見出し画像

『カルロスの夕暮れ』①

あらすじ:ある思いがけない出来事で死んでしまった男は、人生最後の一日をやり直すが…


『カルロスの夕暮れ』

お願いだ!
俺はあの最後の1日をもう一度生き直してみたいんだ。
どう足掻いても、死を免れることはできないって?
承知の上だ。俺は生き延びようとするんじゃない、死ぬとわかって生きる1日がどんなものか味わってみたいんだ。
だってそうだろう?
病気のやつならばともかく、俺みたいな死に様をしたやつは、自分が死ぬことを考える時間なんて全くなかったんだからな、そいつは少々味気ないってもんじゃないか。

ようし、ようし、恩に着るよ。
じゃあ俺はあの最後の日の朝に舞い戻るというわけだな。
何?死因についてはすっかり忘れてしまうこと、それが条件だというわけか。
いや結構だ、むしろありがたい。その方が断然スリルがあるものな。
よし、じゃあ早速始めてくれ・・・



 南半球のある小国の都市Msでは、夜明けからそう時間も経っていないというのに、灼熱の太陽が粘っこい黄銅色の光を押し流し、粗く舗装されたアスファルトの地面をジリジリと焦がしていた。地面ばかりではない。その光は街の至る所に振り撒かれ、小都市Msは、気怠い、そして獣のようにむんとした熱気に包まれている。その熱気は街の一隅にある小汚いアパートの一室にも流れ込んできて、部屋の住人カルロスを不快な目覚めへと導いた。
 カルロスはベッドの上で身動きひとつせぬまま、眼だけをぐるりと動かし、部屋の様子を確認した。机の上には空の酒瓶と飲みかけのグラス、床には散乱した広告やら請求書の類、天井の隅にはご立派なクモの巣が陣取り、窓からは遠鳴りのサイレンの音が聞こえ、つけっぱなしにされたテレビはアナウンサーが盛んに口をパクパクと動かしているのが映っている…そして、カルロスは最後に、壁にかけられた時計に眼をやった。時計は7時40分を指していた。
『ようし、大丈夫だ。』と、カルロスは心の中で呟いた。『あれは夢じゃなかったんだな。俺は俺の人生の最後の日の朝に、しっかり舞い戻ってきたらしい。それに、俺の記憶は無くなっちゃいない。確かに俺は今日死ぬと分かっている。何の問題も起きていないぞ、完璧だ。』そして彼は頭の後ろで手を組むと、口元に悪戯っぽい微笑を浮かべながら、ぼんやりとした物思いに耽った。
『死ぬと分かっている以上、それに見合うような素晴らしい1日を過ごすべきだ、まずはその算段を立てるとするか…。しかし、どうやって俺が死んだかってことは、どうやら本当に忘れてしまったらしい、これじゃあ何時に死んだのかも分からない。なんてことだ、こいつは!死ぬ時間がわからなければ、何の計画も立てようがないじゃないか!』しかしカルロスを苛立たせたのは、どうにもいい加減な死の運命よりも、部屋の中の不快な湿気だったらしい。カルロスが考えに耽っている間にもあの黄銅色の陽射しは、朝方にふさわしからぬ、茹だるような暑気を部屋の中に注ぎ込んでくる。 
カルロスはこの熱気に、刻一刻と増していく瞼の重さを感じながら、不平をこぼした。『今日は格別に空気が重い日だ!そして、何て暑い…見ろ、俺の頭と身体は、半分ベッドの中に流れ込んでしまったかのように動かなくなっているじゃないか。全く、死ぬには最悪の日だ、そうだろう…本当にどうしようもない…どうしようもない…どうしようも…』
 カルロス…!カルロス…!眠ってはダメだ。さっき君は自分で言っていたじゃないか、いつ死ぬのか分からないと。それならば、君は寸暇を惜しんでベッドから飛び上がるべきなのだ!1秒たりとも無駄にすまいと誓いを立てるべきなのだ!それなのにまた無駄な眠りを貪って、夢の世界から死の世界に直送されてしまってもいいのかい?
 しかし、カルロスはぶつくさと不平を繰り返すと、再び眠りこくってしまった。怠惰で、屈託のない、長く深い眠りをカルロスは貪った。カルロスが再び眼を覚ましたのはもう日も高く上がった昼下がりになってからだった。寝足りないのを不当に叩き起こされたとでもいうような不機嫌な視線を部屋中に振り撒きながら、彼はのそりと起き上がると、起きがけの締まりのない眼で、再び時計に目をやった。時刻は11時40分。それを見るとカルロスは、フンと鼻を鳴らし、「どうだ!」と言わんばかりの不敵な微笑みを浮かべ、時計に向けて人差し指を突き出してみせた。…何が彼に満足を齎したのだろう?しかし、彼は本当に得意満面で、まるでゴールを決めたサッカー選手がするような、そんな身振りをとったのである。あたかも4時間の惰眠が、運命に対して彼が挙げた今日一つ目の勝利であるとでもいうように!

 さて、この勝利は彼の気持ちを頗る爽快にさせたらしい。というのも、4時間前には頭の片隅にもなかったことだが、彼は今日が出勤日であり、朝から職場に行かなければならなかったことを思い出したのである。
「もちろん、」と、カルロスは王者の貫禄を示しながら、ひとりごとを言った。
「俺に義務はないさ。明日のために今日を生き続けるだけの人生なんか、俺はとっくに解放されているんだから。しかしだからこそ、そうしてあくせくしている人間を拝みにいくのもアリなんだなあ。フェルディナンは、この前俺が遅刻して行ったら、ただでさえ赤い顔をタコみたいに真っ赤にして『お、お前みたいな怠け者は、俺の手で必ずクビにしてやる!次はないからな、覚悟しておけ!』とか言っていたっけ。さあ、どうしたものか?いや、これはかえって好都合だぞ。旨い場面を拵えられるかもしれない。というのは、こういうことだ。俺は今から職場に向かう。オフィスには、タコみたいに茹で上がったフェルディナンが俺を待ち構えていて、俺の姿を見るなり罵詈雑言を投げかける。俺はそれを無視して歩み寄り、タコの肩にそっと手をかけて『世話になった、感謝している。フェルディナン』とか何とか言って、一同が呆気に取られている中、厳かに退場するんだ。そして、明日になったら俺の死亡通知が連中にも伝わって、連中は俺の言葉に隠された予言的意味を悟るという寸法さ。特にフェルディナンは思うだろうな…『世話になった、感謝している。フェルディナン』この言葉はクビになった挨拶なんじゃなくて、死に別れの挨拶だったんじゃないだろうか(いや、俺は昨日のカルロスの様子が引っかかっていたんだ、あの野郎クビだと言われて妙に晴れやかな顔をしていたものな)するとあいつは自分の死を知っていたってことになる、もしそうならあいつはただの馬鹿野郎なんかじゃなく、なんかこう、神の使いみたいな物凄い奴だったんじゃないか…」
「その通りだよ、フェルディナン!」カルロスは両手を挙げて高らかに笑いながらそう言い放つと、獣の様に俊敏にベッドから飛び起きた。この魅惑的なシーンのイメージが今日の予定をすっかり決定してしまったのである。カルロスは悠然と身支度に取り掛かり、鼻歌混じりでアパートを後にした。


 南国の真昼はすこぶる暑い。熱気の上に熱気を塗りたくったような熱気が逃げどころもなく、真上から覆いかぶさり、往来の人々は押し潰されたようにひしゃげたなりに渋面を作って、ぞろぞろと歩いてくる。カルロスはいつも、街中でこの種の相貌に出くわすと、言い知れない不快感を覚え、思わず顔を背けながら、歩調を早めたものだった。しかし、今日はそうではなかった。自分でも全く理解できないことだったが、今日の彼は、道端で出会う赤の他人の一人一人に、得体の知れない親しみを抱いていた。すれ違う人の誰とでも笑い合えるというような気持ちが彼の心を浸していた。沸々と湧き上がるその感情のせいで危うく彼は、通行人の一人にわっと飛び掛かる振りをして、脅かしてやろうとさえしかけた程だった。カルロスはやっとの思いでそれを自重した。『危ない、危ない。滅多なことをするもんじゃないぞ。どんな素性のやつがいるか分かったもんじゃないんだから。何と言っても俺は、自分がどう死ぬのか分かっていない。例えば、この道ばたで、いきなり誰かが俺にナイフを突き刺してくるってことも考えられるわけだからな…』
『例えば、あいつが』とカルロスは、向こうから歩いてくる一際不平がましい顔をした若い男に襲撃者の役柄を当てはめてみる。『パッと懐からナイフを取り出して、俺の方に襲いかかってきたらどうだろう。俺はどんな風に反応するかな?運命は変えられないと分かっていても、やっぱり抵抗するだろうか…いや。(彼はしばらく考えこんでから先を続けた)ハッキリと分かることだが、俺は絶対に抵抗しないだろう。そればかりか、俺は静かに立ち止まってキリストよろしく諸手を広げ、奴を歓迎することだろう。そして、ナイフが腹わたに突き刺さる時、俺は晴れ渡った笑みを浮かべて天を見上げている!何故って、こんなに見事な幕切れはそうそう得られるもんじゃないからだ!それから先は?奴のナイフが引き抜かれると俺は道路の上に仰向けになり、群衆が見つめる中、花束の様に赤い血を噴き出して、この舞台を去ることになるって訳さ』…が、カルロスの想像が鮮烈なフィナーレを迎える頃、男は渋面を崩さぬまま、カルロスの元を通り過ぎていた。しかし、そのことにもカルロスは殆んど気づかなかった。次第にディテールを整えていく死のイメージが、彼を益々爽快な気持ちにさせるばかりだったのである。

 快活に、足取り軽く、カルロスは彼の職場のあるビルの前に辿り着いた。それはかなり古く、幅狭なビルで、両隣りのビルの立派な居住いに肩身を狭くして縮こまっているような、奇妙に卑屈な、やるせない感じのするビルだった。カルロスの浸る爽快な気分と祝祭のようなこの一日には余りにも不似合いなビルの出立ちに、カルロスは首をすくめて片頬に苦笑を浮かべた。そして彼は、踊りを踏むように軽快に、くるりと道路の方に向き直ると、往来の様子を改めて、実に注意深く、観察した。そんなことは彼にとって生まれて初めてのことだった。影を溶かす強烈な真昼の光に白く染められた道路、電柱、街路樹、浮き上がる陽炎、シャツをはだけたまま仏頂面をして歩く人々、赤い光を矢のように残して足早に視界を駆け抜けるパトカー…見慣れた、今まで不愉快としか思わなかったその一つ一つの光景を彼はしげしげと見つめていた。先刻感じた様な、路地に身を踊り出して、往来の人を脅かしたり、笑い合ったりしたいような気持ちを彼は強く感じていた。その感情はどこか懐かしさにも似ているように彼には思えた。ふと、彼は腕時計の時刻を確認した。時計の針は12時41分を指していた。『12時41分の太陽、そうだ。俺はそんな風にこの一瞬に名前を付けよう。何故って、どの一瞬も一つとして同じではない光を太陽は放っているんだが、俺がそのことを知ったのは今日が初めてだからだ。そして、その光の中に俺がいるのは今日が最後だからだ。』
 カルロスはもう一度、端から端までその道を眺め回した。そして心の中でそっと挨拶を済ませると、先ほどと同じように、くるりと踊るように踵を返し、建物の中に入っていった…

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?