民主主義、行き詰ってない? ①心が貧しい社会

民主主義って別に万能解ではないよねっていう連載。


民主主義とは基本的にはまず多数決の原理に基づいて物事が決められていきますよね。

つまり何かを発案する場合、多数派を納得させて味方にする必要があるということです(武力は使わない決まり)。


ここで、多数派と少数派の例を一つ。

生産年齢人口のうちの大多数は真面目に働いていて、少数が僕のようなニート生活を送っています。

ニートをいかにして脱却するか、これを社会的に支援しようという動きは最近でこそ見られますが、ひと昔前は"働かざる者、食うべからず"の自己責任論が世の大多数でした。

そりゃあ、今まで自分がいい会社・いい大学に入るために犠牲にしてきた青春やら、お金のため生活のために犠牲にしている"今そのもの"やらを考えると、「今までサボってきた奴をなんで税金かけて救ってやらにゃならん」と考えるのはごく自然です。

しかし、サボっているニート以外にも、病気、シングルマザー、交通事故遺児など、様々な理由で人の生活は簡単に困窮します。


「いま自分が困っていないから、これからも困ることはマァないだろう」

多くの人がそう思って日々を過ごしているのではないでしょうか?

いつ死んでもいいように毎日を生きている人なんて、ほとんどいないのではないのでしょうか?


そうした想像力・思いやりの欠如、あるいはそんなことを考える心の余裕がない程に社会が疲弊していると、少数派・弱者を切り捨てる世の中になっていきます。

切り捨て社会では誰もがそのうち切り捨てられるという想像力を持った方が良いでしょう。

弱者を切り捨てると強者が残り、その強者の中での優劣で切り捨てる者が決めるわけですから、弱者のラインはどんどん上がるのです。


少数派は、その字の通り数が少ないので、いくら現状を変えるべきと訴えても、多数派が聞く耳・思いやりを持たなければ、民主主義的に物事を発案・変革することができないのです。

では現代日本の聞く耳・思いやりはどうなっているでしょうか?

とにかく安い物を買うことだけを考え、プレミアムつきクーポン券は秒で売り切れ、安く人を使い捨て、救急車のサイレンにクレームの電話を入れたりする程、心が貧しい社会になっています。

その前提においては、心の貧しい多数派が、困窮した少数派をわざわざ救ってやろうと思わないでしょう。


民主主義が行き詰っても何の不思議もありません。

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