見出し画像

現代文学習に対する応答

1.生徒目線での現代文という科目の実情

 現代文という科目について、よくある誤解と言いますか、迷信のようなものについて、まずは確認したいと思います。こういうところから話を始めなければならないということ自体が、現代文という科目のおかれた特殊な状況を表しているとも言えます。たとえば、英語や数学が苦手だという生徒はいくらでもいますが、そのような生徒でも英語や数学は努力して取り組んでも伸びないなどとは決して思っていないでしょう。ところが、よく生徒からの「現代文は伸びにくい」とか「過去問か問題集をたくさんやる」「数をこなして慣れるしかない」とか「読書が一番だ」とか、ひどい場合には「センスの問題だから努力しても仕方がない」「国語に正解はない」といった相談なり意見を耳にします。まったくもってナンセンスな迷信なのですが、未だにけっこう信じられています。それというのも、しばしば生徒は現代文の学習といえば、特定の文章の要旨や背景知識なるものについて「わかりやすい解説を聞く」とか、文章の展開や表現について逐一の「論理的な説明を受ける」とか、結局は大変優れた大人の解説者経由での受身な文章理解を前提とするものだと観念しており、しかもそれが試験の本番ではあまり役に立たないという現実を痛感しているからです。他人の名解説を聞いて特定の文章内容が理解できたとしても、自分で能動的に試験の文章を読んで理解できることには直接つながりません。ましてや設問の答えまで知っている者による、後出しジャンケンのような結果論的本文解説では、生徒の自助努力のためのサポートをしていることにはなりません。教師の語りにはある種の節度が求められていると言ってもよいでしょう。ここで、はっきりと「迷信」を払拭するための考え方を共有しておきましょう。

2.「迷信」の払拭

 現代文が伸びにくいなどと言われたとき、私はよくこう言います。「現代文の正しい学力観を理解したうえで、正しい学習方法で、一貫した継続的な努力をしたことがありますか?」と。そのうえで、「他の科目と比較して相応の学習量であるのに何割しか伸びなかったなどという客観的なデータが得られたわけですか?」と聞いてみます。少々いじわるではありますが、これだけでも、ほとんどの生徒は自分が大したことは何もしてなかったのだと思い起こし、伸びない迷信から半ば覚めてくれます。
 手探り半分あきらめ半分で、闇雲に過去問題や模擬問題の10や20を解いた程度で、どうして有効な学力が身に付くのか。問題集であれ過去問であれ、ただ解いて答えを繰り返してみても、学力が身に付いたり伸びたりするはずはないのです。テスト問題・試験問題というのは、文字通り、学力を試す道具、学力測定のための装置なのであって、学力増強のための手段ではありません。毎日何度も体重を測定し続けても、それ自体に本質的なダイエット効果がないのと同様で、学力を測定していても、学力は身に付かない道理です。ダイエットには正しいカロリー計算に基づく食事や適切な運動が必要です。現代文の正しい学力観と目的に照らしての合理的な学習方法がなければ、「伸びにくい」どころか、伸びないに決まっています。ましてや問題集などの解答・解説に、先述した意味での後出しジャンケンのお手本のような消去法的解答や、本文が十分に理解できている者には解けるなどといったトートロジーのようなお説教が書いてあれば、読んでいても徒労に終わります。
 また、読書についてですが、もちろん読書するに越したことはないでしょう。しないよりは、した方がいい。しかし、成績を上げるために読書をするというような、そんな読書は正直なところ、しないで欲しいと個人的には思っています。自分の志望学部に関する理解を深めるための啓蒙書を読むとか、好きな作家の本を好きなように読んで色々考えるとか、そういうのでいいのではないでしょうか。
 より問題なのは、「読んだことがあれば(もしくは、教わったことがあれば)、その知識のおかげで本文内容が理解しやすくなるだろう」などという、いわば山が当たるのを期待するかのような学習態度です。そんなことで本当に純粋な読解力が養われるのか、はなはだ疑問です。本をたかだか数十冊読んだとしても、その程度では近似するテーマや内容のものが自分の受ける試験問題に出るとは限りません。出そうだから読むといった功利的読書の是非はともかくとして、実際にはなかなか山が当たることはないでしょう。私はむしろ、下手な先入観で誤読されてしまう可能性を懸念します。一方的な内容解説や背景知識の解説などは、たとえ行うべきものがあるとしても、入試の本番で生徒自身に実行可能な本文の読解過程と設問の解答過程の作業に関する講義をきちんと終えてから、徐々になすべきだと思います。また、「抽象的」とか「相対的」とか、基本的な語彙については知っていなければならないでしょう。しかし、それはそのような語彙が論理的文章の一般ツールだからであって、いわゆる頻出だから覚えるというのとは意味が違うと思います。
 大学入試で試されているのは、山当てや生半可なテクニックではなく、むしろ生徒が今まで知らなかった難しい内容について、試験中わずか10分程度の読解プロセスにおいて、どこまで客観的に文章を理解できたのか、そういう意味での読解力でしょう。専門知識は大学入学後に習得するもので、入試ではそうした研究の受け皿としての基礎的能力が問われていると思います。もちろん、そのような意味での真の読解力も、長年の読書経験と表現努力という蓄積があれば、知らず知らずのうちに身に付いているでしょう。しかし、そんなことは受験生としての1年間か、2年間では期待できませんし、期待するべきでもないでしょう。「読書をしなさい」と言うだけが仕事であるならば、国語の教員は退職すべきだとも思います。
 迷信の最後として、「現代文はセンスだ」説や「正解は一つではない」説についてですが、これは理解と感想・批評との違いを考えれば済むことだと思います。別段、国語でなくとも、数学の数式や証明といえども、路傍の石ころ一つとっても、それに対して人が何を感じ、どう意味づけるかは、人それぞれ違っていて当然です。仮に「センスの問題」がこの世にあるとしても、それは正解が複数あるという意味ではなく、正解のある問いは存在しないということであり、したがって、そもそもそんなことは大学入試で問われていないということです。

3.客観的な速読法の原理

 以上のことから、生徒の学力を伸ばすための「現代文の学力観」を端的にまとめると、「生徒が試験中の10分程度のうち、初めて読む難しい文章を、自力で、客観的に読む能力」だと言えます。そのための一般的方法論として、「客観的速読法」の伝授が講義の肝の一つになります。個々の文章の内容を偶発的に話して聞かせるのではなく、さまざまな文章の内容を自力で客観的に読み取るための方法論を講じることが大切だと思います。こういうと難しい気もしますが、世の中の先達には非常に素晴らしい方がいらっしゃって、駿台現代文科の中野芳樹先生が提唱している「客観的速読法」が有効な参照軸になります。
 文章は、筆者が自分の思想・主張をメッセージとして、他者への伝達(=読者と共有化すること)のために生み出されるものです。伝達すべき内容が難解であったり、逆説的であったり、複雑微妙であったりすればするほど、伝達は困難になります。そこで、他者に伝達すべき内容が筆者にとって重大なものであればあるほど、筆者はそのメッセージに表現上の工夫を施し、なんとか伝達の便宜を図ろうとします。たとえば、分かりにくい内容を分かって欲しいと望むのであれば、具体例や比喩を添えると思います。逆説的な思想を伝達したいのであれば、対立の構成や譲歩の展開を用いて、説得性を高めようと工夫します。このように、筆者の立場で言えば「レトリック」であるものに、読者=受験生の立場で「読解法」として着眼すればいいのです。そのような箇所に主述の構文を意識して絞り込んだマーキングを施せば、自然と本文中の重要な箇所を客観的に読みつつ、解く準備までしていることになります。このような読解作業は、方法論が明確であればあるほど、現代文を苦手とする生徒でも比較的容易に慣れることができます。個々の文章内容や難易差に左右されにくく、努力が成果になって表れやすいのでモチベーションも上がります。方法論に慣れてきたところで、改めて内容を意識して読むようにしていけば、すなわち、主題や結論、根拠、論展開を読み込もうとしていけば、ただ何となく要旨をつかもうという意志だけで焦燥に駆られつつ闇雲に読んでいたときとは格段の精度で、正しく読み進めることができるのだ思います。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?