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巨象も踊る(著:ルイス V.ガースナー Jr.、訳:山岡 洋一、高遠 裕子、日本経済新聞出版)

IBMの再生という史上最大規模のターンアラウンド案件の実践記録であると同時に、「卓越した組織とビジネス」を構築する上で大事な要素が詰まった名著です。

IBMとはどんな企業か

まず、IBMとはどんな企業かを振り返っておきましょう。IBMは、1911年に創業され、100年以上の歴史を持つアメリカの企業です。当初はパンチカードや事務計算機等を製造する会社でしたが、1952年に磁気テープ・データを使用したデジタルストレージを開発・販売し、パンチカードからデジタルコンピュータへと移行しました。

1964年に、IBMを語る上で絶対に外せない「システム360」が発表されました。このシステム360という製品を開発したことにより、IBMはその後約20年もの間、コンピュータ業界で圧倒的王者として君臨することになります。システム360がどれだけ画期的な製品だったのかは、IBM社のHPを読むとよくわかります。要は、世界で初めて汎用コンピュータを世に送り出したのが、IBMだということです。

21世紀である現在では容易に想像しえないことではありますが、IBM System/360登場以前のコンピューターは、事務処理用、科学技術計算用といった用途ごとの専用機でした。そして、それぞれの用途のコンピューターの間では、互換性がなかったのです。(プログラミング言語でさえも)実は、IBM System/360は「単一のコンピューターが、事務処理、科学技術計算、リアルタイム処理などの多くの用途での利用に対応する」を実現したコンピューターだったのです。つまり、専用ではなく汎用のコンピューターということです。

https://www.ibm.com/blogs/systems/jp-ja/2024-is-the-60th-anniversary-for/

しかし、1980年代になると日本でもお馴染みのApple社が1984年にMacintoshを上市したことに代表されるように、パーソナルコンピュータ、いわゆるPCが次々と世に送り出され、浸透するようになります。現代ではもはや普段の会話で単に「コンピュータ」と言うことすらほとんどなくなってきてしまっているくらい我々はPCに馴染んでしまっていますが、PCが登場した当初はコンピュータといえばシステム360のような大型コンピュータであり、それが小型化して一個人が使えるようになったから「パーソナル」コンピュータと呼ばれました。

コンピュータの小型化が業界に与えたインパクトは大きく、その裏にはいくつもの重要な技術的進展が含まれており、その影響がインテルに戦略転換を迫ることとなりました。この戦略転換の詳細は先日紹介した以下の本に詳しく説明されています。

この本でも触れられていますが、システム360は非常に偉大な製品であるが故に、IBMという企業自体を大きく変容させてしまいました。具体的には、まずシステム360があまりにも圧倒的史上シェアを誇ったため、IBMでは「市場の動向やニーズを把握して、製品や事業に活かす」という普通の企業では至極当たり前のことが不要になってしまったのです。加えて、司法省が反トラスト法(アメリカの独占禁止法にあたる法律)に抵触するとして、IBMは分割命令のプレッシャーに晒されることになりました。これにより、社内では「競争」や「市場」という言葉を廃するよう指示が出るようになり、内向きの思想が強化されてしまうことになりました。

1990年代に入ると、IBMは通常の企業ではとっくに潰れているレベルの巨額赤字を出すようになってしまい、その段階でターンアラウンドのために外部から招聘されたのが本書の著者であるルー・ガースナー氏です。ガースナー氏のキャリアについては本書である程度詳しく説明されているので読んでみてほしいのですが、ハーバードビジネススクール卒業後にマッキンゼーに入り、30代でシニアパートナーに。その後、アメックスで経営経験を積んだ上で、KKRが市場最大のLBOで買収したRJRナビスコにてトップを務めたという、プロ経営者として世界でもトップオブトップともいえる人物です。

本書は、このようにIBMの栄光が崩れ去ろうとしている転落の時期に、プロ経営者のガースナー氏が同社を立て直し、「アメリカの至宝」とまで言われたIBMを再び超一流の企業へと生まれ変わらせるプロセスを描いたものです。

ガースナー氏の経営手腕:ポイント①「タイミング」

前置きが長くなりましたが、本書ではそんなガースナー氏の経営手腕を存分に味わえます。その凄さは、「タイミング」と「絞り込み」にあると私は考えています。

まず「タイミング」について。これは、立て直しのための戦略を打ち出したり、施策を実行したりするタイミングが抜群で、これ以上のベストタイミングはないというくらいのピンポイントだ、という意味です。

IBMの再建では、最初の3ヶ月で方針を確定させ、大きな意思決定を可能にしました。就任前に参加した本社の経営会議にて、最初の90日の優先課題を5つ設定した、と本書に書かれています。

  • 資金流出を止める。資金が底をつきかねない危険な状況にある

  • 94年には利益を計上して、世界全体に、そして全社員に、会社を安定させたというメッセージを送れるようにする

  • 93年と94年の主要顧客向け戦略を策定し実行する。IBMが顧客の利益のために奉仕する姿勢に戻っており、「鉄の塊」(メインフレーム)を押し付けて短期的な経営難から逃れようとしているのではないことを納得してもらえる戦略が必要だ

  • 第三・四四半期初めまでに適正規模を達成する

  • 中期的なビジネス戦略を策定する

そして、4月に就任してから3か月経過後の7月の時点では、次の方針が確定していました。

  • 会社を一体として保持し、分割しない。IBMを情報技術インテグレーターとして価値発揮できる存在にする

  • IBMの基本的な経済モデルを変える

  • ビジネスのやり方を再構築する

  • 生産性の低い資産を売却して資金を確保する

そのうえで、7月の記者会見では次のように発言し、メディアにサプライズを与えました。

「いま現在のIBMに最も必要ないもの、それがビジョンだということだ」
「たったいまIBMに求められているのは、各事業についての冷徹で、市場動向に基づく実効性の高い戦略だ。つまり、市場での実績を高め、株式価値を高める戦略だ。われわれは現在それに取り組んでいる。今最優先すべきは収益性の回復だ。会社のビジョンを掲げるのであれば、その最初の項目は、利益を出して、収益性を回復することにすべきだ」

本書より抜粋

世論は、ガースナー氏がIBMという巨大組織を纏め上げて再建するために、壮大なビジョンを打ち立て、それを発表することが期待しており、この発言は多くのメディアから批判を浴びました。しかし、「経営難の企業の再建は、痛みを伴うことを迅速に実行して、時間を掛けないこと」と本人が語っている通り、冷徹に現実を見つめれば、毎年多量の出血をしている(赤字を出している)巨大企業を再建するには、まず血を止めて経営を安定軌道に乗せることがベストの打ち手です。

周囲のプレッシャーに流されず必要なタイミングで必要な打ち手を出し続け、僅か3か月で再建戦略の骨格を構築し、そこからビジョン策定のような脇道には逸れずに経営安定に注力したことは、企業が置かれている状況と経営実態を踏まえた経営判断として超一流と言えると思います。

ガースナー氏の経営手腕:ポイント②「絞り込み」

2点目は「絞り込み」です。戦略の要は「絞り込み」にあります。以前紹介した「良い戦略 悪い戦略」は戦略論の名著ですが、そこで著者のルメルト氏は次のように語っています。

良い戦略はかならずと言っていいほど、このように単純かつ明快である。パワーポイントを使って延々と説明する必要などまったくないし、「戦略マネジメント」ツールだとか、マトリクスやチャートといったものも不要だ。必要なのは目の前の状況に潜む一つか二つの決定的な要素―――すなわち、こちらの打つ手の効果が一気に高まるようなポイントをみきわめ、そこに狙いを絞り、手持ちのリソースと行動を集中すること、これに尽きる。

(良い戦略、悪い戦略 序章「手強い敵」より抜粋)

IBMという企業は前述の通りシステム360という強力なメインフレーム製品を有しており、この製品を事業基盤として各種事業が派生してきました。一般的には、この総合的にソリューションを提供するというビジネスモデルを解体し、バリューチェーンや事業領域ごとに事業を分割、それぞれの領域で競争力を高めていくことが「セオリー」だとされてきましたが、ガースナー氏はそのやり方ではIBMの強みが失われるため、もっとIBMの持つ強みやリソースを集約・集中させることができる戦略が必要と考えました。

そこで、コンピュータ業界のマクロトレンドを踏まえて、①サービス事業の強化、②コンピュータのネットワーク型への移行に対応した事業構築、という2つの大きな賭けに出ることにしたのです。

PCの登場、そして業界の縦割り型から横割り型への移行により、各社がバラバラにハードやソフトを開発・展開する時代になっていました。それはトレンドとして抗えるものではなかったのですが、顧客は別々の会社が作った別々のハードやソフトを自分達で組み合わせて運用する必要が出てきたので、別のニーズが生まれているとガースナー氏は考えました。

そこで、IBMのサービス事業で目指したのは、顧客の側に立ってコンピュータ関連のニーズを全て満たすこと。ガースナー氏がIBMの事業を分割せず、総合的に機能を有する企業として維持した理由がここにあります。

そして、コンピュータがネットワーク型になってくと、ソフトウェアに価値の中心が移るとも考えました。これは現在では普通の考え方になっていますが、当時はインターネット普及前ですから、非常に先見性が高いと言えます。

IBMは世界最大のソフトウェア会社でしたが、それを自認できていませんでした。そこで、全てのソフトウェア事業を1人の幹部に集約し、研究所も30か所から8か所に統合、ブランドも60から6つに集約して、ソフトウェア企業としての下地を整えました。

そして、ソフトウェアの中でもミドルウェアにフォーカスすることに決め、その戦略に合致する企業であるロータスを買収。その上で、アプリケーション領域から撤退し、IBMのハードウェアで作動するようにして、さらにサービス部門がサポートするようにするという、ミドルウェア領域を軸に総合サービス提供を行うという今でいう総合的なITコンサルティング会社に仕立て上げたのです。

このように、①まずはIBMの強みを明確に捉え、②その強みを一気に集約させて一点突破を図る(この例では、総合サービス提供×ソフトウェア(ミドルウェア))、という点を振り返ると、まるで戦略のお手本のようです。

これは後から振り返ると必然のように見えますが、おそらくガースナー氏以外の人間では実現不可能だったと言えるくらい、難しい芸当でしょう。数十万人が働き、コンピュータ業界のあらゆる事業領域をカバーし、世界中で事業を展開している巨大企業の戦略を、これほどシンプルに絞り込むことは尋常なことではありません。

他にも、今回は触れられていない組織文化の変革にかかる要諦など、本書は企業経営の示唆に溢れた名著です。何故か絶版になってしまっているのが残念ですが(復刊、特に文庫化を強く望みます)、まだまだ中古で流通していますので、ぜひ手に取ってみてほしい一冊です。

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