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年末の一人旅 「夜行快速」の思い出

こんにちは。ゲンキです。

今回はちょうど4年前の今日(2019年12月26日)に実施した旅、引退間近の夜行快速「ムーンライトながら」に乗ったときの旅行記をお送りします。


当時の僕は高校2年生。その頃から既に一人であちこちに遠出していましたが、その行動範囲をだんだんと広げている最中でもありました。
そんな中、年末に一人で「夜行快速」に乗って京都から東京へ行くことにしたのです。その体験をもとに当時の僕が書いた「旅行記」が今も残っており、思い返せばちゃんとした旅行記を書いたのはそれが初めてだったような気がします。今回は、そんな僕の旅行記のルーツとも言える旅を振り返っていきたいと思います。

ちなみに原文はウケ狙いのイタイ文体だったので、今回の記事は概ね書き直しであることをご了承ください……



2019年12月26日

21:40 岐阜県 大垣駅

実家のある京都を出発し、真っ暗な関ヶ原を越えて岐阜県までやってきた。この時間から在来線で東京へ向かうなんて冗談のような話だが、あと2ヶ月で18歳になる僕は「青春18きっぷ」とワクワク感を両手に握って大垣駅のホームに降り立った。

これから乗るのは夜行快速列車「ムーンライトながら」東京行き
青春18きっぷシーズンを中心に運転される臨時列車で、東京駅から岐阜県の大垣駅までを結んでいる。「快速」という名の通り、指定席料金を除けば特別料金は不要。普通列車限定の青春18きっぷでも利用できる上に、夜中のうちに東京〜関西の移動ができてしまう、貧乏旅にはもってこいの超便利列車である。それだけに指定席の確保が難しく、僕も一ヶ月前の発売日に席を押さえておいたのだった。

(捕捉)
「ムーンライトながら」は2020年をもって運行を終了しました。もともと採算が悪かったところにコロナが直撃し、車両の老朽化もあって廃止となったようです。僕が乗った2019年末は、図らずも「ムーンライトながら」の引退間際でした。


ムーンライトながらには特別な思い出がある。
僕は昔から夜行列車が好きだったが、高校生になるまで一度も夜行列車に乗ったことはなかった。昭和の面影を残す寝台車、目覚めたら遥か遠くの知らない土地、そんなロマン溢れる列車の旅に憧れていた。しかしほとんどの夜行列車は2010年代に姿を消し、一番好きだった寝台特急「トワイライトエクスプレス」も手の届かない超高級クルーズトレインになってしまった。

そんな中、高校1年の夏休みに初めて乗った夜行列車がこの「ムーンライトながら」だったのだ。鉄道好きの友達が誘ってくれて、二人で東京へ弾丸低予算旅行をした。その時の感動と興奮が忘れられず、また再び乗りに来たのである。


発車まであと1時間。コンビニで明日の朝食を調達し、イートインスペースで暇を潰しつつスマホとカメラを充電。寒い上にそこそこ雨が降っていた。

22時半、発車時刻が近づいてきたのでホームへ向かう。
改札にはこれから同じ列車に乗ると思われる人々が集まっており、みんな有人改札に並んで、駅員さんに18きっぷを見せて入場している。僕もそれに倣って列に続いた。

電光掲示板を見上げると、「ムーンライトながら 22:48 東京」の文字。列車名もそうだが、何より「東京」という行き先表示に胸が躍る。東京という地名には、有無を言わせず人々に憧れと期待を抱かせるような特別な響きが宿っていると思う。



ホームに降り立つと、そこには明らかに普段とは違う空気が流れていた。

老若男女さまざま、多くの人がこれから始まる旅を楽しみに、またはそうでないとしても、一人一人がそれぞれの感情を持ってここに立ち列車を待っている。いろんな気持ちが混ざって混ざって溢れかえっている。

冬の空気で凍えた体を温めるためか、それとももう高揚感が抑えきれないのか、みんなどこかそわそわしているようだった。僕もホームを行ったり来たりして歩き回った。



22時38分、暗闇の向こうからレールの平行線を照らし出す眩しい光が現れた。それはだんだんと近づいてくる。やがて人々の注目もそちらに向き始め、自分を含め何人かはカメラを構え出した。ヘッドライトが遠くの方からゆっくりと近づいてくる。

ついに姿を現した、夜行快速「ムーンライトながら」。人が歩くような速度で慎重に入線し、ブレーキを軋ませて停車した。国鉄時代に製造された古い電車には雨粒が滴り、蛍光灯の光を反射して滑らかな光沢を纏う。

ドアが開かれ、リュックやスーツケースを抱えた人々が車内に乗り込んでいく。列車を写真に収める人も多く、ホームにはまだかなりの人が行き交っている。

僕も数分ほど撮影したあと、乗り遅れないよう余裕をもって列車に足を踏み入れた。


ムーンライトながらは全席指定の10両編成、僕が乗るのは後ろ寄りの2号車。大垣の時点で既に半分以上の座席が埋まっているが、ここから先の停車駅で乗客を拾っていけば満席になるだろう。



22:48 ムーンライトながら

定刻通り大垣駅を発車。古びたモーターを唸らせ、ガチャガチャと車体を揺らしながら速度を上げていく。これから翌朝の5時5分に到着するまで、約6時間の夜を越える旅が始まった。そう、この列車に乗ったまま夜を越えるのだ。

「ご利用いただきましてありがとうございます。快速ムーンライトながら、東京行きです。」
車掌さんのアナウンスが流れ、乗客全員がそれとなく耳を傾ける一方、ドア付近ではスピーカーにマイクを直付けして音声を記録する「音鉄」も数人ほどいた。

これから先の停車駅は岐阜、名古屋、豊橋、浜松、静岡、沼津、横浜、品川、東京。快速といいつつも特急ぐらい飛ばしてくれる。使用車両も特急用の電車だからお得な気分だ。あと鉄道好き的には電車がボロくて国鉄の匂い満載なのが嬉しい。

逆に良くないところといえば、電車がボロくて国鉄の匂い満載なところだろうか。まずモーターの音がありえへんほどうるさい。この185系という電車に使われているモーターは高速走行中に「ブーーーーン!!!」というやかましい音を立てるのだが、これがとにかく睡眠を阻害する。しかも一晩中鳴り続ける。だが鉄道オタクの中にはこのモーター音を子守唄代わりに快眠できるような強者も少なくない。

しかし座席に座ったまま脚を伸ばせないのは夜行列車として壊滅的だ。足元を見ると前の座席の下にヒーターがあり、これが完全に足を伸ばせるスペースを塞いでいる。そもそも横になれないのに脚も伸ばせない、本来睡眠時にとるべき姿勢を真っ向から否定している。しかしそのヒーターのおかげで僕たちは真冬の夜でも足を冷やさずに済むのであり、むしろ感謝すべきところでもある。

最初の停車駅、岐阜を出たところで車掌さんが検札に回ってきた。指定席券と18きっぷを見せ、検印を押してもらう。

列車は東に向けて爆走する。モーター音がすごいことになっているが、既に眠っている人もいるようだ。僕は静かに缶コーヒーとチョコを取り出し、深夜旅のお菓子タイムを満喫した。


23:20ごろに名古屋、0:15ごろに豊橋と停車。

名古屋ではかなりの人が乗ってきた。乗客は乗り鉄ばかりかと思っていたが、前の席に子連れの家族が乗ってきたりして意外に客層が広いことに驚く。一人で利用しているおばあちゃんもいた。その後は多くの人が寝始め、隣の人もずっとPCで作業していたのを切り上げて寝たようだった。

0:30時点での乗客の就寝率は80%ぐらい。通路を挟んで右側の2人組はこのぐらいの時間までゲームをしていた。斜め前あたりに座っていたお兄さんは、前の席に寄っ掛かり顔面を押し付けて口を開けて寝るというダイナミックな寝相だった。

僕はというと名古屋を出たあたりからスケッチを始めたので、「完成させるまでは寝ない」と決めて描き続けた。旅の直前に導入したばかりのiPad Proを使って、デジタルペイントに手を慣らしながらペンを動かした。


0:46浜松着。ここでは約9分間停車するので、少し降りて外の空気を吸う。そして脚を伸ばす。寝ていた人も何人か起きてきた。ホーム上の自販機で飲み物を買う人がちらほらいる。

深夜の駅に停車する夜行快速。令和元年とは思えないノスタルジックな光景だ。
ムーンライトながらは、かつて東京〜大垣で運転されていた夜行普通列車「大垣夜行」を前身としている。少し前までは同じような夜行快速があちこちで運転されていたが、今ではムーンライトながらが最後の生き残りだ。新幹線と飛行機が主流となった今において、まさに「生きた化石」のような列車である。

これがまだ走っている時代に立ち会えたことは幸運としか言いようがない。そして何よりも、自分で乗りに来てよかった。
人々はよく遠くの風景を夢見て「いつか行きたい」と言うが、「いつか」では間に合わないことばかりだ。僕はそれをコロナよりも早く、消えゆく夜行列車に教えてもらった。「いつか」と夢のまま熟成させるくらいなら、今すぐにでもその夢を叶えに行った方が絶対に後悔しない。「今」それを全身で感じている。


浜松を出ると、大多数の乗客は座席に座って目を閉じていた。東京まであと4時間、寝ても寝足りないくらいだ。

ちなみに車内灯は深夜だろうと関係なく点けっぱなしなのでアイマスク必須。寝静まる客室とギンギンに冴え渡る蛍光灯、そして爆音のモーター。状況がいろいろと噛み合ってなくて面白い。





2時半頃、ようやくスケッチが完成。

これを描いてから4年経った今でも、このスケッチは列車に乗っている最中の高揚感や空気感が伝わってくる良い絵だと思う。カメラと絵を両用する中で「写真なら残せるもの」と「絵なら残せるもの」があることに気づいたのも、ちょうどこの頃だっただろうか。



3時5分、沼津駅。気づけば静岡県を横断しており、もう箱根のトンネルを抜ければ関東エリアに突入するところまで来た。

ここでは16分ほど停車する。浜松ほどではないが、ホームに降りて列車を撮影する人たちがいた。その横を幽霊のような貨物列車が生気もなく追い抜いていく。


沼津駅を発車し、僕もいい加減寝ることにした。が。

寝れない。アイマスクを着けてはいるが、さっきまで絵を描いていたせいで目が冴えまくっている。あとやっぱりモーター音がうるさい。さらに腹が減ってきた。さっきまあまあな量のチョコ食べたのに。「これ寝れるのか、というかまず眠くなれるのか」と不安になりつつ、とりあえず目だけ瞑っておくことにした。













アナウンスの声で起床。アイマスクの端から漏れる照明の眩しさに目が染みて涙が出てくる。だんだん慣らして外を見ると横浜に着いたところだった。時刻は4時40分。

目がめっちゃシパシパする。涙が止まらん。フラフラした足で顔を洗いに行った。

レバーから手を離すと水が止まるタイプの洗面台。片手で顔を洗い、ついでにトイレへ。


曇ったドアの窓を拭いて外を見ると、辺りはまだ真っ暗闇。大都会横浜もまばらに建物の電気がついている程度。朝になった実感が湧かない。
結局僕は1時間半ぐらいしか寝なかった。というか、ぐっすり寝ることは出来ず4分の1ぐらい起きながら辛うじて睡眠をとれたようなものだった。そう、これは夜行快速。「寝れる」とは言ってない。


終点東京まで残りあと少し。電車は相変わらず叫ぶようなモーター音を響かせながら、早朝の東京都心へと突っ込んでいく。車内の人々も起き始め、のそのそと荷物の整理を始め出した。

4時57分、品川に到着。日本屈指の大ターミナルもようやく仕事を始める頃。朝から晩まで目まぐるしく列車を捌いているこの駅も、まだどこか眠たげな様子だった。

品川を発車すると、何本もの線路と並走しながら高層ビルの足元を走っていく。しかし高層ビルの明かりはほとんど見えず、すれ違う列車もなく、ただ暗闇の中ラストスパートをかけていく。東京といえば建物がデカいみたいなイメージがあるから、何も見えない黒い窓を見ていると「自分は本当に東京に来たのだろうか」と不思議な気持ちになった。

しかしアナウンスの声が
「まもなく終点東京、東京です。」
と告げると、やはり東京に来たんだと感じるのだった。



5:05 東京駅

列車は左右に揺れながら東京駅のホームに滑り込む。大垣から6時間17分、長いようで短いような夜行列車の旅が終わった。

さすが東京駅はこの時間から人が多い。ムーンライトながらから降りた人だけでなく、ここから電車に乗る人もそこそこいるようだった。みんなこんな時間にどこから現れたのだろう。

ここまで僕たちを運んできた列車は、表示幕を「回送」にして車庫へ引き上げる準備をしていた。乗客たちはもうホームを後にして、それぞれの行き先へと向かう別々の列車を待っている。違うところからやってきて同じ列車に乗り、そしてまた散り散りになっていく。通勤電車でも新幹線でも日々そんな営みが行われていると思うと、少し感慨深いような気持ちになった。


もう二度と乗ることはできない「ムーンライトながら」の旅。この旅から学んだことはたくさんある。やりたいことはやれるうちにやること。旅のワクワクと非日常感、列車がつなぐ人々の道のり。そして、それらを体験した感動を誰かにも伝えたい気持ち。高校生のうちにムーンライトながらに乗れたことは、僕の旅人生の中でも大切な思い出の一つだ。

夜行快速は消えてしまったけど、旅の魅力そのものが無くなったわけではない。名残惜しさを抱えながらも、これからの旅路に目を向けていきたい。この夜の初心を大切にしつつ、臨場感と手触りのある感動を編み込んだような、そして読んでくれた人を旅に駆り立てるような旅行記をこれからも書いていきたいと思う。

おわり




【おまけ】
最後に、僕が好きなムーンライトながらの旅行記をご紹介します。

【眠れない!】貧乏高校生がムーンライトながらで華麗に上京してみた!(豊橋ー東京) するめ

2018年に投稿されたこちらの旅行記動画。今回の旅に出る前、僕はこれを何度も繰り返し見てはムーンライトながらの旅を想像していました。あちこちのシーンや語りから投稿者さんが心の底から旅を楽しんでいる様子が伝わってきて、自分も乗ってみたいと強く思わせる力がありました。そして自分も旅で感じたことをこんな風に形にしてみたいと思うきっかけを与えてくれた動画でもあります。よろしければぜひご覧ください。


それでは最後まで読んでいただきありがとうございました!

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