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『黒猫』


 黒猫


「嫌な夢を見たんだ」
と、僕は起きがけに、彼女に言った。「どんな夢?」キッチンで朝ご飯の支度をしていた有彩は、僕の方に目を向けずにそう聞き返した。
僕はちょっと言葉に詰まった。自分から言い出しておいて、変なもの。柔らかい朝の陽ざしが籠る部屋の中に、キッチンから、食器のぶつかる甲高い音だけが響いていた。
「嫌な夢って人に話さない方がいいっていうもんね。」
と笑いかけながら、彼女は、出来上がった朝ごはんをテーブルに運んできた。

「黒猫のね、夢なんだ。」と、僕はご飯を食べながらまたしゃべりだす。彼女は、何も言わずに、僕が先を続けるのを待っていた。
「夢の中で僕は夜道を歩いていた。そしたら、目の前に一匹の黒猫がいるんだ。その猫は僕のほうをじっと見つめている。猫は道の前にいるから、そのまま歩くと猫と距離が近づくんだ。でも猫は僕が近づいてくると、しゅっと身を起して、道の遠くに逃げていく。そうして、また遠くに座って、僕の方をじっと見つめている。僕が歩いていくと、やっぱり途中で逃げて、また遠くから僕の様子を伺っている。そんなことをずっと繰り返すんだ。」
そうしてるうちにさ、僕はスープの具を意味もなくかき混ぜながら続けた。
「無性にその猫が癇に障るようになってきてさ、そのままどっかにいけばいいのに、ずっとこっちを見てるから」
「それで?」
「ある時一気に猫の方に駆け寄って、僕は思いっきり猫の腹を蹴り飛ばしたんだ」

「嫌な夢だね。」一息おいて彼女が言った。もうそれ以上僕らは、その夢について話さなかった。


「それじゃあ、私もう行くね」
「うん。じゃあね」
それからしばらくして、僕は有彩を見送ると、一人ソファに腰かけて、またさっきの夢のことを考えた。それにしても、なんであんな夢を見たんだろう?不思議な夢を見たあとにいつもそうするように、僕は記憶を手繰り起こして、夢の素材を探ってみる。僕はふと、気が付いた。「そうだ、あの公園でみた黒猫だ。」


 昨日彼女と二人で行った公園で、小さな黒猫が、生け垣の隙間から顔をのぞかせて、僕らの方をじっと見つめていた。最初に気づいたのは、彼女の方だった。「ねえ、あれ見て。」と彼女は僕の袖を軽く引っ張って言った。猫は、僕らが顔を向けると、ぴくりと体を震わせた。きっと、人馴れしない生まれついてからの野良猫だ。彼女は猫の方に向き直って腰をかがめた。猫は片方の脚を前に差し出したまま、じっとその様子をうかがっている。
 と、彼女がわずかに体を前の方に傾けた瞬間、猫は生け垣から飛び出して、僕らの右手に続く公園の小道へ全速力で走り去っていった。なんだかそれは、ひどく無情な逃げ方だと思った。
 猫の姿が点のように小さくなるのを、僕はぼんやりと眺めていた。
「人間って、やっぱり敵だと思うのかな」そういって僕は、彼女の方を見た。彼女はしゃがんだまま、猫のいなくなった向こうを見つめていた。
「実家でね、猫飼ってたの。かわいいんだよ、ずんぐり太っててね、私が触ってもぶすっとしてて何にも反応してくれないんだけど」
全然違うね、飼い猫と野良ネコじゃ。と言って彼女は僕の方を向いて笑いかけた。


 その日、僕は彼女と別れた。彼女と、佳歩と。話は、佳歩のほうから切り出してきた。僕は、ちょっと驚いた。でも、心のどこかで僕は佳歩がそう言うのを知っていた。でも、やっぱり知らなかった。だから今日もきっと、いつものレストランでご飯を食べて、いつものように一緒に家に帰るだろうと思っていた。僕は、佳歩と別れて、すっかり暮れ果てた町通りを独り歩いた。街中に軒を連ねたレストランはどこも、室内灯の温かい光を木漏れ日のように夜のアスファルトの上に差し伸ばしている。僕はその間を縫うように、街中をさまよった。そんな街のどこかだった、彼女と、有彩と出会ったのは。佳歩といつも帰った道筋を、僕は有彩と一緒に帰った。


「今日ね、彼女と別れたんだ」そんなことを、昨夜有彩に呟いたのを思い出す。
「だと思った」そう言って有彩はクスクスと笑った。
「顔に書いてあったもんね、ただいま絶賛傷心中ですって。」
「傷心…?してるのかな」
「理由は?なんだったの?」
「さあ…性格上の不一致ってやつかな」有彩は拍子抜けした顔をした。それは確かに、月並みで、不正直で、斜に構えた物言いだった。僕は自分を恥ずかしく思った。

 
 『ただいま絶賛傷心中です』佳歩のいなくなった部屋の中で、有彩のその言葉を僕は思い返してみる。やはりその言葉は僕にはピンとこなかった。僕は部屋をぐるりと見まわした。佳歩がいなくなってこの部屋は何が変わったのだろう。それはまだわからない。けれども、この部屋には今日も日が巡って、その光は佳歩のいた痕跡を洗い落としてしまうだろう。そしてその日常は、破り落した日めくりのカレンダーのように、やがてどこかに消え去ってしまうだろう。


「嫌な夢を見たんだ」僕はまた、彼女に言った。
「黒猫のね、夢なんだ」多分、あの時見た黒猫だよ。そうつぶやいた僕の声は、まだ朝の光の滲んでいる部屋の中に、ぽつりと響いて、そのまま消えていった。

黒猫 完

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