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マルティン・ルイス・グスマン『ボスの影』訳者解題(text by 寺尾隆吉)

 2020年9月28日、幻戯書房は海外古典文学の翻訳シリーズ「ルリユール叢書」の第12回配本として、マルティン・ルイス・グスマン『ボスの影』を刊行いたします。
 マルティン・ルイス・グスマン(Martín Luis Guzmán 1887-1976)はメキシコの著名な作家にして、政治家としても活躍した人物として知られています。ジャーナリズム活動をしていたグスマンは、メキシコ革命勃発後、1913年にパンチョ・ビジャの北軍に合流。文民としてビジャの顧問役を務め、革命政権発足後、何度も政争に巻き込まれながらも、自らの理想を貫き、スペインとアメリカに二度亡命しています(スペインでは、〈ルリユール叢書〉の既刊書、『独裁者ティラノ・バンデラス 灼熱の地の小説』の著者バリェ゠インクランとも交流がありました)。本書『ボスの影』はスペイン亡命時に連載が始まった作品で、1929年マドリードで刊行、「メキシコ革命小説」の代表作として、グスマンの実際の政治体験が色濃く反映された政治小説の傑作となっています。
 以下に公開するのは、訳者・寺尾隆吉さんによる「解説」の一節です。

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マルティン・ルイス・グスマン『ボスの影』訳者解題(text by 寺尾隆吉)


メキシコ革命とマルティン・ルイス・グスマン

 メキシコ現代史は1910年のメキシコ革命とともに幕を開ける。1876年から長期独裁政権を敷いていたポルフィリオ・ディアス将軍に対し、世紀が変わる頃から断続的に様々な反対運動が国内各地で起こっていたが、1910年、ディアスが引退の意向を撤回して大統領選挙に立候補したうえ、対立候補を強引に押さえつけて再度大統領に就任したところから、この動きはメキシコ全土を巻き込む武装蜂起に発展した。同年11月、マルティン・ルイス・グスマンの父グスマン・ウェスト将軍は、首都からメキシコ北部のチワワ州に派遣されて反乱の鎮圧にあたり、12月29日に戦闘で命を落としている。

 グスマン・ウェストは忠実に独裁体制に仕えた腕利きの軍人であり、息子マルティン・ルイスも、主に首都とベラクルスの公立学校で教育を受けていた少年時代には、国家の平和と安定を支えるディアス将軍に畏怖と尊敬の念を抱いていたという。だが、首都の名門、国立予科学校(今の高校と大学の中間ぐらい)へ入学した1904年以降、後に「青年アテネオ」と呼ばれる知識人グループを結成する仲間たちと出会ったことで、メキシコが置かれている状況を直視し始め、少しずつ独裁政権に批判的な立場を取るようになった。革命勃発直前の1909年10月に正式な組織となる「青年アテネオ」には、20世紀前半のメキシコを代表する文筆家アルフォンソ・レジェス(Alfonso Reyes 1889‐1959)や、革命成立後の政権で文部大臣を務める思想家ホセ・バスコンセーロス(José Vasconcelos 1882‐1959)など、後に文化・教育活動の中枢を担う若者が多数参加している。

 法学を専攻しつつ、ローマ古典やスペイン文学の名作に触れて文才を磨いたグスマンは、1908年、当時の有力新聞「エル・インパルシアル(公明正大)」の執筆陣に加わり、これ以後、ジャーナリズムは彼の活動の柱となる。1909年からはアメリカ合衆国のアリゾナに領事として着任するが、父が戦死した直後の1911年1月に帰国し、ディアス追放に成功したフランシスコ・マデロの支援に乗り出した。同年11月にマデロが大統領に就任した後、ジャーナリストとして、そして政治家として、グスマンは革命政権を支援したものの、1913年2月、反動的なビクトリアノ・ウエルタ将軍の蜂起によってマデロは追放された。これに対しグスマンは、マデロ支持派を結集して新聞「エル・オノール・ナショナル(国の名誉)」を創刊するとともに、メキシコ北部でウエルタに反対して蜂起した農園領主ベヌスティアノ・カランサやアルバロ・オブレゴンとの接触を試みる。1914年2月、グスマンはソノラ州でオブレゴンの参謀本部に合流し、直後にカランサとも会見したが、彼にとってこの二人は、エリート階級出身の野心家・策略家にほかならず、心からその方針に賛同することはできなかった。同世代の理想主義的知識人にたがわず、農民層出身の革命勢力に無邪気な希望を抱いていたグスマンは、同年3月、チワワで貧農の代表者パンチョ・ビジャと会見したのを機に、文民として彼の諮問役を買って出た。その後、1年近くにわたって革命戦下でビジャと苦楽を共にした経験は、二作の回想録、『鷲と蛇 El águila y la serpiente』(1928)と『パンチョ・ビジャの思い出 Memorias de Pancho Villa』(1938‐40)に詳しく記されており、野蛮だが根は善良な革命家の人柄を伝える貴重な文献となっている。文盲で粗野な田舎者だったビジャに手を焼かされることは多かったようだが、『鷲と蛇』に収録された有名な逸話によれば、投降してきた敵部隊を当然のように皆殺しにしようとする彼を説得して翻意させたこともあり、グスマンに対する将軍からの信頼は厚かったようだ。1914年を通してグスマンは、ビジャ派の代表としてメキシコシティで様々な政治活動を展開し、革命各派の利害を調整するために開催されたアグアスカリエンテスの会議でも辣腕を振るったものの、主導的役割を果たしていたカランサから常に目の敵にされ、一時首都で身柄を拘束されたこともあった。この件も含め、『鷲と蛇』にはカランサに関する記述もしばしば現れるが、当然ながらグスマンは、理想を欠いた日和見主義的政治家の典型として彼を断罪している。

 1915年1月、革命政府内部の党派争いに身の危険を感じたグスマンは、家族とともに国外へ逃れることを決意し、1916年までスペイン、その後1919年までアメリカ合衆国で亡命生活を送った。失意の亡命とはいえ、政治に足を突っ込んだラテンアメリカ知識人には往々にして起こるとおり、グスマンにとって、政治に煩わされることなく国外で暮らす日々は絶好の転地療養となり、自国を客観的に見つめ直す機会となったばかりか、落ち着いて読書や文筆業に励むことができるようになった。マドリードでは、1915年に初の著作『メキシコの抗争 La querella de México』を刊行し、ニューヨークでは、スペイン語新聞「エル・グラフィコ(図式)」の編集長を務めたほか、様々なスペイン語の新聞・雑誌に政治的論考を寄稿している。ドミニカ共和国出身の著名文芸批評家で、青年アテネオの指導者格だったペドロ・エンリケス・ウレニャ(Pedro Henríquez Ureña 1884‐1946)と再会したのもニューヨークにおいてであり、後にグスマンは、彼からミネソタ大学の教員職を紹介されている。

 1919年初頭に帰国したグスマンは、ジャーナリストとしての実績を買われて、即座に有力紙「エル・エラルド・デ・メヒコ(メキシコ伝令)」の社説担当に起用された。同年六月、翌年の大統領選挙に向けてカランサとオブレゴンの対立が表面化すると、グスマンは、オブレゴン支持のために再び政治家と接触を始める。翌年、一時オブレゴンは首都を離れてソノラへ逃れるが、ビジャとサパタの流れを汲む軍人政治家が相次いで彼を支持し、国内各地で蜂起が起こったことで、カランサは窮地に追い込まれた。最終的にカランサは、ベラクルスへの逃亡中に裏切りに遭い、1920年5月に暗殺される。カランサを嫌っていたグスマンは、この間、マサトランで蜂起したラモン・イトゥルベ将軍と、オブレゴンの代理として同年5月から暫定大統領に就任するアドルフォ・デ・ラ・ウエルタとの同盟を仲介するなど、オブレゴンの大統領就任を側面から支援した。同年12月、オブレゴン政権の成立に伴い、グスマンは外務大臣アルベルト・パニの私設秘書に任命されたほか、21年から文部大臣に就任する盟友バスコンセーロスの文化政策にも協力した。翌年3月には、夕刊紙「エル・ムンド(世界)」を創刊して自らの政治理念を発信し、9月には、首都の選挙区から下院議員に選出されている。

 だが、血みどろの権力争いが続くメキシコ革命政権にあって、妥協を知らず理想に邁進するグスマンが落ち着いた政治家生活を送ることはできなかった。1923年初頭、それまで歩調を合わせてきたオブレゴンとデ・ラ・ウエルタの対立が表面化し、翌年の大統領選挙に向けて、オブレゴンが推すプルタルコ・エリアス・カジェス将軍の対抗馬として、デ・ラ・ウエルタが出馬する意向を示したところから事態は急転する。革命戦争時代からの親友としてデ・ラ・ウエルタの実直な姿勢に共感していたグスマンは、国会から、さらに「エル・ムンド」の紙上から彼の支援に乗り出し、今度はオブレゴンに睨まれることになった。ついに同年12月、「政治思想を変えるか、さもなくば政府に抹殺されるか、そのどちらかだ」という趣旨の脅迫を受け、部下を匿おうとするパニ大臣の取り計らいもあって、家族とともにアメリカ合衆国への逃亡を決意する。ラレドまで辿り着いたところで、オブレゴンの回した追手に拘束されそうになるものの、軍部にはグスマンに好意的な人物も多く、彼の機転と一部軍人の「意図的な怠慢」のおかげで、彼は間一髪国境を越えることができた。この後、デ・ラ・ウエルタは武装蜂起に打って出たものの失敗し、1924年3月にアメリカへ亡命した。また、グスマンの新聞「エル・ムンド」は、まず政府に没収された末、廃刊に追い込まれた。

 二度目の亡命生活に入ったグスマンは、ニューヨーク、マドリード、パリを経て、1927年10月にマドリードに落ち着いた。亡命に伴う不自由はあったものの、この後、1936年4月に帰国するまで、文筆業におけるグスマンはまさに水を得た魚であり、新聞・雑誌への寄稿や著作の執筆においてめざましい成果を上げている。ジャーナリストとしては、「エル・ソル(太陽)」や「ラ・ボス(声)」といったマドリードの新聞で編集長を務め、メキシコの「エル・ウニベルサル(普遍)」のほか、スペイン各地の新聞やアメリカ合衆国のスペイン語新聞から積極的に持論を展開した。また、権謀術数の渦巻く弱肉強食のメキシコ政治を生き抜いてきた体験はスペイン政治にも活かされ、1931年から第二共和政のトップに立つマヌエル・アサーニャのブレーンとして、的確なアドバイスで脆弱な民主主義的政権を支えている。そして執筆活動においては、代表作の『鷲と蛇』と『ボスの影』のほか、評論集『民主主義の冒険』(1931)、評伝『青年ミナ―ナバラの英雄』(1932)を刊行した。マドリードへの到着当初から、スペインの文豪ラモン・デル・バジェ・インクラン(Ramón María del Valle-Inclán 1866‐1936)がホテル・レヒーナで主宰していたテルトゥリア(文学談議)にもよく顔を出していたようで、文壇の動向についてここで情報を得ていたほか、バジェ・インクラン(バリェ゠インクラン)がラテンアメリカを舞台にした名作『ティラノ・バンデラス』(1926、幻戯書房より『ティラノ・バンデラス 灼熱の地の小説』として2020年に邦訳)を刊行した際には、メキシコの「エル・ウニベルサル」(1927年4月29日)に書評を寄せている。また、27年にバジェ・インクランが一時独裁政権に拘束された際には、「マドリード通信、判事の前に立つドン・ラモン」という記事を、同じく「エル・ウニベルサル」(1927年12月4日)に寄稿した。

 他方、グスマンの宿敵オブレゴンは、二度目の大統領就任を間近に控えていた1928年7月、首都のレストランで会食中に、狂信的キリスト教徒の銃弾を浴びて(メキシコ名物のモーレ・ソースに頭から突っ込んで息絶えたと言われている)暗殺されたが、オブレゴンの後継者としてメキシコ政界を牛耳ったカジェスからも目の敵にされていたグスマンは、その後も長くスペインでの亡命生活を強いられた。ようやく事態が好転するのは、1934年から大統領に就任したラサロ・カルデナスが、翌年にカジェス一派を追放して以降のことであり、1936年4月、大統領直々の要請を受けて、グスマンは念願のメキシコ帰国を果たした。知識人として理想を貫いたグスマンは、『鷲と蛇』と『ボスの影』の成功にも後押しされて、政界でも文壇でも一目置かれる重鎮的存在となり、頻繁に文化・教育関係の公職をこなしながら、『パンチョ・ビジャの思い出』や、歴史論的エッセイ『歴史に残る死』(1958)などの執筆を続けた。1952年にはメキシコ言語アカデミー正会員、1970年には政権与党PRIの上院議員に選出されるなど、晩年まで彼の人望は衰えを知らず、大統領や大統領候補の遊説に同行することもしばしばだった。また、グスマンの文化的貢献で見逃せないのは出版業への刺激であり、彼が創設した出版社の一つ、EDIAPSA社(1939年創業)は、当時まったく無名だったキューバ人作家アレホ・カルペンティエール(Alejo Carpentier 1904‐80)の『この世の王国 El reino de este mundo』(1949)や『失われた足跡 Los pasos perdidos』(1953)を大手出版社に先駆けていち早く刊行するなど、ラテンアメリカ文学の興隆にも重要な役割を果たしている。そして1976年12月22日、すでに上院議員の職を務め終えていたマルティン・ルイス・グスマンは、メキシコシティの自宅で、惜しまれつつも89歳で静かに息を引き取った。80歳を迎えた1967年にも、多くの有力新聞・雑誌が彼の作品と生涯をめぐる特集を組むなど、相変わらず国全体から尊敬を集めていたグスマンだったが、1976年から1977年前半にかけてメキシコ内外から彼に贈られたオマージュは、それをはるかに凌ぐレベルに達していた。


【目次】

 第一部 権力と若さ
一 ロサリオ
二 アフスコ山の魔法
三 三人の友人
四 森の晩餐
五 党指導部

 第二部 アギーレとヒメネス
一 政治的釈明
二 大統領候補
三 ライバル同士

 第三部 カタリーノ・イバニェス
一 取引
二 総会
三 行進
四 乾杯

 第四部 襲撃
一 フロントンの男たち
二 デシエルト道路
三 《メイビー》の小切手
四 大臣最後の数日
五 サルディバル
六 辞職の産物

 第五部 プロタシオ・レイバ
一 陰謀
二 オリビエル議員追跡
三 カニソの死
四 議会の戦闘

 第六部 フリアン・エリソンド
一 蜂起の兆候
二 候補と将軍
三 トルーカ計画
四 『大日報』
五 マヌエル・セグーラ
六 黄昏の車
七 イヤリング

  マルティン・ルイス・グスマン[1887–1976]年譜
  訳者解題

【訳者紹介】
寺尾隆吉(てらお・りゅうきち)
一九七一年、名古屋市生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了、学術博士。現在、早稲田大学社会科学総合学術院教授。専門は二十世紀のラテンアメリカ小説。著書に『ラテンアメリカ文学入門』(中公新書)、『一〇〇人の作家で知る ラテンアメリカ文学ガイドブック』(勉誠出版)など。訳書にホセ・ドノソ『別荘』(現代企画室)、バルガス・ジョサ『水を得た魚』(水声社)など多数。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。本篇はぜひ、『ボスの影』をご覧ください。