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シルビナ・オカンポ『復讐の女/招かれた女たち』訳者解題(text by 寺尾隆吉)

 2021年11月24日、幻戯書房は海外古典文学の翻訳シリーズ「ルリユール叢書」の第18回配本として、シルビナ・オカンポ『復讐の女/招かれた女たち』を刊行いたします。シルビナ・オカンポ(Silvina Ocampo 1903–93)はアルゼンチンの小説家。ブエノスアイレスの名門の家に生まれ育ったシルビナは、渡欧して絵画を学び、帰国後は姉ビクトリアの創刊した文芸雑誌「スール」に協力。アルゼンチンを代表する小説家ビオイ・カサーレスと知り合い文学に専心します。シルビナの文学的素養を開花させるきっかけとなったのが、夫となったビオイ・カサーレス、家族ぐるみで親交のあったアルゼンチンの文豪ホルヘ・ルイス・ボルヘスとの文学談義でした。
 以下に公開するのは、ルリユール叢書の既刊書、マルティン・ルイス・グスマン『ボスの影』の翻訳者としてもお馴染みの寺尾隆吉さんによる「訳者解題」の一節です。

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シルビナ・オカンポ『復讐の女/招かれた女たち』訳者解題(text by 寺尾隆吉)


シルビナ・オカンポの生涯と作品――ビオルヘスとともに

 ビクトリアとシルビナの父方にあたるオカンポ家は、遡れば16世紀のコンキスタドールに行きつくという名門家であり、古くはクスコ総督やリオ・デ・ラ・プラタ総督、独立以降では大統領候補(シルビナの曾祖父)など、政財界の要人を幾人も輩出してきたばかりか、首都ブエノスアイレスの郊外に広大な牧場を所有する裕福な貴族だった。母方のアギーレ家も、経済力においてはややオカンポ家に劣るものの、コンキスタドールの流れを汲む由緒正しい家系であり、教養と信仰心を重んじる、同じく貴族的な一族だった。19世紀後半以降、好調な牛肉輸出を支えにアルゼンチンは繁栄を極め、20世紀の初頭には世界第五位の経済力を誇るに至るが、ただでさえ裕福なアルゼンチン貴族のなかでも、シルビナの両親は際立った財力に恵まれていた。二人の唯一の悩みは男子の跡継ぎを授からなかったことであり、男性優位の観念に支配されていた時代に、六人目で最後となるシルビナが生まれた時の落胆は想像に難くないが、両親は六人姉妹全員の教育に心血を注ぎ、幼少からフランス人とイギリス人の家庭教師をつけたほか、ヴァイオリンの演奏に長けた母の影響もあって、芸術的感性を育むことにも余念がなかった。1908年には家族全員揃って渡欧しており、スペイン語よりもフランス語や英語の読み書きを先に身につけたシルビナは、後々まで「三つの言語に引き裂かれるような感覚」を抱き続け、執筆中にもフランス語と英語の響きに囚われる瞬間があることを認めている。

 幼年期の痛ましい記憶としてシルビナは、最も年齢の近い姉クララの死と、長姉ビクトリアの結婚に伴う子守役ファニとの離別(ビクトリアの自宅で家政婦に雇われたため)を挙げており、その時心に残った傷のせいで、内気になって社交性を失ったことを示唆している。ブエノスアイレス中心街の豪邸と郊外のサン・イシドロの別荘を行き来しながら、物質的な不自由もなく過ごす日々は、概して平穏だったようだが、心の支えを失ってからのシルビナは、なかなか家に居場所を見つけられず、いつも隅から家族の顔色を窺うような少女となった。その反動なのか、料理婦や洗濯婦などの使用人に自ら近寄り、貧乏人の生活に憧れて庭に乞食の子供を迎えることまでしたという。当然ながら、姉たちはそんな妹の行動に眉を顰めたが、両親は、器量に劣る末娘がかわいかったのか、咎め立てすることなく常に寛容な態度をとり続け、おかげでシルビナにはいつまでも子供っぽさが残った。彼女の生涯と作品を詳細に記した評伝『末娘――シルビナ・オカンポ』(2018年)においてマリアナ・エンリケスは、「シルビナ・オカンポの文学の大部分が少女時代と使用人部屋に収まっている」と述べているが、このような特徴は、後にシルビナの内側でノスタルジーとして定着する少女時代と密接に結びついている。1987年の時点でも彼女は、ウーゴ・ベッカセセのインタビューに答えて、「自分の内側ではまだ幼児が息づいている」と漏らしている。同じアルゼンチン幻想文学を代表する作家フリオ・コルタサルは、高齢に差し掛かっても若々しい容貌と子供らしい遊び心を保っていたことから、「老いを知らぬ若者」と呼ばれることがあったが、それに対し、大人になっても我儘を許され続けたシルビナは、本書に収録された短編「イセラ」の主人公と同じく、成長を拒否した子供だったと言えるかもしれない。

 幼少期から読み書きに打ち込んでいたことはシルビナ自身が何度か公言しているが、少なくとも20代までの彼女が、文学にもまして熱心に打ち込んだのは絵画だった。芸術的素養を備えていた両親も娘の才能に理解を示し、国内の画家を自宅に招いて刺激を与えるばかりか、1920年には、シルビナをパリに送り出して、リヴ・ゴーシュにアトリエを借りられるよう手配している。また、1925年にも、ボルヘスの妹で画家の道を志していたノラ・ボルヘスとパリで親交し、ジョルジオ・デ・キリコやフェルナン・レジェに師事したこともあった。1930年代以降は雑誌等に挿絵を提供することがあり、シルビナは1970年代まで絵筆を握り続けていたが、一部にファンを獲得することはあれ、画家としての才能を十分に開花させることはなかった。

 シルビナを文学の道へと後押しするのは、1930年代に相次いで出会った二人の人物、ホルヘ・ルイス・ボルヘスとアドルフォ・ビオイ・カサーレスだった。姉ビクトリアの知人でもあり、すでに新進気鋭の詩人としてアルゼンチン文壇の注目を集めていたボルヘスとは、1931年から生涯続く固い友情を結び、他方、オカンポ家に勝るとも劣らぬエリート一族出身で、作家を志して悪戦苦闘していたビオイ・カサーレスとは、1932年に知り合った直後から恋仲となって、1934年に事実上の同棲生活に入った。ボルヘスとビオイも、1932年にビクトリアの自宅で知り合って意気投合しており、飽きることなく何時間も文学談義を続ける二人に引きずられるようにして、シルビナは文学の面白さに目覚めていった。三人を結びつけた共通の関心は幻想文学、とりわけ幻想的短編小説にあり、その探究の成果は、古今東西の世界文学から三人の趣味で選りすぐりの作品を翻訳、収録した傑作アンソロジー『幻想文学選集』(1940)として結実している。この時期、ボルヘスは詩作から短編小説の執筆へと創作の重心を移しており、本人自ら「習作」と位置づけた『汚辱の世界史』(1935)を経て、『伝奇集』(1944、邦訳岩波文庫、1993)で独自の形而上学的幻想文学を開花させる。また、1930年代を通じて周囲の失笑を買うほどの失敗作続きだったビオイは、シルビナの励ましとボルヘスの指導を得て、現在でもラプラタ幻想文学の金字塔とされる『モレルの発明』を完成する。

 この三人に加え、マセドニオ・フェルナンデス、ホセ・ビアンコ、フリオ・コルタサルら、多くの作家が幻想文学に傾倒していった時期が、アルゼンチンの暗黒時代と重なっていたことは注目に値するだろう。繁栄を謳歌していたアルゼンチン経済は、世界恐慌の始まりとともに失速し、労働者階級のデモや抗議行動の鎮圧と治安の維持を口実に、軍部が頻繁に政治介入を始めたことで、脆弱な民主主義は瞬く間に崩壊した。ウリブルのクーデターで幕を開けた1930年代は、後に「忌まわしい10年」と呼ばれることになる政治的・経済的危機の時代であり、再び軍部が政権を掌握する「43年革命」を経て、1946年から始まるペロン政権も、ビオイ家やオカンポ家のような富裕層にとっては悪夢の継続でしかなかった。このような苦境にあって、エリート知識人に安らぎの場を提供したのが幻想文学というユートピアであり、ボルヘスやビオイも、不安定な現実世界より強固で安定したフィクションの世界を構築することに救いを見出していた。夢、百科事典、図書館、機械、様々な仕掛けを駆使して現実世界を圧倒するフィクションを生み出し、現実と虚構の関係を転倒させれば、そこにマセドニオの提起する「形而上学的酩酊」が生じ、欠点だらけの現実から、たとえ束の間であれ離脱できる、これが彼らの創作理念であり、シルビナも深く共感していた。

 シルビナが本格的に短編小説の執筆を始めたのは1935年であり、翌36年に「スール」に発表された「スギでの昼寝」も含め、その後約2年にわたって書きためられた作品は、1937年に処女短編集『忘れられた旅』として刊行された。ここには計28作の短編が収録されているが、その大半は三ページに満たない小品であり、物語というよりは、画家らしい造形力を言葉で駆使したイメージの表現と言えるだろう。版元が同名の雑誌を母体とするスール出版だったことからも明らかなとおり、刊行が実現したのは姉ビクトリアの裁量によるところが大きいが、同じく37年に雑誌「スール」にビクトリア自らが寄せた書評では、姉妹愛の裏返しなのか、妹の稚拙な文章を批判し、「寝違えだらけ」でせっかくの美しいイメージが損なわれていることを指摘している。ちなみに、この頃になるとシルビナは、それまでずっと恐怖と敬意の入り混じるような思いで見つめていた姉をかなり露骨に避けるようになっており、ビオイとビクトリアの折り合いが悪かったこともあって、少なくとも創作において姉の意見に耳を傾けることはほぼなくなっていた。

 ブエノスアイレス郊外のパルドにビオイ家が所有する農園を愛の住処としていたシルビナとビオイは、1940年1月15日、ボルヘスの立ち合いのもとでようやく正式に結婚し、首都の中心街に近いサンタフェ通りに居を構える。このほか、オカンポ家は大富豪の家庭らしくアルゼンチン屈指のビーチ・リゾート地、マル・デル・プラータに豪華な別荘地を所有しており、夏には、「ビジャ・シルビナ」と呼ばれたシルビナ専用の豪邸で、ビオイはもちろん、ボルヘスも迎えて休暇を過ごすことがしばしばあった(ボルヘスはこのビジャ・シルビナで名作短編「八岐の園」[『伝奇集』所収]の着想を得たとされている)。また、シルビナはビオイとともに、1949年、1951年、1954年、1970年、1973年、計五度船でアメリカ合衆国やヨーロッパに出向いて長期間滞在している。本書に収録された傑作短編「愛」を筆頭に、いつも彼女が楽しんでいた船旅の経験が活かされている作品は多い。

 1954年からポサーダス通りの豪華マンションに舞台を移して続く二人の奇妙な夫婦生活については、シルビナに仕えた忠実な家政婦ホビータ・イグレシアスが回想録『ビオイ家の人々』(2002)で克明に記録しているが、すでに結婚以前から二人の関係が尋常でなかったことは、近年相次いで出てきた証言によって裏付けられている。そもそも、ビオイをシルビナと引き合わせたのはビオイの母マルタ・カサーレスだが、彼女自身、シルビナに対して同性愛的な崇拝を捧げており、ずっとシルビナのそばにいられるよう、息子をだしに使ったとも言われている。その反面、ビオイの父アドルフォ・ビオイ・ドメックは、大事な一人息子より10歳以上年長で、容姿端麗には程遠いシルビナを忌み嫌っており、二人の結婚には最後まで反対を続けた。律儀で堅物なビオイ・ドメックは、結婚後もシルビナに辛く当たり続け、笑顔さえほとんど見せることがなかったという。

 それに引き換え、男前で金払いもいい息子ビオイにとって、両親の思惑などどこ吹く風で、思春期から名を馳せたプレイボーイらしく、1934年にシルビナと同棲を始めてからも、何人もの女性と関係を持っている。しかもその一人は、シルビナの姉フランシスカの娘、つまりシルビナの姪にあたるシルビア・アンヘリカ、通称ヘンカだった(ビオイ本人が回想録『メモリアス』〔1994、邦訳現代企画室、2010〕でこの事実を認めている)。一部には、シルビナ、ビオイ、ヘンカの三人で愛の戯れに耽っていたという説もあるが、真偽は定かでない。間違いないのは、ビオイとヘンカの関係が結婚前から始まって結婚後も続き、シルビナがそれを黙認していたことだ。1949年にビオイ夫妻がアメリカ合衆国とヨーロッパへ旅立った際には、ヘンカも二人に同行していたことが知られている。ビオイが詩人オクタビオ・パスの妻エレナ・ガーロと猛烈な恋に落ちたのは、この旅行中だった。パリで逢瀬を重ねたビオイとガーロは、その後も1951年にパリ、1956年にニューヨークで再会して激しい愛を交わしており、この間ビオイがガーロに宛てたラブレターの一部はプリンストン大学に保管されていて、閲覧可能になっている。この関係もどうやらシルビナの「公認」だったらしく、二組の夫婦の友情はその後も壊れることがなかった。パス夫妻がブエノスアイレスを訪れた際には、ビオイ夫妻がポサーダス通りの自宅に二人を招いて食事を共にしたというし、シルビナが代表作「復讐の女」を執筆した際には、これをオクタビオ・パスに捧げている。こうした複雑な夫婦関係、不倫関係がシルビナの作品に様々な形で影を落としていることは、本書を一読すれば明らかだろう。

「色好み」という欠点を自認していたビオイの性的奔放ぶりは、その後もとどまるところを知らず、1954年7月には、愛人マリア・テレサ・フォン・デル・ラールとの間に婚外子マルタを儲け、自ら養育を引き受けている。この時もシルビナは黙って母親役を引き受け、彼女なりの拙い仕方ではあれ、生来の子供嫌いだったビオイに代わってこの娘に愛情を注ぎ込むことになった。さらに、1963年にもビオイは別の女性と婚外子ファビアンを儲けており、晩年に彼を正式に認知している。イグレシアスの証言によれば、70年代に入ってもビオイのお盛んぶりは相変わらずだったようで、毎晩夕食時には必ず帰宅して妻と夕食を共にするものの、午後は明らかにそれとわかる形で外出することが頻繁にあったという。そんな夫に対しシルビナは、表面上は理解を示し、「毎晩帰ってきてくれさえすればそれでいい」とうそぶいていたが、やはり内心穏やかではなく、家政婦を相手に愚痴をこぼしたり泣き出したりということがたびたびあったようだ。パラノイアと紙一重なほど臆病だった彼女が何よりも恐れていたのは、女性関係のもつれや事故などによって夫が帰ってこなくなる事態であり、イグレシアスによれば、毎晩玄関の脇に椅子を運んでじっと夫の帰りを待ち続け、夫の足音が聞こえると即座に寝室へ戻って何食わぬ顔をしていたという。神経をすり減らす生活が影響したのかは定かでないが、1987年にはシルビナにアルツハイマーの診断がくだり、これが結果的に、一見堅固に見えていた夫婦関係に決定的な亀裂を引き起こすことになる。病の進行で足元さえ覚束なくなった妻の様子を見るに見かねて、ビオイがこっそり監視役を付けたところ、感づいたシルビナはこの裏切りに憤慨して夫と口を利かなくなった。ビオイがいくら跪いて懇願しても奏功せず、シルビナはその後、とうとう二度と夫に言葉を向けることがないまま、1993年に亡くなった。トラブルの直接の原因はビオイの女性関係ではないが、5年以上にもわたって夫を無視し続けたとなれば、そこに積年の恨みを嗅ぎ取らずにはいられない。

 他方、1930年代から二人と厚い友情を結んでいたボルヘスは、後々までビオイ夫妻の生活に欠かせない存在であり続け、ビオイの日記からボルヘスに関わる部分を集めて刊行された大作『ボルヘス』(2006)で語られているとおり、ボルヘスは毎晩のように二人の自宅を訪れて夕食を共にしていた。シルビナとビオイのような大富豪一族の出身ではないボルヘスにとって、とりわけペロン政権から露骨な迫害を受けて以降、二人の存在は精神的、そして金銭的にも貴重な支えとなったようだ。夕食とその後に続く団欒の場で、シルビナも交えてボルヘスとビオイが交わしていた会話の内容は、『ボルヘス』に克明に記されており、古今東西の文学作品をめぐる議論から、同国人作家に関するゴシップまで、そのテーマは多岐にわたっている。注目に値するのは、『ボルヘス』を見るかぎり、三人の文学談義においてシルビナが添え物も同然の役割しか果たしていないことであり、実際のところ彼女は、自分が除け者にされていると感じることも多かったようだ。文学作品や自分たちの創作、翻訳について、ボルヘスかビオイが何か突飛なことを言い出して二人で大爆笑していても、シルビナは狂人でも見るように冷めた視線を送るばかり、そんなこともしばしばあったという。また、1970年代に入って、シルビナがマヌエル・プイグと親交を深めると、このホモセクシュアル作家を軽蔑していたボルヘスとビオイは、彼との関わりを完全に避けたばかりか、シルビナにまで冷ややかな視線を送った。

 こうして奇特な生活を送りながらも、結婚後のシルビナは詩作を中心にマイペースで創作を進めており、散発的に詩や短編を「スール」などの文芸雑誌に寄稿した。1942年に刊行した詩集『祖国目録』がボルヘスの絶賛を受け、45年刊行の詩集第二弾『韻文空間』がブエノスアイレス市の主催する文学賞を受賞すると、シルビナは文壇から一目置かれる存在となり、夫ビオイと共同で執筆した推理小説『愛する者は憎む』(1946)が商業的成功を収めて以後は、創作の中心を短編小説に移すようになった。1948年刊行の短編集第二弾『イレーネの自伝』は、表題作を含めわずか5編を収録しただけの小品だったが、シルビナの短編のなかで最も長い「詐欺師」を筆頭に、前作と較べてプロットの完成度が格段に上がっており、ボルヘスとビオイの激励を受けるには十分の出来だった。そして、1959年、1961年に相次いで、それぞれスール社とロサダ社から刊行されたのが、短編集『復讐の女』と『招かれた女たち』であり、現在までこの2作がシルビナの創作の頂点と位置づけられている。折しも、コルタサルの短編集『秘密の武器』(1959)が好調な売り上げを記録し、ボルヘスがフォルメントール賞受賞(1961)によって世界的注目を集めた時期と重なったこともあって、大評判とまではいかなかったが、発売直後に雑誌「スール」に書評が掲載(1960年の264号と1962年の378号)されたほか、1960年1月には、後にアルゼンチン文学の大御所作家となるトマス・エロイ・マルティネスが有力新聞「ラ・ナシオン」に書評を寄せるなど、作家たちの間でのシルビナの評価は揺るぎないものとなった。

【目次】

復讐の女
  金の野兎
  続き
  病
  後裔
  砂糖の家
  時計の家
  ミモソ
  ノート
  巫女
  地下室
  写真
  マグシュ
  土地
  品々
  私たち
  復讐の女
  引き出しに紛れ込んだ手紙
  死刑執行人
  黒玉
  最後の午後
  ビロードのドレス
  レオポルディーナの夢
  周波
  結婚式
  女性患者と医師
  電話の声
  罰
  お祈り
  創造(自伝的物語)
  吐き気
  快楽と罰
  友達同士
  天国と地獄の報告
  絶滅しない人種

招かれた女たち
  あんな顔つきだった
  雄牛の娘
  脱走
  ベッドの下の手紙
  現像
  アメリア・シクータ
  黒雑貨屋
  階段
  結婚式
  科学の進歩
  幻視
  寝床
  煙の輪
  檻の外
  イシス
  復讐
  シビュラの恋人
  モーロ
  エクアドルの不吉な男
  魔法の医師
  近親相姦
  手の平の顔
  愛人たち
  ティルテ温泉
  地下生活
  鬘
  贖罪
  亡霊
  マルメロの牝鶏
  セレスティーナ
  イセラ
  完全犯罪
  結び目
  愛
  致命的罪悪
  ラダマンテュス
  穀物倉庫
  刻印の木
  別れの手紙
  魔法のペン
  ポルフィリア・ベルナルの日記――ミス・アントニア・フィールディングの話
  招かれた女たち
  石
  アドラーノ寺院のマスチフ犬

     シルビナ・オカンポ[1903–93]年譜
     訳者解題
【訳者紹介】
寺尾隆吉(てらお・りゅうきち)
1971年、名古屋市生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了、学術博士。現在、早稲田大学社会科学総合学術院教授。専門は20世紀のラテンアメリカ小説。著書に『ラテンアメリカ文学入門』(中公新書)、『一〇〇人の作家で知る ラテンアメリカ文学ガイドブック』(勉誠出版)など。訳書にマルティン・ルイス・グスマン『ボスの影』(幻戯書房)、ホセ・ドノソ『別荘』(現代企画室)、バルガス・ジョサ『水を得た魚』(水声社)など多数。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。本篇はぜひ、シルビナ・オカンポ『復讐の女/招かれた女たち』をご覧ください。