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美辞麗句よりも、実感のこもった言葉がインパクトを持つ

人に聞いたことの99%は忘れているけど、残りの1%の中で思い出したことがあるので書く。

高校の卒業式のことである。自分の通っていた高校には普通科と定時制があって、自分は普通科で日中に授業を受けていた。定時制の子たちは、昼間は働いて、夜に授業を受けに来ていた。

卒業式ではまず、普通科の卒業生の代表があいさつをした。具体的な文言は覚えてないけど、時候の挨拶から入って、高校時代の思い出とか関係者への感謝も自然に入っていて、実にそつのない挨拶だった。それでいて決してペラペラと棒読みしたわけでもなく、うまいこと喋るな~と感じた記憶がある。

その次に、定時制の卒業生の代表があいさつをした。

先ほどの普通科の子と比べると、喋りはたどたどしいし、俗っぽい表現も多くて、スピーチの巧拙という点では、間違いなく稚拙な部類に入ったと思う。

それでも、その内容に実感が詰まっていたので、話に引き込まれたし今でも覚えている。日中の仕事で疲れ切った後に授業を受けるのが大変だった、仕事と両立するのがしんどくて辞めていった同級生も多かった、そんな状況でもどうにかこうにか卒業まで漕ぎつけられて良かった…そんな内容を喋って、挨拶の最後のほうには感極まったのか涙ぐんでいた。

そんなスピーチを聞いたら、一つ前の挨拶のことなんか頭から霧消してしまった。あぁこの子はほんとに苦労して卒業したんだな、のほほんと普通科に通ってた自分には想像もできないような大変さがあったんだろうな、無事に卒業できてまじで良かったな…と思わされた。その子のことは全然知らないし友達でもなかったけど、5分くらいのスピーチだけでそれくらい感情移入させられてしまった。

結論から言ってしまうと、こちらの挨拶のほうが圧倒的に印象に残っている。普通科の子の挨拶も決して悪い内容じゃなかったけど、定時制の子の挨拶のほうが、分厚い実感がこもっていた。話の上手い下手を気にさせないくらい、聞かせる力のある挨拶だった。だから、10年以上経った今でも思い出せる。

思い出せるだけじゃなく、その経験の後の自分は「実感」を大事にするようになったと思う。当たり障りのない言葉や美辞麗句は、世渡りをするうえでは便利なことも多いけれど、ありきたりの便利な言葉で間に合わせてばっかりだと駄目なんだよなと感じる。等身大の自分と向き合って、見栄のない、実感のこもった言葉を絞り出すことが必要だと思う。

最後に、作家・津村記久子さんの文章を引用しておきます。

わたしが誰かの作文を読んで、「伝わってくるなぁ」と思えるのは、実感が書かれていることです。実感がどういうものかは説明しにくいのですが、こちらが読む側だと「本当のことが書いてあるよな」と感じられることです。…(中略)…自分が誰かの文章を読んで、「この人はこう感じているんだな」と思えた場合、そういう文章はだいたいおもしろいです。多少文の組み立てがぶかっこうでも、それでもやっぱりおもしろいです。本当のことを書いているぶかっこうな文の反対は、うそを書いているきれいな文ということになりますが、わたし自身の主観だけで言うと、それはつまらない文章です。

「苦手からはじめる作文教室」

今回の記事は以上です。

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