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アルフレッド・ジャリ『昼と夜 絶対の愛』訳者解題

 2023年6月26日、幻戯書房は海外古典文学の翻訳シリーズ「ルリユール叢書」の第31回配本として、アルフレッド・ジャリ『昼と夜 絶対の愛』を刊行いたしました。アルフレッド・ジャリ(Alfred Jarry 1873–1907)
フランスの詩人・劇作家・小説家。ロワール地方の町ラヴァルにて生まれる。ブルターニュ地方の町で幼少期を過ごし、大学受験のためパリへ上京しますが失敗。象徴主義の作家たちに出会い、以降、文学の道に傾倒していきます。マラルメのサロンや、デカダン系作家ラシルド夫人のサロンに出入りするとともに、ポン゠タヴェン派・ナビ派の画家たちとも付き合いがありました。1894年、象徴主義を極限まで突き詰めたような詩と戯曲とからなる詩文集『砂の刻覚書』でデビュー。1896年、ユビュ親父が「どこでもない国」で王位を奪う戯曲『ユビュ王』を発表。その上演は大スキャンダルを巻き起こしました。その他、『訪れる愛』『フォーストロール博士言行録』『メッサリナ』『超男性』などの小説作品を残しました。アポリネール、ブルトン、レーモン・クノー、イヨネスコ、ボリス・ヴィアンら20世紀フランスの前衛作家たちに多大な影響を与えました。
 以下に公開するのは、アルフレッド・ジャリ『昼と夜 絶対の愛』翻訳者・佐原怜さんによる「訳者解題」の一節です。



『昼と夜』について——軍隊、幻覚、創造


 小説『昼と夜』は、ジャリが1897年にメルキュール・ド・フランス社から刊行した、彼として初めての小説である。ジャリがそれまで発表してきたのは詩や戯曲であり、その内容としては、脳内のような非現実的な世界を、高度なメタファーを用いた難解な文体で象徴的に描くものが多かった(「ユビュもの」はこれとは別系統であり、ジャリ作品の中ではどちらかというと異質な作品である)が、この『昼と夜』以降、「現実的」な世界の描写が部分的に取り入れられるようになった。『昼と夜』の読者の多くは、前年に話題になった『ユビュ王』のような滑稽なものを期待して読んだため失望し、ジャリがそれまでに発表してきた思想や文体に慣れていなかったため当惑したに違いない。ただ本書を贈呈されたマラルメは返礼の手紙で、「この正確に作られた素晴らしい版画を前にして、まったく驚きました。色調は鮮やかでみずみずしく、そしてすべてが限りなく夢の中に移されている。文の幾何学的構造が、直線であれ曲線であれ常にはっきりしており、決定的な言語、つまり厳密に文学的な言語を作り上げていることに魅了させられました」と賛辞を述べている。


 本小説の物語を、まず主人公サングルが軍隊で送る不条理な生活、次に病院で見る幻覚、そして最後にヴァランスとの口づけと狂気、という段階にまとめることができるであろう。以下この順番に従って、それぞれの段階のもつ意味について考察してみたい。


 まずは兵役生活あるいは軍隊についてであるが、主人公がコルネイユ兵舎で送る兵役生活の描写は、ジャリの実体験に基づくところが大きい。ジャリは1894年末から95年末にかけて、生地ラヴァルにあったコルビノー兵舎で歩兵として兵役生活を過ごし、そののち病気が理由でラヴァルのサン゠ジュリアン病院に、次いでパリのヴァル゠ド゠グラース病院に入院し、除隊になった。本小説ではこのような実体験を踏まえた、軍隊の不条理な規律や馬鹿げた医療行為がいくつも描写される。その諷刺的な描写をもって、本小説を、リュシアン・デカーヴの『下士官』(1889年)や、ジョルジュ・ダリアンの『ビリビ』(1890年)といった、当時のフランスで流行していた反軍国主義的小説の中に位置づけることができるだろう。


 しかしながら軍隊は本小説において、軍国主義といったイデオロギーを越えた、より象徴的な意味を表している。一つは自由を否定する規則と、それへの従属である。本小説のエピグラフにあるように、軍隊において兵士は隷属した人間、すなわち自由意志を行使することを禁じられ、規則あるいは他人の意志に服従するだけの存在となる。個人の自由を重視することは象徴主義の作家たちに広く共有された考えである。例えばジャリがその初期に親しく交遊した作家レミ・ド・グールモンは評論『観念論』(1890年)において、象徴主義文学の基礎的思想であると彼の言う観念論とは、「知的系列において知的な個人が自由かつ個人的に発展することを意味する」と述べている。本小説の主人公サングルにとっても、自由は何よりも大事なものだ。よって彼にとって軍隊の規則は、他人から押し付けられるものであるだけで不条理なものである。「いつも白くなる長靴をいつも黒くし、きりなく黒い染みがつくズボンの帯飾りを絶えず白くしなければならない」規則、しかもその理由が不明である規則は、この不条理さを表現しているだろう。


 軍隊が象徴する二つめのものは、知性や精神の働きとは相容れない身体性ないし物質性である。軍隊では兵士の知性は失われ、身体的な存在に還元されてしまう。物質に対する精神の優位もまた、象徴主義の多くの作家たちが唱えた考えである。グールモンは同じく『観念論』の中で、観念論とは「外界を厳密に否定することはないものの、これをほとんど形のない物質で、脳内でしか形をとらず真なる生をもつことのないものとしてしか捉えない哲学である」と論じている。知性を何よりも重視する主人公にとって、軍隊という身体的・物質的な場は忌まわしいものである。主人公が入隊して軍から支給品を受け取った時、気持ちの中でひどい汚れを感じるのはそのせいだ。軍からの支給品である靴や帽子についているぬかるみ、黒いねばねば、垢といった汚らしい不定形の物体は、現実のものというよりは、身体的・物質的な場の象徴であると言ってよいだろう(実際、練兵場や兵舎を描く場面において、黒いぬるぬる・ねばねばしたものがたびたび現れる)。服従と物質という、主人公にとって否定的な意味を象徴する軍隊は、ただの特殊な環境ではない。「神話」の章に「軍の永遠者」という神が現れることから分かるように、軍隊とは本小説において、神の決めた規則に支配されている、物質的なこの世の縮図なのだ。


 服従と物質の場である軍隊に入隊するのは、主人公にとって死刑を宣告されたも同然である。そんな絶望的な状況にあって最初に彼を救ってくれるのが夢である。主人公は列車に乗って脱走する夢を見たり、ヴァランスの姿を夢見たりすることで、日中の辛い兵役生活のことを忘れようとする。つまり主人公にとって夢という内的世界は、不自由な外的現実から離れて自由になれる場所なのだ。このような考えは初期のジャリから一貫して見られる。例えば彼は初期の詩論的エッセー「存在と生」(1894年)において、外的生活である「生」と内的思考である「存在」にそれぞれ「昼」と「夜」の領域をあて、これらを次のように対比させている。「相次ぐ昼と夜は巧妙にお互い避け合うものであり、これらがどちらでもない色調になっている、一致している、とかなのを私は嫌悪する。私はこれら二つのどちらかのみがきらめいて昇天するのを崇めるのだ」。初期のジャリにとって、個人の生は外と内、昼と夜の二つの領域に截然と分かれており、彼はもっぱら後者の方、すなわち内的な生である思考や記憶や夢の領域を描いていた。


 このような二元論的区分は、次の段階である幻覚によって排されることになる。幻覚は象徴主義文学においては親しいモチーフだ。例えば象徴主義の詩人ポール・アダンは、「私の理論を採用する作家は、夢の状態や、幻覚の状態、記憶から生まれる継続的な夢を描かなければならないだろう」と論じている。ジャリにおいても、幻覚は初期から取り上げられる重要なモチーフである。例えば『砂の刻覚書』所収の散文詩「阿片」においては、主人公が阿片を飲んで幻覚の国へと移動し、そこで見たさまざまな奇妙な光景が描写される。本小説においても、主人公はさらなる自由を求めて「阿片窟の香りの中で跨がる灰色ぶちの馬でいっぱい」な病院に入院し、ここで薬物摂取によって「公正、霊妙なる」幻覚をいくつも見る。


 しかし薬物摂取のシーンがあるからといって、本小説における幻覚を、夢と同じように現実と異なる別世界であると考えるのは早計であろう。主人公にとって「知覚とは真なる幻覚である」からだ。小説中、この表現はライプニッツの定義とされているが、実際はフランスの実証主義的哲学者・歴史家イポリット・テーヌの『知性論』(1870年)にある表現である。テーヌはこの哲学的著作において、次のような主張を唱えている。われわれは物自体を知ることができない。われわれはそこから感覚を受け取るだけであり、これをわれわれは物そのものだと見なしてしまう。よってテーヌは、「われわれの外的知覚は、外なる物体と調和している内なる夢である。幻覚は誤った外的知覚であると言う代わりに、外的知覚は真なる幻覚であると言わなければならない」と述べる。つまりわれわれは現実そのものを認識しているわけではないので、知覚は真であるとも偽であるとも、内的なものとも外的なものとも言えない幻覚のようなものなのだ。主人公はこうした考えを敷衍して、「幻覚とは誤った知覚であるか、より正確に言うなら弱い知覚である、あるいは本当にうまく言うなら予想された知覚である」と考えるようになる。この考えに従えば、「あるのは幻覚だけ、あるいは知覚だけ」になり、主人公は、「思考と行為、夢と目覚めをまったく区別しないように」なる。つまり本小説における幻覚とは、現実とも夢とも区別できず、真とも偽とも言えない感覚のことなのだ。こうして外的な行為や知覚の領域である「昼」と、内的な思考や夢の領域である「夜」との区分は排され、すべては時間の中にあるイメージに変わることとなる。

『絶対の愛』について——夢と思い出、催眠術、創造

 『昼と夜』を上梓したジャリが、『パタフィジック学者フォーストロール博士言行録』、『訪れる愛』と続けて小説を書いた後に刊行したのが、『絶対の愛』である。『絶対の愛』はもともと『訪れる愛』の一部として構想された。ジャリはその最終章として、「イオカステ夫人の家で、あるいは絶対の愛」というエピソードを構想したが、これを独立した小説として発展させることにしたのだ。『絶対の愛』の出版をメルキュール・ド・フランス社から断られたジャリは、版というかたちで自費出版した。小説は50部印刷されたが、これは商業ルートに乗ることのない非売品であり、著者から小説を贈呈された者は2、30人だけであった。よって同時代の読者による反応はないも同然であった。


 まずは『絶対の愛』の全十五章の構成を整理しよう。第一章と第二章は、もともと「序章」というタイトルをつけられており、物語の枠と言える部分である。主人公エマニュエルの特異な宿が描写され、特異な身分が彼自身の言葉によって明らかにされる。第三章、すなわち主人公とミリアムが対話する章は、後の場面の先取りである。物語自体は第四章から始まる。捨て子であった主人公が、ジョゼブとヴァリア(ブルトン語で言うヨセフとマリア)という夫妻によって拾われ育てられる。青年になった主人公はヴァリアと近親相姦的な関係を結ぶが、ある時ヴァリアから殺されそうになる。十章の最後で主人公はヴァリアに催眠術をかけ、彼女からミリアムという女性を取り出す(よって第三章は第十章と第十一章との間に位置している)。第十一章から第十三章は、主人公にとってのミリアムの役割や、ミリアムを作り出すことの意味が述べられる。第十四章・第十五章は、主人公がミリアムを使ってジョゼブを殺そうと企むものの失敗に終わり、死を覚悟するという話が語られる。以上のような物語を、まず幼少期をめぐる夢と思い出、次に青年期における催眠術とそれによる創造、そして最後に養父の殺害計画とその失敗という三段階にまとめることができるだろう。以下、この順番に従って、それぞれの段階のもつ意味について考察してみたい。


 まずは夢と思い出についてである。主人公は刑務所に収容されている死刑囚である。しかしこの死刑は実際のものではない。彼は「ランプのそばに座って夢を見る男」であり、さらに言うなら、「身体と魂に〔…〕宿」り、「朝日が昇る時」に、「とつぜん昇天させられるか消滅させられるかして消え失せる」存在、つまり夢の中でのみ存在する男である。そのような主人公にとって、死刑とは、人が夢から覚めて彼の存在が消滅することを指しているだろう。主人公(あるいは主人公が宿った人)が夢で見るのは、自分の子供時代である。『昼と夜』以上に大きな役割を果たしている、本小説における子供時代の思い出は、ジャリの伝記的事実を大いに反映している。例えば小説に登場する洗濯場やロケ通りや幼稚園は、ジャリの生地ラヴァルに実際に存在していたものである。またランポールの町は、ジャリの祖父が住んでいた町ランバルがモデルであり、主人公が居を構える「税関吏の小屋」は、ランバルからほど近い村エルキの海岸にあった小屋がおそらくモデルである。ただこれらの場所は現実のものとして描かれているのではない。ヴァリアが歩く土地は主人公の記憶であるという記述が示す通り、彼の記憶を地理化したものなのだ。夢や記憶の作用によって、現実は外的であるとも内的であるとも、真であるとも偽であるとも言えない、曖昧な世界になっている。
 このような曖昧な世界の中で、幼い主人公は、言葉を同じく曖昧なものに変える。おもちゃを使って言葉とその意味を結びつける教育をジョゼブから受けた後、主人公がこのおもちゃを落とすと、おもちゃは変形してしまう。すると「ついている斑点や、たまたま整形された体や、その結果生まれた見た目に従って」怪物たちが生まれる。怪物とは、「ラキール」や「ラストロン」といった存在しない語のことであり、その意味は主人公自身忘れてしまって不明である。言葉においては通常、形や音と意味とが結合していると思われているが、主人公はこの結びつきを破壊し、言葉から意味を抜き取り、見慣れない形や聞き慣れない音でしかない曖昧なもの、言わばイメージのようなものに変えたのだ。ただ子供時代の主人公は「強くなかった」ので、このような変換は「頭脳とは別のところ」で行われた。すなわち忘却という、夢や記憶と同じく意志的ではない方法によって行われたのだ。


 青年になった主人公は催眠術を使うことで、夢や思い出と同じような曖昧な世界を作り出す。というのも催眠術をかけられた人にとって、現実は確かな意味を失い、内的であるとも外的であるとも、真であるとも偽であるとも言えない世界になるからだ。主人公はこの曖昧な世界を、夢や思い出という非意志的な方法ではなく、催眠術という意志的な方法によって作り出す。そしてこの曖昧な世界の中で、以前行ったような変換を再び行うのだ。というのも、彼がヴァリアに催眠術をかけて眠らせる時、彼は「怪物たちが公証人の机の上に立った時の、子供じみているが神々しいあの喜びをまた感じ」、「また机を揺らすことを決心する」からだ。女に催眠術をかけることは、言葉から意味を抜き取ることと類似しているのだが、今度はそれを忘却という非意志的な方法ではなく、意志的な方法によって行うのである。


 主人公が催眠術をかけるヴァリアは「小さな動物」のような女であると述べられる。ジャリは猛烈な女嫌いであったが、19世紀末フランスは、実際はともかくとしてもイデオロギー上は女性蔑視の時代であった。女性は男性よりも知性の劣った存在と捉えられており、また家庭において女性は男性の支配下にあるべきだとされていた。つまりヴァリアは、他者の作った秩序に満たされた、身体的な存在を象徴していると考えられる。若い主人公は、そんなヴァリアが寄せる近親相姦的な愛を、途中まで受け入れてしまう(この近親相姦のテーマゆえに、ヴァリアはイオカステという、オイディプスの母親の名で呼ばれる)。近親相姦的な関係が最高潮に達した時、ヴァリアは主人公を殺そうとする。『昼と夜』の主人公にとって、規則に支配された身体的な場である軍隊に入ることは死を意味したが、『絶対の愛』の主人公にとっても、他者による秩序を与えられた身体と関係を持つことは死を意味するからだ。主人公がヴァリアに催眠術をかけるのは、その身体性と、そこに込められた他者による秩序を抜き取るためであろう。というのも、催眠術にかけられて眠りながら答える女は、自分の人格を消されて他者から込められた秩序を失い、外観と声だけの存在に変えられているからだ。意味を抜き取られて形と音だけになった言葉と同じく、このような女もまたイメージのようなものだと言える。催眠にかけられたヴァリアから取り出されたミリアムという人格とは、イメージ的な存在なのだ。

【目次】

昼と夜 ある脱走兵の小説
 第一の書 列車で
 第二の書 わが弟の書
 第三の書 青緑(シアン)色の夢
 第四の書 ドリカルプの書
 第五の書 お気に入りのシジフォス

絶対の愛 小説
 一 闇よ、あれかし!
 二 さまよえるキリスト
 三 おお眠り、死の猿よ
 四 神様(アオトルー・ドゥエ)
 五 ジョゼブ先生の事務所
 六 ラキール氏
 七 ラ
 八 オーディン
 九 緑色の中央に小さなオコジョ
 十 黄色い蝋で半券に押印
 十一 ソシテ言葉ハ肉トナッタ
 十二 嘘つく権利
 十三 メリュジーヌは台所の下働き女中で、ペルティナクス帝はクルミの殻取り男だった
 十四 愛の魔女
 十五 神(デュー)の妻


  註
  アルフレッド・ジャリ[1873–1907]年譜
  訳者解題

【訳者略歴】
佐原怜(さわら・さとし)
1980年、青森県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程満期退学後、ソルボンヌ大学で博士号を取得。現在、千葉大学非常勤講師。専門はアルフレッド・ジャリ。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。本篇はぜひ、アルフレッド・ジャリ『昼と夜 絶対の愛』をご覧ください。