見出し画像

俺がGenjiだ! 第II章 「ボス」

第II章 「ボス」

1988年8月下旬の話。

その年は例年に比べて忙しく、夏までに大きなツアー2本に参加していた。 そう言うこともあって、秋以降は意識して、スケジュールを入れないようにしていた。

1984年に自分のアルバムを出して以来、仕事の依頼が多く、忙しくて自分自身の活動が出来ない状況が続いていた。音楽を始めてから、自分の音楽活動を何年もやらないことはそれまではなく、自らの音楽活動への欲求が溜まりに溜まっていた。 そこで、その頃は、仕事が一段落した時には、自分のオリジナル・アルバムの制作をやろうと考え ていた。たまたま、その年は前半に仕事が集中して、充分仕事をしていたので、秋以降は、よほどのことが無い限りツアーの仕事は受けないようにしていた。

そんな8月21日の日曜日のお昼前、 午後からは自分がバンド・リーダーを務める女性アーティストMさんの1週間後にあるホテル・イベ ント用のリハーサルがある。そのイベントが終わると久々のまとまったお休み、ちょっと楽しみ、 と思っていたところに、あるアーティストのマネージャーから電話がかかってきた。

「ゲンさん、お元気ですか。ご無沙汰しています。最近はどうされていたのですか」 (その当時、音楽業界では僕は”ゲンさん“と呼ばれていた) 「今年はちょっと忙しくてね、でも、来月からはゆっくりしようと思っています」 「ちょうど良かった。ちょっとお願いがあるんですが、ボスと代わります」

うん?何がちょうど良かったのだ、 ひょっとして・・・

「おっ、ゲンさん、元気にしてた?、ところで、9月から先のスケジュールってどうなってる」

やっぱりそうだ。 

急遽何か手伝ってくれって言うことになるんじゃないか、 と思っていると、

「さっきもマネージャーさんに話したけれど、9月から時間が取れそうなので、この秋は自分のアルバム制作をやろうと思っているんだよ」 

「ということは、スケジュールは空いているって事だよね」       

「うん、まあ空いていると言えば空いているね」
「悪いんだけど、ちょっと力を貸してくれないかなあ」

何か手伝ってくれと言う依頼なのだろうが、 それくらいだったらボスがわざわざ電話してくることはないだろうに。

「どうしたの」 

「今年も9月からツアーやる予定なんだけど、サックスのメンバーが急に都合が悪くなって困っているんだよ」

えっ、今頃になってツアー参加のオファー? 、そのボスのツアーには2年前の85年、86年と2年参加していたが、 その後の2年は他のスケジュールの都合もあって参加していなかった。

「ボスの頼みだったら何とか調整するけど、ところでいつからなの」

「30日からゲネプロが始まって、9月2日が初日なんだよ」       「えっ!それじゃ今から1週間しかないじゃん」             「うん、そうなんだけれどね、こんなタイミングでやってもらえる人はゲンさんぐらいしかいないと思ってさ」

ボスにそこまで言われると断るわけにはいかない。 それに、ボスのツアーはやり甲斐があるし、 やれるだけでもミュージシャンにとって名誉な事なのだ。

「それで、いつごろまでのツアーなの?」

「12月まで、110日で80本」

「えーっ、何、ほとんど毎日」 

「そう、今回は今までの中で一番長いツアーで、最終日は東京ドーム」 

「凄いね、わかった。うーん、なんとかするよ。どうすればいい」 

「マネージャーに代わるから詳しいことは聞いてくれ、じゃあヨロシク」

というやりとりがあって、僕の9月から真っ白だったスケジュールは12月まで真っ黒になった。 ただ、気になることが一つあった。何本かがMさんのスケジュールと重なっていたのだ。 彼女のところは僕がバンド・リーダーだったので、抜けるわけにはいかない。

ボスのところのツアー・ルールは厳格な事で有名で、 ツアー毎に必ずミュージシャンと事務所の間で契約書を交わすほど徹底している。

それだけちゃんとしていると言う事だ。 通常では、1本でもスケジュールが重なって出来ないと、ツアー参加は断られる。しかし、今回は特別措置で、既に決まっているスケジュールに関しては、そちらを優先しても構わないと言うご配慮をいただいた。普通だったら絶対に許されないのだが、空けられないところはエキストラを用意してもらえば構わない、と言うことで了解が得られた。

このときに感じたのは、ボスの運の強さ。
音楽業界の一般通例では、ツアー関連のミュージシャンのスケジュールは実際のツアー時期のおよそ半年くらい前からキープされる。大きなツアーがある場合は、大体1年ほど前からだ。 僕の場合、たまたま自分の音楽制作活動をするために秋以降のスケジュールを空けておいてい たのだ。そんな事は自分にとっては滅多にない事だった。

僕自身のためにポッカリと空けておいたスケジュールに、ボスのスケジュールがうまい具合に入ってしまった事になる。その上、僕は以前にボスのツアーを2回やっているから、 ボスのリクエストは大体分かるので、すぐに要求に簡単に応えることが出来る。 そんな人間がボスの大変な状況時にうまく空いているなんて、奇跡に近かった。

 ボスのこれまでのサクセスストーリーも凄いが、彼の運命の強さをこのとき身をもって感じたのだった。

翌日から早速残されたリハーサルに参加することになった。 通常、ボスのリハーサルは最低でも3週間は行われる。 電話があったのはリハーサルが始まって2週間経った時だったので、残り1週間しかなかった。 8月22、23、25、26と4日間のリハーサルが始まった。

例年、ボスのリハーサルは過酷を極める。
リハーサル環境が一般のアーティストとは全く違うのだ。 真夏だというのに、スタジオの冷房は切ったまま、あらゆる照明がつけられ、その上、何ヶ所かにストーブを置いて部屋を暖める(?)のだ。
今回も例外ではなく、スタジオの温度は40度を軽く超えている。 ボスはその上、何枚もトレーナーを重ね着して動き回っている。

汗びっしょりだ。
ミュージシャン連中も汗だくになってやっている。 これは、その後始まる本番ステージに備えて、予め体を馴染ませる為にボスが考えたアイデアで、 本番でのライトを浴びて動く灼熱環境をリハの段階で擬似体験しておく事で体力をつける為だ。 これまでの経験で言うと、確かに実際に本番が始まると、リハよりも楽に余裕を持って演奏できる。

リハーサルは、よほどのことがない限り予定通り午後1時に始まって、6時には終わる。 時間もきっちりしている。これまで、時間にルーズなロックアーティストを沢山見てきた自分にとって、こんなに合理的で無 駄のないリハーサルを行うのはボスのところくらいだった。「ロックはきっちりしてないのがロックなんだよ」って言う変なポリシーを持つロック・アーティ ストが多い中、ボスは違う。
「無駄なことはせず、楽しく音楽やろうぜ」と言う考え方。 他のアーティストはボスのやり方を見習うべきだ。

リハーサルは、途中で一度休憩があるが、それ以外は集中して行われる。 だらだらとやらないのがボスのやり方。 全ての音楽的な方向性やステージ・アレンジはボスが口頭で指示する。 的確な判断とアイデア出しや演出する力などを見ていると、アーティストというよりも総合プロデ ューサーだ。

リハーサルをしていた時のこと、ボスがみんなの演奏を途中で止めた。

「ちょっと待って、いま自分が武道館のステージに立っている自分を見ているところを想像している。 このやり方でいいのかどうかを判断しているから、少し時間をくれる?」 

自分を客観視している。自分がどうやりたいかよりも、お客がどう楽しんで喜んでくれるかが重要だと言う考え方、つまりお客さんファーストなのだ。エンタテイメントのあるべき姿をそこに見た。 これまでに多くの失敗や苦労を乗り越えて来なければ、こんな考え方をすることはなかっただろう。

リハーサルの日にちはゲネプロ(本番通りやるリハーサル)も含めて6日しかなかった。 しかし、不思議なことに、この時はあっという間に全てがスムーズに完了し、ゲネプロは問題なく 無事に済み、初日のステージを迎えた。

その後の本番は110日で約80本という驚異的過密スケジュール。
日本列島をボス台風が縦断していく、まさにそんな感じだった。80回超のステージで僕自身そしてコンサートに来たファンが何度となく感動し、そして泣いた。 ボスが命をかけて唄っているのがステージを通じて伝わってくるからだ。 同じ時間、同じ空間を共有し、一人のアーティストの生き様をそこに見せられた時、ボス、いや、人間の裸の気持ちが伝わってくる。 一緒のステージに立っていても僕らはあくまでもサポート・ミュージシャンである、ある意味お仕事の部分があるにもかかわらず、それらを超越した素晴らしい感動的な空間がそこにはあった。

それほど、ボスの放つ魂のエネルギーは周りの人間に感動を与える。 一人のアーティストの真摯な“生き様”を見せられて、共感してしまうからだ。
8月のリハーサルに始まって12月21日の東京ドームまで、あっという間だった。

そんなボスもメジャー・デビューするまで何度となくバンドを作っては解散させてきたと言う。 最後のバンドで駄目だったら音楽の道は諦めて故郷に帰るつもりだったらしい。



彼の音楽への執念と愛情が現在のボス、 

矢沢永吉を築いているのだ。

                             沢井原兒

Podcast番組「アーティストのミカタ」やっています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?