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「高望み」と言われても、自分の理想を捨てるべきではない

年収とか学歴の議論が出ると、最近は決まって平均値とか中央値とか最頻値とかを示して統計的にこうだからこうだという論理を示す者が必ず現れ、それが正論かの様に話す。

そしてどうもそれが正論かのようなコンセンサスが出来上がることが多いようだ。


しかし、それは発言者の意図を無視した身勝手な正論なのである。


例えば、下記の様な話を考えてみよう。

普通の男性の基準が、容姿が歌手の星野源似、身長165cm以上・体重60~80kg程度のジム通い、学歴は「日東駒専」以上、年収は500万円以上で清潔感のある人と紹介されたことに、インターネット上では「普通の男性のハードルが高すぎる!」と話題を呼んでいる。

こういうものを見て、この学歴やこの年収がは全体から見ると普通ではない、高望みしすぎだというバッシングが起こり、ネットの書き込みでは最近は特にそちら側の意見が多数派になっている。

しかし、ここでいう「普通」というのはもちろん統計的な代表値を指すものではない。


単に自分の中のアリなラインにおける普通レベルということだ。


こんなことは通常当然に理解できるはずなのだが、無理やり統計の枠組みにハメて標準的なラインを超えると高望み認定をしたがる人がいる。

また、特に中央値を使うことが好きな人が増えた気がする。

中央値は所得の議論をする時に少し面白い結果をもたらす。所得の分布は異常に多い層がちょこちょこいるので、平均した金額よりも中央値を取ると低めに出る。そのため、「平均年収はこうだと言われているが、実際はもっと少ないのだ!だから平均年収稼いでいる人を求めるのは高望みだ!」のような論理で使われやすい。

そして、勝ちたがりな人がこういった軽い発見のあるロジックを知ったことにより、一般的に知られていない真実を知ったかのような錯覚に陥り、ブンブン振り回すようになる。


その人にとっての「普通」の基準を持つことはいけないことなのだろうか?


拙い統計知識を持ち込んで、その仕組みの中で標準を超えたものを望む人をバッシングして何かを知った気になっている人の方がよっぽど終わっている。


ところで、筆者は学歴や年収で言えば一般的なラインよりも遥かに高い。

仮にそれを求めてくるような、自身は稼げない女性がいたとして、「そうですか」としか思わない。

誰が何を求めようが、本人の自由だ。

こちら側がそれで良ければ全く問題がない。逆に相手が稼げたとしても嫌なら嫌だ。

高望みされても何も支障はない。そもそも、こちらとしては高望みだと思っていない。

むしろ、そういう輩に思ってもいない勝手な代弁をされている方がよっぽど気持ち悪い。

また、他人が求めるものを勝手に制限する感覚も相当歪んでいる。分相応のものしか望んではならないのであれば、持たざる者は何も手にすることができない。


このような悪趣味な統計学が好きな人は、周囲に無用なストレスを振りまいているので悔い改めるべきだろう。




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