れて失脚する1814年までの10年間を「第一帝政」と呼びます。

 その後、「ヨーロッパをフランス革命以前の状態に戻す」という正統主義を掲げたウィーン会議を経て、ブルボン家が復位。この時代を「王政復古(あるいは「復古王政」)と呼びます。即位したのは、ブルボン朝最後の王となったルイ16世の弟、ルイ18世。その後、エルバ島から脱出した「ナポレオンの100日天下」を挟んで、弟のアルトワ伯・シャルル10世の代まで続きます。しかしふたたびブルボン家の王権を強めようとする気配を感じた国民の反発を買い、1830年に七月革命が起こります。ドラクロワの『民衆を導く自由の女神』の題材ともなった革命です。その後、ブルジョワジーの支持を受けたルイ・フィリップが王位に就き、七月王政が始まります。彼は、以前講義でも取り上げた「悪の殿堂」こと、パレ・ロワイヤルを商業施設としてオープンさせたオルレアン公フィリップ2世(フィリップ平等公)の息子。立憲君主制を敷き、フランスに産業革命をもたらした、とされます。

2.ナポレオン三世の登場と第三共和政の成立

 その後、1845年頃からヨーロッパ中に発生していた飢饉の影響や、一部のブルジョワのみに富が集中する状況などをバックグラウンドに、1848年二月革命が勃発。臨時政府によって王政の廃止が宣言されたあとも、ブルジョワ層と社会主義者の対立などを背景に政情の混乱は続きます。
 そして混乱の中、自らが権力を握るチャンスをうかがっていたのが、イギリスに亡命していたルイ・ナポレオン。同年に行われた2度の憲法制定議会の補欠選挙に出馬・当選を果たしたナポレオンは9月にパリに戻り、12月に行われた大統領選挙に立候補。見事当選を果たします。その後、「1851年12月のクーデター」によって、ナポレオン3世として即位します。第二帝政のはじまりです。

 このあたりの詳しい経緯はぜひ、公開期限が13日までに迫っているこちらの番組をご覧ください!

 と、いうことでその翌年、オスマンがセーヌ県知事としてパリの改造に着手する1853年に、ようやくたどり着きます。この年、他の地域で何が起きていたかに目を向けると、中国では太平天国の乱が拡大し、日本には黒船が来航し、さらにヨーロッパ全体を巻き込んでクリミア戦争が勃発し……といったころです。
 第二帝政下でオスマンがいかに辣腕を振るったか……はぜひ放送でご覧いただければと思うのですが、ここまで見てきたように、大革命後、10~15年ぐらいの周期でどんどん政治体制が入れ替わっていたフランス。パリ市内は何度も市民による武装蜂起や革命が起きていました。前回の講義でも紹介されたオスマンのバリケードを築かせないために改造したのだ、という逸話は、まさにこういった時代背景によるものと言えるでしょう。
 しかし、例によって第二帝政の時代もそう長くは続きません。ナポレオン3世は1870年、プロイセンとの対立が深まる中で始まった普仏戦争で大敗・捕虜となり、のちイギリスへ亡命することになります。

 その後、普仏戦争のさなかに樹立された第三共和政のもと、フランスはプロイセンと講和。その弱腰な姿勢に反発した市民の放棄によるパリ・コミューンの成立と鎮圧を経たあとも、さまざまな対立・混乱を繰り返しながら、フランス革命後の政体として、第二次世界大戦のナチス・ドイツによる占領まで続くことになります。鹿島先生が監訳し「完璧で誰にも文句のつけようのない理想的なフランス史の教科書」、と評したギヨーム・ド・ベルティエ・ド・ソヴィニーによる『フランス史』(講談社選書メチエ)において、第三共和政は以下のように紹介されています。

第三共和政は状況ゆえの妥協の産物であった。しかしこの政体はけっきょくのところ、1789年以来フランスに登場したすべての政体の中でも、もっとも順応性に富み、もっとも持続性のある政体であるということが明らかとなった。国内では多くの党派が激しい闘争を繰り広げ、場合によっては卑賤な闘争に明け暮れていたとはいえ、それでもフランスは議会制民主主義の慣行を身に着け、潜在的な経済力を発展させ、植民地帝国を建設し、賢明な外交政策を推進することによって、1914年に強国ドイツと対決することが可能となるような同盟関係を築くことができた。

ギヨーム・ド・ベルティエ・ド・ソヴィニー『フランス史』 P468 より

3.本日の放送もお楽しみに!

 と、いうことで想定以上に盛りだくさんになってしまいましたが、フランス革命から第二帝政までの時代背景をものすごくざっくりとご紹介してまいりました。こんな風に順番に出来事を追いかけていくだけではなかなか感じ取れないダイナミズム、人々の潜在意識なども想像力をはたらかせながら、より生き生きとしたお話が聞けるのが鹿島先生の講義の魅力ですが、他方で歴史の流れを知っていると、より楽しめる側面もあります。ぜひ視聴の参考になれば幸いです。

 パリの歴史・集団的無意識の研究は毎月第2火曜日19時から放送中。月額会員になれば過去の放送もご覧いただけます。まずは本日の放送もぜひ、ご覧ください!

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